ミュージックビデオの値打ち MVレビュー集、MVランキング 乃木坂46 編

乃木坂46, 特集

(C)乃木坂46 公式サイト

「少女たちのその後のストーリー」

アイドルの魅力は成長の物語にある、と言うけれど、ではその「物語」とは具体的に何を指すのだろうか。このアイドルにはストーリー性がある、と囃し立てるけれど、一体アイドルの何を見て、そう確信するのだろうか。
この問いかけにこたえ、なおかつ、その「こたえ」を他者に向け説得できる人間は少ない。それもそのはず、あるアイドルを眺めそこに力強いストーリー展開を見出す、アイドルを自己の内において物語化する、これは、アイドルの経歴の厚み、たとえば「選抜」に何回入ったのか、とか、「センター」に何回立ったのか、とか、だれと誰が仲が良いのか、写真集が何冊売れたのか、といったアイドルとしてのキャリアやステータス=情報を拠り所にして作られる私情などではなく、たった5分でも構わない、ステージの上で、カメラの前で踊るアイドルの横顔を眺めたファンの個々が、それぞれに育んだ想像の果実だからである。

ではなぜ、アイドルがステージの上で歌い踊るとき、そこに物語性が宿るのだろうか。説明するまでもない。それは作詞家・秋元康の編み上げる音楽=物語と、それを表現するアイドルが私的に通い合っていることをファンのそれぞれが独自に発見するからである。自分の見知ったアイドルの日常が楽曲の内に描かれている、あるいは、自分の聴き親しんだ楽曲の世界観とおなじ匂いをもったアイドルが眼の前に立っている……、この偶会を果たした際に、ファンのこころの内に「アイドルの物語」の萌芽が現れ、”推す”と誓った、夢に乗ると決めたそのアイドルに生命力が宿っていく。
日常、これはつまりそのひとの「素顔」にほかならない。素顔を知れば知るほど、そのひとの”とりこ”になるわけだが、これは対象がアイドルであっても、もちろん、変わらない。

アイドルが歌を唄う、踊りを作る、つまり自分ではないなにものかを演じ自己を表現するのはライブステージの上だけではない。楽曲の持つもうひとつ世界観として企画・制作されるミュージックビデオもまた、アイドルの物語化に一役買う貴重なコンテンツと呼べるだろう。
アイドルが楽曲を演じる際、その台本を書くのが作詞家であり、作曲家なのだが、両者の記す詩的世界の登場人物とそれを演じる少女との接点、つまり楽曲とアイドルの愛着を読み、その言葉では容易に説明できないものを映像=もうひとつの物語として語り、楽曲に新しい価値を生むのが映像作家である、と云うべきだろうか。

ミュージックビデオを眺め、そこに描かれた登場人物の性格・物語を、現実世界におけるアイドルの性格・物語に重ね合わせ、アイドルを語らうファンは多い。当然だろう。作詞家・秋元康の編み上げる音楽と相対した少女の横顔を誰よりもさきに第三者として間近で仔細に眺めることを許可された存在が映像作家であり、ミュージックビデオとは”かれら彼女ら”の想像の果実にほかならないのだから。
換言すれば、音楽とアイドル、という関係を前に想像力を働かせアイドルの物語化を育む人間をアイドルファンと呼ぶとき、映像作家とはこの”ファン”の最先端すなわち極北に立つ人間なのだ。ファンの先頭に立ち(しかもそれは振り返っても後ろにはまだ誰も見えてこない「先頭」である)”かれら彼女ら”がまずアイドルの「現在」を指でなぞり、アイドルを演じる少女に向けた私情を育み、流れる音楽を下敷きにして、その音楽のそなえる世界観へのひとつの解釈としての、もうひとつのフィクションを想像する。そしてそれを映像という作品に仕上げる。
つまりミュージックビデオとは、アイドルの「現在」を仔細に眺めた人間による、もっとも「現在」に近いアイドルの横顔を記録した、アイドルに対する一つの解釈、と位置づけることが可能だろう。アイドルとミュージックビデオが遠く近く響きあうのも、当然の帰結と云うわけだ。

では、この一つの解釈=ミュージックビデオをベースにしてアイドルの物語を読み進めたら一体なにが見えるのだろう、とまた遊び心が湧いた。
とはいえ、ミュージックビデオをヒントにしてアイドルの物語を組み立てる、これはこれまでにも倦むほどアイドルファンのあいだで繰り返されてきた試みであり、今、あらためてそのフィクションを眺めることでなにかあたらしい発見を得られるのか、問うならば、それはなかなかむずかしいようにおもう。おそらく、すでに語り尽くされている。考察、この遊びには否定し難いワクワクさがある。しかし往々にして、そうした”遊び”は時間の経過と共に語り尽くされ、その興奮は枯れてしまうものだ。
そこで考えたのだが、一度、「現実」を忘れてみたらどうだろうか。いや、もちろん本当に忘却することなど不可能であるから、忘れたフリをする、という意味になるのだが。まず「現実」を忘れ、非現実=映像の向こうで動くアイドルの横顔だけを頼りに物語を組み立ててみる。つまり現実と非現実(映像作品)を同時進行で照らし合わせつつアイドルを物語化するのではなく、現実を完全に忘却し、非現実(映像作品)だけを眺めることによってある種のIF=偽史を育んでみる。さらにはそれを現実へとスライドさせ、その偽史の影響力をはかってみる。
この遊び心によって明らかになるもの、それはおそらく、架空の世界に描かれた暗示に対する現実側の応答、とでも云うべきだろうか。

グループアイドル、とくに乃木坂46のMVは「暗示」で満ち溢れている。作り手の工夫によって丁寧に細工されたものから、なんらアイデアを持たない呆れ返るほど安易なもの、あるいは、作り手のまったく意図しないところで生じたものまで、これまでに制作された多くの映像作品の内に、多くの暗示が置かれている。
映像作品で描かれた架空の物語が、現実のアイドルの物語と地続きになっているかのように錯覚されるのはまったくめずらしい現象ではない、ということはすでに述べた。音楽のみに頼って「アイドル」を語ろうとする作詞家の意欲と熱誠に映像作家たちが応えようと奮闘する結果、映像の端々に予言めいたものが立ち現れる。よって、映像の内にアイドルの過去や未来らしきものが映し出されているのではないか、とファンは常に期待と不安で揺れることになる。アイドルそのものが、日常を演じるという現実と仮想を混交した存在である以上、アイドルを眺める際に、フィクションに対するボーダーラインが不分明になってしまうのもまた、退けることのできない結実と云えるだろう。
この、ミュージックビデオの内に込められた暗示あるいは啓示のようなものに対するアイドルの従順さ、もしくは反発度をはかることでアイドルの輪郭がより明確になるのではないか、と考えた。現実のとなりにあるアナザーストーリーを見出すことで、アイドルの物語の密度がより高くなるのではないか、と。
なによりも、肝心なことは、暗示や啓示に満ち満ちたミュージックビデオが作られた後の未来を私たちファンはすでに知っている、という点にある。乃木坂46というアイドルグループが誕生して10年、数々の黙示録が書かれたあとに、実際にどのような未来がおとずれたのか、私たちはすでに目撃している。たとえば、ある作品では主人公=センターに選ばれた少女よりも輝かしい表情を描いた者がいる。突如として出現した少女がその後どのような飛翔を描いたのか、スターダムを印したのか、私たちファンはしっかりと目撃しているし、たとえばある作品では「卒業」を示唆されたアイドルが、その作品を演じた後に、ほんとうにアイドルを卒業したのか、私たちは答えを知っている。つまりミュージックビデオをベースにしてアイドルの物語を読み組み立てるということは、過去と未来を照らし合わせ少女たちの「その後の物語」をより鮮明に描き出す行為だ、と唱えることができるかもしれない。
黙示録、となにやら大仰な表現を用いると遠大におもえてしまうが、要するに、映像作家がアイドルの現在を写実するならば、アイドルを演じる少女をありのままにノートに写すならば、それはそのまま「人間」を描くことと同意であり、つまりは文学である、というだけの話である。文学であるならば、当然、フィクションが現実を迎え撃ち復讐することもあるだろう。

今回はこの「過去と未来を照らし合わせる」という試みのもと、乃木坂46の表題作のミュージックビデオを、あらためてデビュー作から読み批評していく。アイドルの値打ち、と名乗る以上、当然、点数も付した。映像そのものの魅力を問うのはもちろん、その「映像」が後の乃木坂46の物語に、アイドルを演じる少女自身に、どのような影響をあたえたのか、という視点をもっとも重視した。


1st.ぐるぐるカーテン  63

(C)ぐるぐるカーテン ミュージックビデオ

「名匠が手掛けた最初で最後の作品」

映像の色使いに監督の写真家としての特徴がよくあらわれている。カーテンを蝶のサナギに喩え「アイドル」を表現したのだという。そのとおりに、センターで踊る生駒里奈だけでなく、その両燐で踊る生田絵梨花、星野みなみ、後にグループのエースとなる西野七瀬、齋藤飛鳥をはじめとする、乃木坂の地に集まった多くの少女が成長への膨大な可能性を示している。
ただ今日この光景を眺めおもうのは、カーテンというきわめて私的な空間、ポップな衣装をまといそのスカートを捲りあげ、いたずらにあざやかなスペースのなかでアイドルが育まれるという物語によった、AKB48の踏襲にすぎないと嘆かれた当時の評価を遥かに凌ぐ、シーンのトレンドへの迎撃である。「教室」の端=大衆と隔てられた場所でアイドルが密かに描かれる……、これは説明するまでもなく欅坂46の『サイレントマジョリティー』と強く密着するアイドルの編み方、フォーメーションであり、乃木坂46、欅坂46、どちらもまったく同じ場所からアイドルの物語をスタートした、ということを意味している。このデリケートな空気感はグループアイドルの物語として、妥協のない文句なしの書き出しにおもう。
今作品をてがけた操上和美は、おそらく乃木坂46のミュージックビデオをてがける数多の作家のなかで唯一「名匠」の称号を付される人物だが、残念ながら今作品以後、乃木坂46の映像作品には一度も関わっていない。『ぐるぐるカーテン』から8年後、本業である「写真」での再会ならば果たしている。

・映像作家:操上和美
・選抜メンバー:生駒里奈(センター)、生田絵梨花星野みなみ川村真洋能條愛未西野七瀬齋藤飛鳥斉藤優里桜井玲香井上小百合中田花奈市來玲奈橋本奈々未松村沙友理白石麻衣高山一実


2nd.おいでシャンプー  59

(C)おいでシャンプー ミュージックビデオ

「校則制定」

ドラマを作っている。「中田花奈」が”不純異性交遊”によって校章を、菖蒲色のエンブレム=アイドルの資格を剥奪されるという、いまにしておもえば、微苦笑を禁じえない青春学園ドラマを描いている。
映像作品の内に記されたストーリーがその後現実世界のアイドルの物語の暗示として機能する、あるいは機能させられてしまう、という視点、意味においては、今作品は、やや安直だがその典型と呼べるだろう。今作でのピックアップを最後に中田花奈はグループのまぶしい場所から徐々に置き去りにされることになる。とくに、グループ初のダンスナンバーであり当作にもなった『制服のマネキン』において選抜メンバーから漏れてしまった経験は、デビューから一貫してダンスに拘ってきた彼女にとって強烈なオブセッションとなったようである。彼女の言う「全盛期」とは、この『おいでシャンプー』を頂点に指したものなのだろうか。記憶が定かでないが、定番コール「ナカダカナシカ」がファンの口から発声され始めたのは、おそらくこの時期から。
仲間のために大衆と闘う、という点においては前作のテーマを踏襲している。スカートをひらひらとさせる、この点も変わらない。また、HKT48の指原莉乃が「恋愛」の換喩として登場している。

・映像作家:高橋栄樹
・選抜メンバー:生駒里奈(センター)、桜井玲香、中田花奈、岩瀬佑美子、市來玲奈、斉藤優里、生田絵梨花、橋本奈々未、松村沙友理、白石麻衣、高山一実、井上小百合、星野みなみ、西野七瀬、畠中清羅、宮澤成良


3rd.走れ!Bicycle  48

(C)走れ!Bicycle ミュージックビデオ

「バイプレーヤー星野みなみ」

今回は人形劇。「アイドル」とは要するに人形劇であるから、イメージは描きやすい。このMVに引かれた暗示、それは「胎動」である。たとえば、妖精として飛び回る星野みなみを吸収した生駒里奈がその力を得る……、このラストシーンが打ち出すもの、それは平凡で素朴な主人公を他の色彩豊かな登場人物たちが支えるというグループアイドルだけが持ち得る魅力、その成り立ちへ向けた憧憬にほかならない。だがそれは、換言すれば、センターの生駒里奈だけが特別な存在なのではない、つまり乃木坂46、このアイドルグループにあっては、主人公として描かれなかった登場人物でも、いつでも主人公に成り代わることができるのだ、という可能性=胎動へ向けた作り手連中の強い意志が込められている、とも読める。
あらゆる登場人物が次巻において主人公として描かれる可能性を保持している、という点こそこのグループの凄みであり、『走れ!Bicycle』ではそれを予言するような映像を作っている。そしてこの「予言」の先鋒を担ったのが妖精として飛び回る星野みなみであり、たしかに、彼女の踊りには格別な魅力がそなわっており、あたらしい主人公の誕生、その憧憬・遠景への説得力があるようにおもう。

しかし現実に視点を戻すと、バイプレーヤーでありながら作中でもっとも強い存在感を示した星野みなみだが、その後、グループの物語の主人公、つまりは表題作のセンターに選ばれるという夢は叶っていない。あくまでも「名脇役」にその存在感をとどめている。だれでも物語の主人公になれるチャンスが用意されている、可能性を秘めている、これは裏を返せばそれだけ才能豊かな少女=好敵手が横に後ろに並んでいるという意味でもある。序列闘争・順位闘争の場が熾烈になる、これは避けられない。今作から、若月佑美、深川麻衣、伊藤万理華といった魅力的なメンバーがグループの表舞台に登場している。フィクションが後に現実のものとなって姿かたちを現す、これはやはりひとつの奇跡なのだろう。
スカートへの偏執は今作品にも引き継がれている。
また、今シングルの発売とほぼ同時期にAKB48の絶対的な主人公であり、平成を代表するアイドルでもある前田敦子がアイドルの物語に幕を閉じている。

・映像作家:中島哲也
・選抜メンバー:生駒里奈(センター)、生田絵梨花、星野みなみ、桜井玲香、斉藤優里、若月佑美、井上小百合、市來玲奈、伊藤万理華深川麻衣、中田花奈、橋本奈々未、白石麻衣、松村沙友理、西野七瀬、高山一実


4th.制服のマネキン  55

(C)制服のマネキン ミュージックビデオ

「大人への反抗」

真打ち登場と云うべきか。並みなみならぬ力量をもった映像作家であり、今作品提供後、『サイレントマジョリティー』『JOYFUL LOVE』『Sing Out!』『しあわせの保護色』など、傑作が並ぶ。才能とは人を動かすものだが、乃木坂46もまた、映像作家・池田一真の才能に突き動かされ、グループの岐路を払拭した。映像作家の手腕がそのままグループの物語を揺さぶるという点において池田一真の右に出る者はいない。ファンから次回作が待ち望まれる数少ない作家である。
岐路を吹き払った、とは言っても『制服のマネキン』そのものはこれまでの映像作品、その世界観と地続きになっている。とくに『おいでシャンプー』の外伝と言い切っても良い作風で、「恋愛」を下敷きにしたドラマツルギーをテーマにしつつ、社会にあらかじめ作られた枠組みとの衝突・反抗を描いている。成長とはなにかを乗り越えることであるから、「大人」というのは格好の小道具になり得るのだろう。今日、多くのアイドルが「大人への反抗」を歌い、それを眺めるファンが倦みを抱くのも、それだけ『制服のマネキン』の影響が強く、多くの映像作家がこの作品を上梓した池田一真の才能を模倣しているからである。
ただ、今作品で確立したアイドルの作り方、描き方は、乃木坂46の物語には、その後ほとんど波及していない。それは次作『君の名は希望』のヒットによってグループのイロが決定づけられたから、と云うほかにないのだが。大人への反抗を歌うことでアイドルの成長を印すという構図を作った『制服のマネキン』の再来は欅坂46=平手友梨奈の誕生を待つことになる。
黎明期とは、往々にして成長期と重なる場合が多い。『制服のマネキン』はその存在感からも、乃木坂46の黎明期の終わりと、乃木坂46の成長期の始まりを映した作品と捉えるべきだろうか。ダンスナンバーである今作においてもっとも踊りの良いメンバー、それがダンスを不得手とする生田絵梨花である点は意外と云えば意外かもしれない。だがそれは彼女に他のアイドルを軽々と凌ぐ表現力が具わっているからだ、彼女はすでに踊ることの上達はテクニカルな追究ではなく演技の追究にあると一人理解しているのだ、と唱えるのならば、説得力が出るだろう。まだ音を立てず、しかし確実に移り変わろうとするグループの移動力を生田絵梨花は迎え撃っている。

その生田のよき理解者、盟友にもなった、後に乃木坂46のキャプテン(2代目)に就任する秋元真夏が今作からグループの物語に本格的に加わっている。

・映像作家:池田一真
・選抜メンバー:生駒里奈(センター)、生田絵梨花、星野みなみ、能條愛未、齋藤飛鳥、若月佑美、井上小百合、深川麻衣、市來玲奈、西野七瀬、高山一実、桜井玲香、橋本奈々未、白石麻衣、松村沙友理、秋元真夏


5th.君の名は希望  89

(C)君の名は希望 ミュージックビデオ

「乃木坂46=演劇集団の確立」

作曲家・杉山勝彦を天才と称揚するほどに楽曲に会心の手応えを感じた秋元康の希望によってやや過剰な、独りよがりな映像作品が作られている。映画のオーディションという前提、エチュードという設定、つまり現実と仮装の混交を映し出し、ファンの多くを困惑させ、なによりもアイドルを演じる少女たちを狼狽させた。
だが、一本の木を背にして、少女たちのその場その場での言葉の選択によってまったくなにもないところに物語が編み上げられていく点、一人の少女の突飛な言動もすべて物語に含め歩調を共にしなければならない点、とくにフィクションへの没入を試験し、自分ではない何者かを演じることのバカらしさにどこまで真剣になれるのか、凡庸を自覚した上でなお天才を仮装し叫び続けなければならないという少女の屈託の映像化には、グループアイドルへのたしかな写実があるようにおもう。
この、アーティスティックに倒れ込み一般大衆を敵に回してしまった本編に対する緩衝材として提案されたであろう、映像作家・丸山健志の手によるDANCE & LIPを眺めれば、少女たちの演劇にブレイクスルーが起きていることに気づけるはずだ。アーティスティックに倒れ込んだ本編に対する不満をうまく解消しており、純文学性とエンターテイメント性のバランスがうまく取れた作品へと仕上がっている。
つまりは、少女たちが「君の名は希望」と歌ったこの日を、乃木坂46=演劇集団、という図式あるいはパラダイムが確立された瞬間と読むべきであり、乃木坂らしさの萌芽があらわれた瞬間とみなすべきだろう。この時点で、主人公としての存在感を放つ少女が、生駒里奈、生田絵梨花、星野みなみ、白石麻衣、橋本奈々未、松村沙友理、西野七瀬、秋元真夏、桜井玲香、若月佑美、井上小百合、伊藤寧々と10名を優に超え、すでに群像劇を語ることへの独走体勢を構えている。
『君の名は希望』のミュージックビデオがその後グループの物語にどのような影響を与えたのか、読むならば、生田絵梨花のスケッチする「アイドル」のアイデンティティの確立をまず挙げるべきだろうか。『君の名は希望』をして、アイドル・生田絵梨花の代表曲だと呼号するファンは多い。それは生田のアイドルとしての特質と楽曲のもつ魅力が見事に合致したからである。
だが、楽曲のそなえる物語ともっとも強く響き合う少女を探るならば、それはやはり西野七瀬になるのだろう。『君の名は希望』、これは「希望」の発見の物語である。楽曲を通し、ファンがあるいは作り手の多くが発見した、もっとも強く輝く「希望」こそ「西野七瀬」にほかならない。今日、あらためてグループの歴代シングルをふり返ってみれば、西野は1stシングルにおいてすでにその抜群の存在感を発揮しているように見えるが、当時のファンの視点に立ち、物語を順々に追っていくのならば、西野七瀬の存在感がフロントに立つ3名の少女(生駒里奈、生田絵梨花、星野みなみ)に肉薄したのはやはりこの『君の名は希望』を演じた日になるだろう。映像の端々から伝わるその存在感の強さ、こんなに誰かを恋しくなる自分がいたなんて、という詩情と合致するアイドルの空気感には否定しようのない濃厚さがある。センターへの正統性をもたない少女が、しかし自らのちからでアイドルの物語を切り拓いた、というストーリー展開によってその少女に正統性=乃木坂らしさが宿った。「アイドル」にとって、これ以上の希望の物語をほかにみつけることは叶わないし、当然、後日、シーンのあらゆる場所でこの西野七瀬の「希望の物語」の模倣が試みられることになった。
さらにもう一人。今映像作品を機に演劇表現力の高さを見出された秋元真夏だが、結局、彼女はその後「演劇」をアイドルの主戦場にすることはなかった。むしろ秋元は演劇のフィールドから遠ざかった場所でアイドルの物語を積み上げており、この点もなかなかおもしろく感じる。グループとしての活動の幅に選択の余地が出てきた、可能性の幅が広がってきた、ということである。
後日、乃木坂46がNHK紅白歌合戦に初出場した際に披露されたのが今作『君の名は希望』であり、名実ともにグループを代表する楽曲、マスターピースとなった。

・映像作家:山下敦弘
・映像作家:丸山健志(DANCE & LIP)
・歌唱メンバー:生駒里奈(センター)、伊藤寧々、中田花奈井上小百合西野七瀬若月佑美深川麻衣永島聖羅高山一実桜井玲香橋本奈々未白石麻衣松村沙友理秋元真夏生田絵梨花星野みなみ


6th.ガールズルール  80

(C)ガールズルール ミュージックビデオ

「少女の群像と闘争を描いた傑作」

豊穣なドラマを作っている。思い出のプール=かけがえのないものとなった乃木坂46を、「大人」から守るために少女たちが闘争を決起する、というストーリー。デビュー以来、常に乃木坂46の先頭に立ち続けてきた生駒里奈に代わり白石麻衣があたらしくセンターに立った、というそのグループのきわめてエモーショナルな動向を、しっかりとひとつの物語として映像世界に落とし込み、語っている。
あたらしく物語の主人公に選ばれた少女が、グループを守るため「大人」たちの前に独り立ちはだかるかつての主人公の横顔を眺めることで、センターの意味を理解し少女の内にもグループの物語に対する正統性が宿りはじめるという、グループアイドルにとってもっとも重要な、そしてもっとも強い魅力を放つ話題、つまりグループの歴史にアイドルの系譜図が引かれていくその瞬間を映像化し、記録している。
作品のテーマそのものは『おいでシャンプー』の踏襲であり、やや陳腐に感じるものの、桜井玲香を筆頭に、グループのバイプレーヤーである少女たちがブラシを振り上げ、孤軍奮闘する生駒里奈のもとに駆け寄り、「大人」との闘争についに加勢したシーンには文句なしのカタルシスがある。なによりも、アイドルがとびきりに瑞々しく、幻想的に撮れている。
今作『ガールズルール』においては、映像作品が現実に影響をあたえる、ではなく、まず現実があり、その現実をミュージックビデオに落とし込み、フィクションを作る、という試みがなされている。この逆転が示すもの、それは作品の画一化への危うさだが、この時点ではまだまだ目新しく、作り手、アイドル、共に生彩がある。とくに、現実の話題(たとえば選抜発表直後に生駒里奈が倒れるといった、けして消滅しない屈託を抱えるアイドルのストーリー展開)が映像作品に直に落とし込まれることで、作品内に描かれる登場人物がアイドルを演じる生身の自分自身であると錯覚する少女があとを絶たず、ミュージックビデオで描いた物語の続きを現実世界で披露するような、現実と仮想のひずみに囚われるアイドルが誕生した点には尽きない興趣がある。アイドルが現実を見失うならば、当然そのアイドルを仔細に眺めるファンもまた、現実を見失うのである。
一方で、シーン全体を俯瞰すると、AKB48が『恋するフォーチュンクッキー』を発表し指原莉乃を先頭にして、多くの見物人が集まった表通りを闊歩しているのが見える。向かうところ敵なし、といった様子。

・映像作家:柳沢翔
・選抜メンバー:白石麻衣(センター)、松村沙友理、橋本奈々未、伊藤万理華、井上小百合、中田花奈、若月佑美、星野みなみ、秋元真夏、深川麻衣、斉藤優里、桜井玲香、生田絵梨花、生駒里奈、西野七瀬、高山一実


7th.バレッタ  51

(C)バレッタ ミュージックビデオ

「不遇の2期、そのエースの登場」

今作もまた、現実におけるアイドルの物語の映像化、である。グループに加入したばかりの2期生がセンターに抜擢されるという現実の物語を、MVによって語り直している。「制服のマネキン」のオマージュにはじまり、前作の主人公・白石麻衣があたらしい主人公である堀未央奈に背後から撃たれ倒れるというフルーレを、アイドルの現実の屈託を目撃したばかりのファンを情動で激しく揺さぶるような、想像力の欠如した、「考察」という遊び心を満たそうとする、あられもないストーリー展開をもって記している。「だって、こうするしかないじゃない」と呟いた堀未央奈だが、これは要するに、グループのセンターに立てるのは一人だけなのだ、という作り手の思惟、その代弁に相違ない。
しかしその代弁によって育まれたファンの情動とは、堀未央奈=2期生に対する「反動」のみであったことはあらためて語るまでもない。堀未央奈の横顔を通し、その境遇に恵まれた新人との相対としての、残された2期生をして「不遇の2期」なる呼称まで作られる始末。今作品以後、堀未央奈がグループの主人公つまりは表題作のセンターポジションに選ばれることは一度もなかったし、その他の不遇の2期生も表題曲のセンターには誰一人立っていない。暗闇からひかりある方を眺めるような、ネガティブな感情からはけして「希望」は生まれない、ということなのだろうか。とはいえ、希望の見えないところから「アイドル」の物語がはじまるのだ、という感慨は、今日の、乃木坂46第四期生以降の、グループの物語の主流となったこともまた事実である。
また、今作ではデビューからグループの顔として機能してきた星野みなみがはじめて「選抜」から落選し、アンダーメンバーに落ち込んでいる。一方では、衛藤美彩、中元日芽香といった一筋縄ではいかない「個性」が表舞台に登場している。

・映像作家:江湖広二
・選抜メンバー:堀未央奈(センター)、西野七瀬、白石麻衣、橋本奈々未、松村沙友理、伊藤万理華、衛藤美彩、齋藤飛鳥、秋元真夏、深川麻衣、中元日芽香川後陽菜、高山一実、桜井玲香、生田絵梨花、生駒里奈、若月佑美


8th.気づいたら片想い  85

(C)気づいたら片想い ミュージックビデオ

「アイドルの儚さを描いた、西野七瀬の出世作」

アイドルの儚さを、風に吹かれ生命を喪失する綿毛に喩え、物語っている。アイドルとは「余命」があるからこそ、うつくしく、儚いのだ、ということを表現している。仲間たちにその「命」を守られながら、センターに立ち自己を育んでいくという、アイドル・西野七瀬の有り様を克明に打ち出した名作。
今作品の「特筆」は、西野七瀬を眺めた作り手連中が、その魅力に囚われ、アイドルの素顔への想到を、そのまま作品世界に描き出している点である。これが西野七瀬だ、と熱弁している。ゆえに、今作品が現実に波及するとすれば、その波のほとんどが、あたらしくグループのセンターに立った西野七瀬に帰すだろう。
西野七瀬の魅力とは、彼女の横顔を一度でも指でなぞってしまったら、誰もが抑えきれずその物語を他者に語り奏でようとトルバドゥール(詩人)になってしまうという不思議な希求力にある。そうして詠われた理想と妄想を前にして、その他者の幻想になりきってしまう、なおかつその演劇の最中に自身の日常の素顔を大胆に提示してしまうところに西野七瀬の才能があり、それはまさしく、正真正銘のアイドル、と形容するほかなく、真に「主人公」への業を背負っている。たとえばそれは、ミュージックビデオの導入部で描かれた、センターに選ばれた彼女へ次々と祝詞が述べられるという、作り手が自身の興奮をファンに教えようとする、やや過剰ともおもえるシーンによくあらわれている。
そうした興奮を通してグループの物語に目を落とすと、今作『気づいたら片想い』をもって、これまで均衡を保っていた乃木坂46のアイドル間でのパワーバランスが一気に崩れ、西野七瀬の一強になった感がある。星野みなみは言うまでもなく、”御三家”と名付けられグループのあたらしい顔となった白石麻衣、橋本奈々未、松村沙友理、そして黎明期・成長期の立役者でもある生駒里奈、生田絵梨花でさえも、西野七瀬の前ではバイプレイヤーにしか見えない。この西野の一強状態は彼女が卒業するその日までつづくことになる。とはいえそれはあくまでもアイドルとしての人気・実力に限った話であり、乃木坂46はその後も多くのセンターを排出しシーンに活力を与えていることにかわりはないのだが。
「不遇」の物語化によって、アイドルの、ではなく、グループアイドルのバイブルとなった北野日奈子が、その物語の書き出しを記した作品でもある。
また、この時期、AKB48では、前田敦子と並んだ主人公・大島優子がその物語に幕を閉じている。

・映像作家:柳沢翔、澤本嘉光
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、橋本奈々未、生駒里奈、川村真洋、北野日奈子樋口日奈、秋元真夏、和田まあや、高山一実、堀未央奈、白石麻衣、桜井玲香、若月佑美、生田絵梨花、松村沙友理、深川麻衣


9th.夏のFree&Easy  24

(C)夏のFree&Easy ミュージックビデオ

「箸にも棒にもかからない」

前作『気づいたら片想い』から引き続き、西野七瀬をセンターに迎え、彼女を中心とした映像作品を編んでいる。しかし、前作とは打って変わり、見るべきところ少なし、といった印象。映像から作家の私情のようなものを一つも受け取ることができない。
交換留学生として松井玲奈が選抜メンバーに名を連ねている。乃木坂46の礼儀正しさ=清楚というイメージの原動力・模範となったのがほかでもない松井玲奈であるから、『夏のFree&Easy』はグループにとって一つの端境期となった作品と読むことが可能である。また、深川麻衣の存在感が徐々に強くなりつつあることも映像の内に見る。映像作品全体を通し、当時の渋谷の様子がキレイに記録されているから、郷愁を誘うところもあるにはある。しかしこの作品が現実の物語の影のひとつになったのか、と問うならば、現実のどこにも残響していないようにおもわれる。
特筆すべき点をあえて探るならば、今作以降、同一のメンバーが2作品連続で表題作のセンターポジションに選ばれる、というストーリーを乃木坂46は作っていない、この点になるだろうか。西野七瀬以降、力強いストーリー展開に相応しい登場人物が出てこない、ということなのか、あるいは、今作における「失敗」が作り手を無意識に縛っているのか。
また、斉藤優里、彼女は今作を機に、そのアイドルとしての出自、とくにガールズルールにおいて芽生えた存在感
から、”夏女”と名づけられ、ファンに親しまれることになる。

・映像作家:丸山健志
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、若月佑美、秋元真夏、桜井玲香、深川麻衣、生駒里奈、衛藤美彩、井上小百合、斉藤優里、星野みなみ、大和里菜、堀未央奈、高山一実、松井玲奈、白石麻衣、橋本奈々未、松村沙友理


10th.何度目の青空か?  71

(C)何度目の青空か? ミュージックビデオ

「『君の名は希望』、生田絵梨花主演で待望のドラマ化」

上手な人間喜劇を描いている。
元女子校に入学した男子生徒=「僕」が、一人の少女=「君」と出会い、その笑顔に救われるという、群青色にかがやく青春の物語。要するにこれはアイドルとそのファンの邂逅を描いた『君の名は希望』のドラマ化である。『何度目の青空か?』のMVを眺めれば、それが『君の名は希望』の続編=語り直しであることは、グループのファンであればすぐに気づくだろう。
『何度目の青空か?』が素晴らしいのは、これまでの物語においてバイプレーヤーに徹してきた一人の少女が満を持して主役として登場し、なおかつ、かつての主人公たちが脇役を好演する、豊穣な人間群像を確立した点である。清楚、処女性の高さといった修道院的な閉塞感から、闖入者である男子生徒に対し、度が過ぎる悪ふざけを企図する白石麻衣、西野七瀬。それをあふれ出る正義感と機知によって物語ごと転換させてしまう生田絵梨花といった、それがアイドルを演じる少女の素顔であると確信させるような、これまでのどの映像作品にも描かれなかったアイドルの相貌を描き出している。完全なフィクションでありながら、しかしファンが心のどこかで期待し想像するアイドルの素顔に肉薄するという、希望への通路が敷かれている。
ただ、その横を走る現実に目をやると、映像作品が伝えた「希望」どおりにグループの物語が作られる、という展開は起きていない。曇り空を一掃する青空という、甘美な幻想を提示した一方で、現実の側では恋愛スキャンダルという、作詞家・秋元康よろしく表現するならば、夢に結ばれた少女たちの離散を招く強烈な雷鳴が響きわたり、「アイドル」でありながら、現実が幻想に勝利するという事態にグループが直面している。
ミュージックビデオは傑作である。しかしその後のグループの物語に対する作用はほとんど見られない。このすれ違いを前にして想像を飛躍させ、あるIFを見出すならば、それはグループの主人公として生田絵梨花を推すのか、西野七瀬を推すのか、というこれまでにない大きな岐路である。
『何度目の青空か?』が作り手の芸術家としての情熱とエンターテイメントにおける企図の合致した幸福な作品であることは言うまでもない。楽曲の完成度の高さを見るに、ここぞというときのために大事にあたためられたアイデアだったのではないか。その期待通り、『君の名は希望』という奇跡的なヒット作の余韻を少しも損なうことなく語り直すことに成功したのだから、その作品のセンターに立った生田絵梨花に対する称賛と驚嘆、これはもう大変な騒ぎになったはずである。西野七瀬と生田絵梨花、互いに異なる魅力をもったアイドルを前に、これからどのように物語を作るべきか、興奮の悲鳴をあげたに違いない。しかし期せずして生田絵梨花を主役に据えた物語が現実にあっさりと敗北してしまった。運がなかった、と云ってしまえばそれまでなのだが、指導者とは、往々にして、なによりも運の女神に愛された人間を重宝するものだ。大事な局面で運に見放されてしまうような少女を推すことはむずかしい。一方では、たしかな強運を持っている、強い星の下に生まれたと確信させる少女がいる。結果、『何度目の青空か?』で華々しくセンターに立った生田絵梨花だが、青空に希望を見出して以降、アイドルを卒業するその日まで、表題作のセンターに立つことは一度もなかった。
アイドルとして、というよりも、グループアイドルとしてのキャリアを断念した生田からぐんぐんと遠ざかるように、もうひとりの逸材である西野七瀬はグループの主人公として描かれ続ける。卒業までに彼女がセンターに立った回数は、実に7回と生田を打倒している。西野七瀬と生田絵梨花、奇しくも『君の名は希望』においてアイドルの物語化を達成し他のアイドルを圧倒した二人の少女だが、大きく明暗を分ける結果となった。今作『何度目の青空か?』はその岐路と読むことができるかもしれない。

・映像作家:内田けんじ
・選抜メンバー:生田絵梨花(センター)、衛藤美彩、若月佑美、堀未央奈、星野みなみ、高山一実、斎藤ちはる、松村沙友理、秋元真夏、生駒里奈、桜井玲香、深川麻衣、松井玲奈、白石麻衣、西野七瀬、橋本奈々未


11th.命は美しい  67

(C)命は美しい ミュージックビデオ

「夢見る多くの少女に影響を与えた」

「現在」のグループの豪奢さ、勢いを反映したような、きわめて豪華なセット、衣装を準備し、魂を燃え立たせるようにしてアイドルが踊っている。踊ることでアイドルのそれぞれが、個々に個々の物語を語ろうとするような、そんな音楽を作っている。『制服のマネキン』以来の、本格的ダンスナンバー、と云うべきか。
だが今作『命は美しい』の作風をたずねられた際、センターポジションで踊る西野七瀬は『命は美しい』がダンスナンバーと扱われることに首を傾げている。おそらくは、踊ることで楽曲の世界を表現した、という気概を持たないのだろう。彼女にしてみれば、踊ることでしか今は表現できなかった、に過ぎないのではないか。そうした彼女の衝動としての正直さ大胆さに触れ、その生き生きとした刹那の日常を前にして、この少女ならばアイドルの儚さ命のうつくしさと強さを歌った『命は美しい』を表現できるのではないか、作り手は確信したのかもしれない。そのような期待がほんとうにあったのかどうか、わからないが、乃木坂46がこれまでに育んできた演劇表現力と、踊りでなにかを表現しようとする思い込み、熱量がうまく調和し、見ごたえのあるミュージックビデオになっている。
楽曲のタイトルに触れ、また、センターで踊る少女の横顔を眺め、すぐに思い至るのは、『気づいたら片想い』のMVで描かれた主人公「西野七瀬」の再登場である。しかもこれは安易に『気づいたら片想い』の続編を書いたわけではなく、西野七瀬が『気づいたら片想い』の主人公を演じたことによってそれが現実へと波及し、(作り手また多くのファンの内で)まず『気づいたら片想い』の主人公・西野七瀬が現実の世界の西野七瀬へとなり代わり、その現実の世界の西野七瀬を眺めた作り手が「命」をテーマした楽曲で勝負したい、と考え制作されたようにうかがえる。これにはたじろぐものがある。やはり、この、作り手の思惟になりきってしまう点こそ西野七瀬というトップアイドルのアイデンティティなのだ、と確信の興奮におそわれる。
命をテーマにした作品を前にして、格好良い、などという称賛は場違いかもしれない。だが今映像作品を眺め、強く儚く美しい西野七瀬の物語に触れ、グループアイドルの格好良さに気づき、アイドルに憧れをもった少女、アイドルの扉をひらいた少女があとを絶たなかった、という点はアイドルの消長を問う際にけして看過すべきではないだろう。ひとつのフィクションが「現実」を衝き動かしたわけである。
また、『命は美しい』は西野七瀬というアイドルが冠絶したライブ表現力を把持することを証し立てる作品でもある。踊りが格別に良いからセンターで踊ることが許可される、というアイドル観の実現においても、次の時代を生きる少女たちに多大な影響を与えた作品とみなすべきだろう。それは、今作を機に、後にグループのエースとなる齋藤飛鳥がその存在感を強めつつある、という点によくあらわれている。なによりも、ダンスの才能をもった彼女が、ステージの上での表現力を強く求める楽曲=ダンスナンバーで「選抜」に復帰した、という物語の編み方に作り手の美意識を感じる。
相楽伊織がグループの物語に本格的に参入した作品でもある。

・映像作家:井上強
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、松村沙友理、相楽伊織、齋藤飛鳥、伊藤万理華、堀未央奈、星野みなみ、衛藤美彩、高山一実、若月佑美、秋元真夏、生駒里奈、桜井玲香、深川麻衣、松井玲奈、白石麻衣、橋本奈々未、生田絵梨花


12th.太陽ノック  72

(C)太陽ノック ミュージックビデオ

「乃木坂46・1期の集大成」

才能豊かな少女たちに囲まれてしまった独りの主人公の、苦悩の劇。しかもその苦悩が、苦悩の原動力であるライバルたちに支えられることで解決され、やがて主人公が前に向き直るという、ひとつの大きな、しりぞけることのできない乃木坂らしさを打ち出した群像劇を作っている。たとえば、『何度目の青空か?』で描かれた生田絵梨花のキャラクターがそのまま再利用され、活写されているが、今映像作品においてはその正義感が主人公としての魅力ではなく、端役としての、群像を成立させるための楔として機能している。作品毎に登場人物=アイドルが異なる相貌を見せる、という点においてやはりこれは青春の群像と呼ぶほかない。
ただ、今作品はこれまでの映像作品で描いてきたような、センターに立つことへの期待・歓喜といった希望ではなく、センターに立つこと選ばれることへの屈託を描いており、「自己再生」をテーマに置いている。こうしたテーマ、屈託とは実にAKB的である。『太陽ノック』は、絶対的な主人公(しかもその主人公とは他のだれよりも凡庸な人物である)をグループの中心に置くというAKB的な存在感をそなえた生駒里奈と、才能豊かな少女の集合=群像という乃木坂46の存在感が対峙し融け合った作品と呼ぶべきだろう。
こうした感慨を持ったまま現実に帰還し、当時のシーンを回想するならば、そろそろ気になってくるのは、AKB48と乃木坂46の力関係である。乃木坂46がAKB48を”越えた”日、それはどのシングルを指すのだろうか、という問いかけである。
AKB48から乃木坂46へとシーンの主流が覆った日、乃木坂46がAKB48に勝利した日を探る、これは実は容易い試みである。方法は、両グループが吐き出す楽曲の質を眺める、ただそれだけで良い。
まずAKB48の表題作をふり返ってみると、AKB48の表題作が良かったのは2015年に発表された『Green Flash』『僕たちは戦わない』まで。同年に開催された選挙イベントにおいて1位となった指原莉乃をセンターに迎えた『ハロウィン・ナイト』の失敗を機に、以降、AKB48の表題作はすべて、再視聴に値しない、ほとんど聞く価値もない作品で溢れかえっている。
一方で乃木坂46の表題作を振り返れば、2013年に発表した『君の名は希望』でのヒット以降、2014年の『何度目の青空か?』2015年の『今、話したい誰かがいる』2016年『サヨナラの意味』2017年『逃げ水』2018年『帰り道は遠回りしたくなる』、と間断なく質の高い作品を提示し続けている。であれば、両グループの岐路、これは一目瞭然である。AKB48から帰還した生駒里奈がセンターとして再登場し、AKBらしさと乃木坂らしさの対峙を描いた『太陽ノック』が発売された2015年を両グループの岐路と読むのが妥当だろう。『太陽ノック』においてセンターに返り咲いた生駒里奈の相対として映し出されたものが、AKB的な主人公の敗北であった、つまりAKB的な主人公感をそなえた生駒里奈が圧倒的な群像=乃木坂らしさに飲み込まれてしまった。この瞬間、AKB48の敗北が決定づけられたのである。
ちなみに新内眞衣が2期生でありながら1期生感なるものを放ち、乃木坂らしさ、その群像に混ざりあうのは、この1期の集大成として描かれた『太陽ノック』に2期でありながら紛れ込んでいたことに起因する、と私は想像している。

・映像作家:三石直和
・選抜メンバー:生駒里奈(センター)、松村沙友理、斉藤優里、星野みなみ、齋藤飛鳥、伊藤万理華、井上小百合、新内眞衣、衛藤美彩、高山一実、若月佑美、桜井玲香、秋元真夏、深川麻衣、白石麻衣、西野七瀬、生田絵梨花、橋本奈々未


13th.今、話したい誰かがいる  89

(C)今、話したい誰かがいる ミュージックビデオ

「百花繚乱の印」

和気あいあいとしたダンススクールを遠くから眺めるひとりの寡黙な少女が、色とりどりに咲く少女たちと、手話とダンスを通して絆を編む、青春のドラマ。
言葉どおり、百花繚乱と呼ぶに相応しい人間喜劇を作っている。間違いなくグループがキャリアハイ=黄金期にあり、アイドルの作るミュージックビデオとしては最高度の輝きをもっている。『気づいたら片想い』を下敷きにしつつ、アイドルのもつ儚さと活力を教える筋立てのうまさには舌を巻くものがある。
才能とは、才能があるところに集まるものである。このグループがおもしろいのは、アイドルの成長を前にした多くの作り手が、自身もまた成長を示す点だろう。人は自身の才能に頼って動く一方で、他者の才能によっても突き動かされ、夢を叶えるのだ。
西野七瀬と白石麻衣、という軸は壊さないが、あくまでも主役は西野七瀬である(西野七瀬のメランコリー、内向さを「手話」で表現するのはズルい)。しかしこの構造をもったほうが白石麻衣というアイドルの存在感はいや増すのだから、作り手の内にグループアイドルへ対する深い理解・妄執があるのだろう。白石麻衣とは、その圧倒的な存在感によって、後日、白石麻衣の卒業=グループの衰退と捉えられることになるが、白石麻衣の喪失がグループの衰退を招くのではなく、白石麻衣をグループの主人公として描かざるをえないその状況こそグループの衰退なのだ、という事実を今作は証しているようにおもう。
1期の歴代センターが勢揃いし、1期のみで構成された今作『今、話したい誰かがいる』の歌唱メンバーをして、グループの歴史においてもっとも豊穣な、完成された「選抜」だと呼号するファンも多い。次作『ハルジオンが咲く頃』を機に、グループの物語にアイドルの卒業と次世代アイドルの誕生というめまぐるしい物語が刻まれ続けることになった展開に鑑みれば、たしかに、今作までの物語を、純粋な希望の書と読み、また『今、話したい誰かがいる』を現実と幻想に向ける理想が完全に一致した最初で最後の作品とみなすべきかもしれない。
ダブルセンターというディアルキアをグループがはじめて採用した作品でもある。
今シングル発売の2ヶ月後、NHK紅白歌合戦に初出場した。

・映像作家:萩原健太郎、澤本嘉光
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、白石麻衣(センター)、桜井玲香、若月佑美、生駒里奈、松村沙友理、伊藤万理華、井上小百合、齋藤飛鳥、高山一実、橋本奈々未、生田絵梨花、秋元真夏、星野みなみ、衛藤美彩、深川麻衣


14th.ハルジオンが咲く頃  34

(C)ハルジオンが咲く頃 ミュージックビデオ

「ヴァシレーション」

アイドルの「卒業」と「卒業後」をテーマにした作品。ファンの共感を得ようとする、好感を誘おうと企図する、アイドルの稚気を描きつつ、ひとつの出逢いと別れ、そしてそのたったいま別れた”彼女”とすでに過去に出会っていたのだ、という「再会」の物語を書いている。
今作品を眺めるに、乃木坂46の作り手の内で、ミュージックビデオへ向ける思惟に転向があったようにうかがえる。『ハルジオンが咲く頃』のMVは、現実の物語をミュージックビデオに落とし込み語る、ではなく、ミュージックビデオの内に描かれた物語が現実へと神秘的に浸透していく、でもなく、ミュージックビデオのなかで語られた物語が現実のものになるかもしれないというファン心理を利用しようとする、明確な企図・意味をもっている。ファンがミュージックビデオと現実を混交して扱うならば、それを利用して自分たちの思惑通りのストーリーを作れるのではないか、という作り手の思惟を作品の端々に目撃してしまう。
ただ、こうした見え透いた企図というのは、往々にして失敗するものである。理由は単純明快で、なんら脈絡をもたない人工的な物語を前にして、ファンの興が削がれてしまうから、である。
このミュージックビデオで準備された予言の最たるもの、それは深川麻衣の意志を継ぐ堀未央奈という構図だが、その後の現実の物語を見ればわかるとおり、堀未央奈が『ハルジオンが咲く頃』を継ぐことはなかったし、”次のセンター”になることもなかった(次のセンターに選ばれたのは齋藤飛鳥であった)。たしかに、今日、あらためて乃木坂46の物語を眺めてみれば、堀未央奈のセンター復帰のチャンス、これは『ハルジオンが咲く頃』の次作がタイミングとしてはもっとも妥当に感じる。いや、ここがラストチャンスにすらみえる。彼女のキャリアハイは『逃げ水』当時であるから、3期の台頭を凌ぎセンターに立つには、やはりこの時点でセンターに返り咲いておく必要があったのだろう。しかし現実には齋藤飛鳥が次世代の主人公として名乗りを上げ、その後期待どおりに、シーンを牽引する乃木坂46のエースへと成長した結果に鑑みれば、当時の作り手の采配の修正、勘は正しかった、と云うほかないのだが。かつて西野七瀬と生田絵梨花のあいだで揺れた作り手が、もう一度おなじように齋藤飛鳥と堀未央奈のあいだで揺れていたのかもしれない。今作品の見どころは、このような、アイドルの序列闘争が映すヴァシレーションと云えるだろうか。
グループの歴史においてはじめて”卒業センター”の称号を授かった深川麻衣だが、彼女自身のもつその甘やかな魅力とは無関係に、作品そのものは魅力に乏しく、失敗に終わっている。

・映像作家:山戸結希
・選抜メンバー:深川麻衣(センター)、齋藤飛鳥、高山一実、衛藤美彩、秋元真夏、星野みなみ、桜井玲香、若月佑美、松村沙友理、生駒里奈、伊藤万理華、井上小百合、堀未央奈、橋本奈々未、西野七瀬、白石麻衣、生田絵梨花


15th.裸足でSummer  61

(C)裸足でSummer ミュージックビデオ

「チャプター2のイントロダクション」

次世代エースの誕生、その期待感の結実を描いた、また、チャプター2の開始を告げた作品。新章への移行を、バカンス=旅をする少女たち、というあくまでもわくわくする冒険譚として描いている。
齋藤飛鳥がグループの絶対的なエースとして屹立する今日のシーンを知ったうえで、あらためて『裸足でSummer』を眺めれば、たしかに、その導入部には胸躍るものがある。西野七瀬、白石麻衣、生田絵梨花等がまだまだ意欲的にアイドルを演じていた当時のシーンにあってこうした大胆な、希望に満ち溢れたイントロを描けてしまえる点は、作家に才能がある、と云うべきだろう。見事に時代を迎え撃ったわけである。
次から次へとあたらしい主人公が現れるグループだが、その主人公たちのなかでも齋藤飛鳥はきわめて独特な光輝を放つ登場人物である。その横顔には、その日常の佇まいには、すこしだけ変わったところがある。しかし、その「変わっているところ」が自分と似ているな、と共感を誘うアイドル、と評価すべきだろうか。つまり無限大の魅力をもっている。今作品がおもしろいのは、その、すこし変わったところ、をまだまだ未知なものとして解釈した作り手が、齋藤飛鳥の魅力を手探りしながら語っている点である。そうした探求心、なにがなんだかよくわからないが、その”わからなさ”の内にこのひとの魅力があるようだ、という作家の無意識の確信が楽曲の世界によくあらわれ、齋藤飛鳥の魅力を存分に知ってしまった未来に立つ私たちが、今、『裸足でSummer』を眺めると、そこによく見知った「齋藤飛鳥」を目撃し、郷愁に駆られ、感嘆するわけである。
過去に描かれた幻想が、現実の未来と強く結びついた、実りある作品。

・映像作家:丸山健志
・選抜メンバー:齋藤飛鳥(センター)、北野日奈子、星野みなみ、西野七瀬、白石麻衣、生田絵梨花、若月佑美、生駒里奈、堀未央奈、中元日芽香、高山一実、衛藤美彩、松村沙友理、秋元真夏、桜井玲香、橋本奈々未


16th.サヨナラの意味  85

(C)サヨナラの意味 ミュージックビデオ

「『卒業』の物語の金字塔」

まさしく、グループアイドルの集体ここに成る、と云うべき作品。
棘人、という触れること触れられることに「躊躇」する、美しくも悲痛である存在をアイドルに喩え、その棘人=アイドルとの出会いと別れを描いた、架空の世界の、もうひとつの世界の物語。
楽曲に付された詩情つまり作詞家・秋元康の熱誠にひとまず逆らわず、愛する人との「別れ」を希望として描いている。ここではないどこかへ、をテーマに置き、アイドルの卒業とは、次のほんとうの夢への出発にほかならない、とうたっている。とはいえ、物語のラスト、電車に乗り旅立つ主人公を前にして、橋本奈々未の横顔を前にして、ファンが抱いたのは、希望などではなく、尽きることのないなごりであったようだが。
つまり今作品が現実にあたえた打撃とは、アイドル・橋本奈々未の神格化であり、これから間断なくおとずれるであろうアイドルの「卒業」に対し、前向きになれ強くなれ、という作詞家の熱誠は一切叶わず、置き去りにされてしまった。平成が終わり、令和がはじまった現在、あいもかわらずアイドルの卒業は嘆かれ、グループアイドルシーンの衰退をまねく大きなイベントとされている。
『サヨナラの意味』は、名実ともにシーンの頂点に君臨したグループが総決算として取り組んだ作品だが、結局、シーンの軌道を捻じ曲げるはできなかった。この疵があきらかにするもの、それは作曲家と作詞家が強く響き合いアイドルの物語化に試みるような、強い憧憬をそなえた作品を作ったのに対し、ミュージックビデオの制作陣だけはそこから遙か遠い場所、まったく異なる空間に立ってしまっている点だろう。
『サヨナラの意味』を読んでまず気づくのは、それが『君の名は希望』の続編あるいは後日の話である、という点である。転がってきたボールを拾ったことで希望と出会ったあの「僕」が、希望=「君」との別れを想う物語が『サヨナラの意味』である。アイドルとの出逢いを描いた物語が『君の名は希望』ならば、アイドルの卒業を描いたのが『サヨナラの意味』であり、ひとつのシリーズの誕生と、その物語のひとつの結末を教えている。
こうした明確な設定、つまりアイドルの物語化が提示されながらも、しかし映像作家が想像・創造したのは、アイドルの卒業=希望というメインテーマの踏襲をしつつも、しかし前作『君の名は希望』への配慮、つまり散文=物語に恋い焦がれる作詞家の熱量に一切応答しない幻想=フィクションであった。結果、映像作品だけが、作詞家の立つ世界観から遠く離れ孤立し、独り歩きしてしまった。しかしこの「孤立」こそ映像作家の内に譲れないもの、ここで絶対に表現したいもの、があった”しるし”ではないか。また、その孤立感が作品の主役を演じたアイドルの横顔とかさなる点、さらに云えば、作詞家の無垢さ、つまり理想を現実感覚でつらぬく点に、果てしない希求があるようにおもわれる。質の高い楽曲を作ったことで、アイドルの卒業を「希望」とうたったことで、むしろアイドルの神格化に貢献してしまった作詞家と作曲家をよそに、映像作品においては、アイドルの世界から姿を消した少女がしかし映像の内に永遠に漂っている、という状況、希望を叶えている。
また、今作をもってグループから去った橋本奈々未とすれ違うようにして、「3期」として、大園桃子を先頭に、新たに12名の少女が乃木坂46の物語に登場している。

・映像作家:柳沢翔
・選抜メンバー:橋本奈々未(センター)、西野七瀬、白石麻衣、生田絵梨花、中元日芽香、井上小百合、新内眞衣、桜井玲香、生駒里奈、星野みなみ、北野日奈子、伊藤万理華、若月佑美、松村沙友理、堀未央奈、齋藤飛鳥、衛藤美彩、秋元真夏、高山一実


17th.インフルエンサー  37

(C)インフルエンサー ミュージックビデオ

「新機軸を打ち出すも、失敗」

シックな趣をもつアイドルグループの、その存在感を踊りによって示そうと試みた、意欲作。アーティスティックなことをやりたい、と渇望するアイドルの面々に応答したような、洒落た作風。日本レコード大賞の大賞受賞曲として、グループの歴代表題作のなかでも突出した話題性をもっている。
ただ、レコード大賞の受賞について言及するならば、その価値に対する是非は置くにしても、それは今作品の達成、ではなく、これまでの乃木坂46の活動に対する評価とみるのが妥当であり、大賞受賞曲という快挙をそのまま『インフルエンサー』の評価(当然この「評価」にはミュージックビデオに対する評価も含まれる)へとスライドさせることはできない。今作品そのものの質を問うならば、新機軸を打ち出そうとする気概のようなものは理解できるが、しかし差し出された作品を眺めると、アイドルがただ難易度の高いダンスを付け焼き刃に踊っているだけの、キッチュでしかなく、評価に値しない。
踊ることでなにかを表現しようと狙った、ダンスを主題においた作品ならば、映像作品もまた踊ることを主題にし、アイドルの踊りのみをみせるべきではないか。一枚の板の上でアイドルを踊らせる、それを最初から最後までカメラに撮る、ただそれだけで良い。だが、不思議なものでこれができる映像作家が現在のシーンには一人も見当たらないのだ。今作『インフルエンサー』も例にもれず、不必要な場面切り替えが多用され、なんとも中途半端な映像になっている。音に身を任せ、ただ踊るだけのアイドルを撮った映像を、作品の水準に仕上げてしまえる才能ある作家が現在のアイドルシーンには一人も存在しないということを、アイドルシーンの最前線に立つ乃木坂46が証立ててしまったのだから、なんとも皮肉的ではある。

なによりも、これまでに培ってきた「演劇」のほとんどが破棄されており、独走体勢にほころびが生じてしまったようにも見える。

・映像作家:丸山健志
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、桜井玲香、秋元真夏、堀未央奈、白石麻衣(センター)、齋藤飛鳥、衛藤美彩、新内眞衣、井上小百合、寺田蘭世、北野日奈子、伊藤万理華、星野みなみ、斉藤優里、樋口日奈、中田花奈、若月佑美、高山一実、生駒里奈、生田絵梨花、松村沙友理


18th.逃げ水  74

(C)逃げ水 ミュージックビデオ

「アイドルをひとつの神秘として画面に映し出した力作」

トランクケースを抱えた、まだ自我をもたない二人の未熟な少女が、不気味な屋敷の門をくぐり侍女として働きながら、屋敷に住む様々な個性を抱えた住民の非日常的な日常に触れその魅力を知ることで、みずからもまたパラノイアに囚われていくという、アイデンティティの探求譚。
アイドルを、つかもうとした瞬間に消えてしまう逃げ水に喩え、詠った作詞家の詩情に対し、その逃げ水=アイドルという構図を、現存しているのかどうかすらあやふやな、不気味な屋敷の住人へと塗り替え、物語を作った点には、映像作家の内に秘められた並みなみならぬ才能に触れる。アイドルのキャラクターの落とし込みにも成功しているし、なによりも、映像そのものがひとつの作品として、楽しめる。
現実への打撃に関しても文句なしである。その後の大園桃子、与田祐希の成長物語を読めば、この二人の少女が、非日常つまり”まぼろし”でしかないと感じた屋敷の住人たちの日常ととけ合うことに成功し、それぞれがアイドルの魅力としてのパラノイアを打ち出し、乃木坂らしいアイドルへと成長したことは、一目瞭然である。とくに、デビュー直後、すでに一種の偏執、過剰なパラノイアを垣間見せていた大園に対し、デビューしたばかりの頃の与田には古臭いアイドル観の蟠踞があり、魅力に乏しかったが、今日の与田を眺めればわかるとおり、つかみどころのなさ、つまり非日常としての日常の提示に与田は成功している。その原動力として、換言すればオブセッションとして回転するものこそ、この『逃げ水』にほかならない。
『逃げ水』は、アイドルを、あるいは夢そのものを、希望や活力、儚さとして語るのではなく、近づくと消えてしまうもの、と語った一点のみにおいても、これまでの作品と一線を画している。しかもそれをグループに加入したばかりの新米アイドルのデビュー作とも云える作品にかさねたわけだから、物語に本格的な転換点が刻まれた瞬間だと感じる。真っ直ぐに伸び、続いてきた乃木坂46の物語の軌道が変わった。これはつまりシーンの風向きが変わった、ということを意味するのだろう。それを誰よりもはやく肌で感じ作品に落とし込んでしまえるのが秋元康であり、氏が作詞家たる所以であり、その作詞家・秋元康の編み上げる物語、つまりアイドル=逃げ水とうたった物語をそのまま自身のアイドルの物語にしてしまう、現実と仮想を混交する、というよりも、現実が仮想であり仮想がまた現実であるという少女が乃木坂46の物語の上に誕生した、という展開そのものがまさしく「逃げ水」なのである。

・映像作家:山岸聖太
・選抜メンバー:大園桃子(センター)、与田祐希(センター)、伊藤万理華、新内眞衣、生駒里奈、桜井玲香、若月佑美、井上小百合、星野みなみ、松村沙友理、生田絵梨花、秋元真夏、衛藤美彩、高山一実、齋藤飛鳥、白石麻衣、西野七瀬、堀未央奈


19th.いつかできるから今日できる  11

(C)いつかできるから今日できる ミュージックビデオ

「自己啓発を『アイドル』の語り口にするも……」

乃木坂46に所属するアイドルの面々が出演した、映画『あさひなぐ』の主題歌ということで、映画で使用された映像を切り貼りした、映画販促のみを目的としたMVとなっており、作品として両足で立っていない。ロケ地に「和敬塾」や「久保講堂」が準備されたらしいが、映像の内には語るべき点がひとつもない。当然、現実への打撃もない。
ただ、楽曲の質は良い。今日の乃木坂46ひいては坂道シリーズの”売り”といえば「自己啓発」にほかならないが、薄暗い部屋のなかで液晶画面を覗くような生活からの脱却として「アイドル」が在る、という希望の描き方、グループの有り様をより明確にした作品がこの『いつかできるから今日できる』である。
今作品は前作にあたる『逃げ水』以前に企画され制作されたらしい。『逃げ水』といえば、グループに新しく加わった3期生を主眼に置いた作品であるから、その『逃げ水』の前に、乃木坂46というアイドルグループのアイデンティティを明確に打ち出した作品を企画していたわけだから、なかなか手が込んでいる。まず、乃木坂46がどのようなアイドルグループなのか、教える。そして実際にその扉をひらいた少女がどのように希望を見出したのか、見出すのか、次作で語る。このような試みは『Sing Out!』から『夜明けまで強がらなくてもいい』でも再現されている。そうした意味ではグループアイドルの魅力=平凡な少女がシンデレラになる、つまり違う自分になる、という物語を描いた『君に叱られた』は『いつかできるから今日できる』や『Sing Out!』の系譜に立つ作品と云えるだろう。
また、今作がディアルキアを布いた一応の最後の作品となっている。

・映像作家:高橋栄樹
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、齋藤飛鳥(センター)、白石麻衣、新内眞衣、斉藤優里、星野みなみ、生駒里奈、秋元真夏、北野日奈子、中田花奈、高山一実、若月佑美、井上小百合、松村沙友理、生田絵梨花、伊藤万理華、桜井玲香、衛藤美彩、堀未央奈


20th.シンクロニシティ  51

(C)シンクロニシティ ミュージックビデオ

「白石麻衣を主役にした、自我の探求の劇、その第一章」

鋭くやわらかい槍のような光りが差し込む薄暗い空間のなかで、真っ白な衣装を身につけたアイドルたちが右に左へと舞い踊るという、修道院のような処女性と閉塞感をもった乃木坂46の特色をよく表した映像作品。
『君の名は希望』以来の当作と云うべきだろうか。白石麻衣が表題作のセンターに単独で立つのは6枚目シングル『ガールズルール』以来、実に5年ぶり。楽曲の備える音楽の魅力と白石麻衣のもつ美貌が上手に合致した幸福な作品であり、今作品を乃木坂46の最高傑作とする声も多い。
ただ、「鑑賞」によって満たされるもの、はあるが、それだけのように感じる。一見した際に感受した魅力以上のものが、その後何度作品に触れようとも一つも出てこない。正直に云えば、見栄えの良いエスプリにしか見えない。アイドルの踊りや表情はシックであり美しい。だが映像そのものはどうしようもなく退屈である。『今、話したい誰かがいる』以降、アイドルの物語性がどんどん希薄になってきたが、その退屈さここに極まり、といった感じか。アイドルがなにも表現できていない。いや、そもそもこれは詞が悪いのかもしれない。詞に共感できるところが一つもないから、解釈が生まれない。つまり表現ができない、ということなのだろう。
狭い空間でアイドルの踊りだけを見せる、という試みは素晴らしいのだが、肝心のアイドルの踊りに魅力がない。踊りが良いのは齋藤飛鳥くらいなもので、センターで踊る白石麻衣をはじめ他のアイドルの踊りには一切心が揺かされない。ここでこのダンスを作る、ということに必然性のようなものが一切降っていない。ゾルレンがない、という意味では皮肉にも楽曲に付された詩情を表現してしまっている。
詩情を表現してしまった、といえば、センターで踊る白石麻衣本人もまた、今作の詩情、とくに書き出しの一行に囚われ、その一行がそのまま彼女のアイドルとしてのゾルレンの入り口となっている。後日、提供される『僕のこと、知ってる?』『しあわせの保護色』は『シンクロニシティ』の続編と読むことが可能であり、そのような意味ではやはり今作は傑作と捉えるべきなのかもしれない。今日のアイドルシーンを代表し、今日のアイドルの象徴となる一人のアイドルの自我の模索劇の端緒、あるいは原動力となった作品がこの『シンクロニシティ』なのだから。
今作は、圧倒的な主人公としてグループを牽引してきた生駒里奈が参加した最後のシングルでもある。グループの歴史に大きな転換点が刻まれた瞬間、と読むべきだろう。
また、前田敦子、生田絵梨花の系譜に連なる、次世代アイドルの代表格・山下美月が表題作の歌唱メンバーにはじめて選抜されている。と同時に、後に生田絵梨花を継ぐものとして名乗りを上げることになる、久保史緒里もまたグループの表舞台に登場した。

・映像作家:池田一真
・選抜メンバー:白石麻衣(センター)、西野七瀬、齋藤飛鳥、生田絵梨花、与田祐希、井上小百合、新内眞衣、高山一実、星野みなみ、若月佑美、樋口日奈、寺田蘭世、桜井玲香、松村沙友理、久保史緒里、生駒里奈、大園桃子、衛藤美彩、秋元真夏、山下美月、堀未央奈


21st.ジコチューで行こう!  33

(C)ジコチューで行こう! ミュージックビデオ

「まだまだ旅の途中」

ある異国の地で過ごすアイドルの休日を描いた映像作品。エスニックを取り入れた情感あふれるシーンに終始する、贅沢なMV。新天地を求め走り出した少女たちを描いた『裸足でSummer』の続編にあたるのだろうか。異なる映像作品を通して、また一人の主人公を通してアイドルの物語化を達成しようと試みている点は好感を誘う。いわく、彼女たちは、まだまだ旅の途中、らしい。
しかし肝心の映像に「希求」がない。『シンクロニシティ』同様に今作品も映像に記された魅力にしか触れることが叶わず、現実への打撃に乏しい。一言で云えば、これはただのバカンスにしか見えない。見えないが、演者であるアイドルから発せられた後日談を聞くに、撮影そのものは過酷を極めたらしい。ならば、それだけ日常を再現する演技にアイドルのそれぞれが長けているということなのだろう。とくに今作品で描かれた齋藤飛鳥の「笑顔」とは後日繰り返し偶会することになる。今作品の制作を通し、笑顔の彫琢を試みたのだろうか。ダンスが巧く、笑顔も良い。いよいよ鉄壁のエースになりつつある予感を伝えている。
ミュージックビデオを通して乃木坂46の物語を眺める、という条件にこだわるとき、『ジコチューで行こう!』は、後日グループのセンター=主人公へと上り詰める山下美月が自身のアイドルとしての魅力を本格的にアッピールした作品と云えるだろう。また、後にグループの副キャプテンに就任する梅澤美波も今映像作品でその存在感を打ち出しているようにおもわれる。
ただ、そうした現実におけるアイドルのストーリー展開を読むならば、加入5年目にして初めて表題作の歌唱メンバーに選抜された鈴木絢音に注目すべきだろう。その物語の成り立ち、アイドルの横顔をして、(生駒里奈によって編まれた)グループの主流でもある「希望」の物語を受け継ぐ存在と読むべきかもしれない。

・映像作家:中村太洸
・選抜メンバー:齋藤飛鳥(センター)、秋元真夏、生田絵梨花、井上小百合、岩本蓮加梅澤美波、衛藤美彩、大園桃子、齋藤飛鳥、斉藤優里、桜井玲香、白石麻衣、新内眞衣、鈴木絢音、高山一実、西野七瀬、星野みなみ、堀未央奈、松村沙友理、山下美月、与田祐希、若月佑美


22nd.帰り道は遠回りしたくなる  98

(C)帰り道は遠回りしたくなる ミュージックビデオ

「ここではないどこかへ」

日常の些細な出来事をきっかけに運命が大きく分かれた一人の少女の物語。
「バス」を運命の分かれ道、少女の物語の分岐点とし、通学バスに乗り遅れたことで、眼鏡が割れたことで「アイドル」の扉をひらいてしまった少女、彼女を現実世界におけるアイドル・西野七瀬として扱い、アイドルとしての生活のなかで抱く屈託を描き出し、もう一方では、バスに乗り遅れなかった、眼鏡を落とさなかった少女を、現実世界におけるアイドル・西野七瀬がもし「アイドル」になっていなかったらどのような日常生活を送っていたのだろうか、という妄執のもとに描き出し、西野七瀬が喪失した本来の自分、本来の夢を叶えていくことの興奮を克明に暴いている。
おもしろいのは、アイドルになったことでメランコリーに傾倒していく西野に対し、アイドルにならなかったもう一方の運命を歩く西野は日々の出来事に歓喜している点であり、作り手のアイドルに向ける熱誠の過剰さがそのドラマの設定、着眼点によくあらわれている、と感じる点である。もちろんこの「アイドルにならなかったもう一方の運命を歩く西野七瀬」とは、現実のアイドル・西野七瀬を眺めた際にその相対として作り手の眼前に映し出された「西野七瀬」でしかない。「美術」や「アイドル」への憧憬には現実と通い合うところが多々あるかもしれないが、おそらくは、現実の、素顔の西野七瀬からすれば、その日常風景はほとんど他人事にしか見えないのではないか。喪失された日常の夢を描いているわけだから当然と云えば当然なのだが。
しかし、この映像を眺めた多くのファンが、西野七瀬の素顔を発見あるいは再発見したと確信し興奮を抑えきれなかったのではないか。アイドルのきわめて私的な日常部分をフィクションとして鮮明に描き出す仕掛けを作ってしまえるところに今作品のもっとも強い魅力があり、作家の才能に舌を巻かざるを得ない。
西野七瀬は冠絶したライブパフォーマンスの持ち主だが、『いつかできるから今日できる』において活力とメランコリーの止揚に達し、表現の分水嶺を越えてからは、アイドルの表情、立ち居振る舞いのすべてがメランコリーへと倒れ込み、それがライブパフォーマンスに著しく現れてしまい、アイドルの放つ魅力が減退した。そうした西野七瀬の減退がミュージックビデオのなかで描かれた踊りにもよくあらわれており、臆することなくアイドルへの写実を試みた作品、つまり鑑賞者にアイドルの素顔をなぞらせる作品に仕上がっているのだ。
なによりも、アイドルを演じきった自分に「ありがとう」と伝えることで、アイドルである自分と、アイドルではない自分、つまり、自分と、もうひとりの自分がかさなり、とけ合い、知らない自分の魅力を発見し、次の夢の世界=ここではないどこかへと移動していくラストシーンには、作家の内に秘められたグループアイドルの卒業に対する深い理解が込められているようにおもう。
29枚目シングル『Actually…』においては中西アルノと平手友梨奈のフュージョンが試みられた。この、他人と結びつくことで個人の魅力を打ち出そうとする物語の作り方にはたしかに魅力を感じるが、一人の少女の内にあるもうひとりの自分とのフュージョンを描いた今作『帰り道は遠回りしたくなる』にはより計り知れない魅力、可能性があるようにおもう。

要するに今作は、平行世界での出来事、つまりアナザーストーリーをテーマに定め、もうひとつの世界を編み出しそれを眺めることで現実世界のアイドルの魅力を探ろうとする意欲作なのだが、そのテーマにもっとも合致したアイドルを現実の世界に帰還し探り当てるとすれば、それはきっと、楽曲のセンターポジションに立ち踊った西野七瀬ではなく生田絵梨花になるだろう。
生田絵梨花による『帰り道は遠回りしたくなる』の歌唱・演奏には、くるべき者の側として楽曲を迎え撃つ、というこれまでのアイドルシーンになかった達成がある。生田絵梨花が今作品を口ずさんだことによって、はじめて、すでに生田絵梨花の物語が『帰り道は遠回りしたくなる』に付された詩情のすべてをクリアしている、という事実が投げつけられた。これには、狼狽する。たとえば、青春の光りの強さを歌った『青春と気づかないまま』が常にアイドルを演じる少女を迎え撃ってきたように、作詞家・秋元康の詩情の力強さ凄みは、アイドルを演じる少女への抱擁と啓蒙にあるのだが、生田絵梨花というアイドルはその枠組から完全に脱却しているのだという事実が唐突に告げられたわけである。
楽曲のイロ、詩情を前に編むイメージ、ミュージックビデオの筆使い、そのすべてが西野七瀬の横顔にピタリと重なるが、楽曲との合致においては生田絵梨花のもつ活力のほうが横溢しているようにおもう。そしてこのような、楽曲のセンターではない少女に楽曲との強い一致を見出す、という感慨こそ、今作『帰り道は遠回りしたくなる』の本領であり、それはつまり、現役アイドル、アイドルを夢見る少女、そのどちらも問わず楽曲世界の主人公に自己を通い合わせ、歌を唄える、幻想の世界に生きられる、という奇跡を意味する。
今作をもってアイドルを卒業した西野七瀬だが、彼女に憧れ、また『帰り道は遠回りしたくなる』を口ずさみ、アイドルの扉をひらこうとする少女はその後もあとを絶たない。
この時期、西野七瀬に触れた最後の子供として、4期生がグループの物語に加わっている。

・映像作家:関和亮、澤本嘉光
・選抜メンバー:西野七瀬(センター)、斉藤優里、井上小百合、佐藤楓、大園桃子、伊藤理々杏、新内眞衣、高山一実、衛藤美彩、秋元真夏、堀未央奈、若月佑美、星野みなみ、桜井玲香、松村沙友理、梅澤美波、山下美月、齋藤飛鳥、白石麻衣、生田絵梨花、与田祐希


23rd.Sing Out!  91

(C)Billboard JAPAN/sing out!ミュージックビデオ

「齋藤飛鳥=菖蒲の魅力」

風致に組まれた舞台の上で、菖蒲色の衣装を身に着けたアイドルたちが、きら星の如く、歌い、舞い、笑っている。今日のアイドルシーンにおいて、もっとも個性的であり、独特の香気を放つアイドル・齋藤飛鳥の代表作であり、まず間違いなく乃木坂46のマスターピースである。
アイドルとして、乃木坂46の一員として、自己を育んできた一人の少女の、その成長を明るみにすることで、乃木坂46そのものの魅力が証される、乃木坂46そのものが表現されるという、グループの集大成、ではなく、グループの未来を見た、遠大な射程距離を把持した作品。
射程距離の長い表現を試みているからだろうか、今映像作品には、語ることのむずかしさ、がたしかにある。ただ、アイドル本来の魅力・価値を、つまり昔日の輝きを取り戻そうとする、月並みで表面的な感想しか持ち得ない大衆を置き去りにするそのレトリックに溺れていく姿勢には、アイドルの魅力とは「踊り」によって映される交歓、闘争、その美しさにほかならないのだ、という「表現」に向けた過剰さを目の当たりにする。
古典の魅力に満ち満ちた映像であり、未来を向きつつ、古い価値を手繰り寄せようとする作家の行動力によって、映像の内に登場しなかったアイドルが、あるいは、まだ登場しない次の世代を生きるアイドルが、この映像を、この楽曲を語り継いでいくのだろうという確信、憧憬を作ることに成功している。
ゆえに、現実に対する打撃、その強さを、現在(いま)、はかることは無謀におもわれる。いや、常に未来を向き続ける以上、どの段階においても、それは不可能かもしれない。

・映像作家:池田一真
・選抜メンバー:齋藤飛鳥(センター)、井上小百合、佐藤楓、鈴木絢音、岩本蓮加、阪口珠美、渡辺みり愛、伊藤理々杏、新内眞衣、梅澤美波、北野日奈子、秋元真夏、久保史緒里、松村沙友理、星野みなみ、桜井玲香、大園桃子、堀未央奈、生田絵梨花、白石麻衣、高山一実、与田祐希


24th.夜明けまで強がらなくてもいい  87

(C)夜明けまで強がらなくてもいい ミュージックビデオ

「『夜明け』という乃木坂らしさの萌芽があらわれ、実った瞬間」

水道の蛇口からこぼれ落ちる水滴を、「涙を流すアイドル」で喩え、人が生まれ変わる瞬間を表現している。
この映像に描かれた「生まれ変わる瞬間」には、ふたつの意味があるのだろう。一つは、幻想の世界への扉をひらこうとする、アイドルになろうとする少女。もう一つは、その幻想の世界から次の別の世界へと羽ばたこうと決心したアイドル。アイドルの美しさを映すことには成功していないが、アイドルの生々しさ、アイドルを演じる少女の心の内奥にあるもの、を映し出そうとするような果断さがあるようにおもう。鑑賞するたびに、前回の記憶・評価を転向せざるを得ないような、尽きない魅力がある。これまでに何回も鑑賞した作品であり、きっとこれからも繰り返し再生ボタンを押しつづける作品だろう。
また、この映像を透過させ現実への打撃を読むならば、そのもっとも強い反響音は、山下美月へのアナザーストーリーになるだろうか。次の、別の世界へと羽ばたこうと決心したアイドルの中には、当然、その決心を覆し、こちらに振り返り、アイドルであり続けようと決意したアイドルも含まれる。そうした屈託の露出がもっとも鮮明にあらわれているのが山下美月であり、この映像に記された山下美月へのあられもない演出とアイドル自身の演技(一度、大切な場所から去る決意をした人間が、しかし大事な忘れ物に気づいて、あるいはやりのこしたなにか、諦めかけたなにかを取り戻そうと振り返り、走り出す光景)には、もし山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』のセンターだったら、という妄執を育ませる力がたしかにある。

やはり、この作家は生身のアイドルを写すのが上手いのだろう。それを教えるのは山下美月の演技、横顔だけではない。たとえば、今映像作品における与田祐希の演技、その表情には、これまで彼女が描いてきたアイドルのすべてを裏切るような、屈託、嘆き、怒り、多様な心の叫びが写されており、新境地を開いたかにおもわれる。また、筒井あやめがグループにおいてすでに一頭抜くライブ表現力を有していることをこの映像はあかしており、この点も素晴らしいと感じる。
楽曲そのものに話題を移せば、希望に満ち溢れた場所から「アイドル」の物語がはじまるのではなく、今の自分の生活がなんら未来に貢献しないという確信による絶望から「アイドル」が描かれる、そこに「夜明け」がある、という物語を打ち出したのが今作『夜明けまで強がらなくてもいい』であり、後にグループに誕生する5期生はこの「夜明け」の解釈を下敷きにアイドルの物語、その書き出しの一行を記している。そのような意味においても今作品には類を絶した魅力があるようにおもう。

・映像作家:丸山健志
・選抜メンバー:遠藤さくら(センター)、生田絵梨花、白石麻衣、松村沙友理、桜井玲香、梅澤美波、山下美月、与田祐希、北野日奈子、秋元真夏、久保史緒里、高山一実、星野みなみ、新内眞衣、筒井あやめ、齋藤飛鳥、堀未央奈、賀喜遥香


25th.しあわせの保護色  73

(C)しあわせの保護色 ミュージックビデオ

「ギニョールの完成形」

白石麻衣の卒業という大きなイベントを、これまでに作詞家・秋元康が、乃木坂46が描いてきた世界観を壊すことなく、アーティスティックであり、またロジカルでもあるという、バランス感覚に優れた映像をもって語っている。アイドルのギニョールを「映像」に構築し直し、その狭い箱の中でアイドルがどのように動き出すのか、踊るのか、笑うのか、限定された境遇のなかで、決められた動作のなかで、少女たちがどのように自己を表現するのか、という視点を鑑賞者の個々に持たせることに成功している。
この映像を眺めれば、それが映像作家・池田一真の手による作品だと、すぐに気づく。『シンクロニシティ』『Sing Out!』をもって手法の確立に達したようで、グループアイドルの見せ方描き方、アイドルへの視点の持ち方にしっかりとした軸がある。自己模倣感、これは凡庸な作家だけを指すのではない。才能がない作家の自己模倣とは、前作から構図の練り上げをもたない「模倣」であり、才能のある作家の自己模倣とは、前作を下敷きにしてあたらしい構図を練り上げていく力強さを意味する。自己模倣を繰り返しながら、しかし隘路に陥らないところにこの池田一真という映像作家の「特筆」があるのはまず間違いない。
そうした「洗練」は、作家の志にもよくあらわれている。ドラマを作ることでアイドルの物語化に成功する作品がある一方で、アイドルを踊らせることで、アイドルの踊りによってアイドルを物語ろうとする姿勢に一貫しているところに、この作家の筆の力強さ、意志の強さがあるのだ。言うなれば、傑作を一本しか撮れない映像作家、つまり「映像」という仕事で食べていくことのできない作家に対し、池田一真の場合、アイドルのダンス表現にこだわることで”自分にしかできないもの”をシーンに打ち出し、結果、職業作家として成立する、つまり「映像」で生活することを叶えているわけである。これからシーンに参入しようと考える若手作家は、まず池田一真の姿勢を模倣すべきだろう。
今作品の現実への打撃を読むならば、アイドルを演じる日々のなかで本来の日常=自分を見失ってしまうという、アイドルを演じることがアイデンティティの発見ではなく喪失であったという物語の展開、白石麻衣を主役にして『シンクロニシティ』からはじまったその物語の結末が描かれた点、つまり、フィクションであると同時にその作り物でしかない世界が現実の問題そのものとして問いかけられるという点に「破格」を見出す。

・映像作家:池田一真
・選抜メンバー:白石麻衣(センター)、生田絵梨花、松村沙友理、星野みなみ、賀喜遥香、新内眞衣、山下美月、久保史緒里、堀未央奈、大園桃子、遠藤さくら、岩本蓮加、与田祐希、北野日奈子、梅澤美波、井上小百合、和田まあや、高山一実、秋元真夏、樋口日奈、中田花奈、齋藤飛鳥


26th.僕は僕を好きになる  66

(C)僕は僕を好きになる ミュージックビデオ

「未来を作る」

アイドルとしての日常風景が、唐突に、アイドルを演じる少女の日常風景に切り替わるという、ウソを作ることのおもしろさを教えるような、遊び心ある作品になっている。
映像作家と共に、主役を演じるアイドル本人が案を練ったと聞く。たしかに、山下美月、彼女は、女優やアイドルつまり芸能界に無性に憧れたひとであり、そうした彼女の個人的な憧憬、通俗や野心が映像の端々に、というよりも、作品の構図そのものに反映されているようにおもう。
作詞家・秋元康が提示した詩的世界のテーマ、生きることへの活力を込めたその世界観に映像作品を照らし合わせ考えるならば、演技つまり嘘をつくっている自分も、嘘をついていない自然体の自分も、どちらもほんとうの自分なんだ、という励まし、自分ではないもうひとりの自分を日常的に演じ私的な部分を喪失するグループアイドルだけが表現し得る、説得し得る活力を作品に落とし込んでいる、と読むべきだろうか。
おもしろいのは、そうした活力を描くことで、演者自身がより混乱していく、あるいは混乱しているように見える、という点である。
現実とフィクションのあいだに一本の線を引き、その両岸を行き交いする姿をひとつの作品にすることで山下美月の横顔がよりジャーゴンになるという、彼女が他者に素顔を見せようと試みるとき常に演技が手段として用いられるため、むしろ素顔から遠ざかってしまうという、屈託の堆積に今作の本領がある。素顔の提示すら演劇で表現してしまう、他者に向けて素顔を提示しないところに素顔があるのだと確信してしまう山下美月の横顔には、『夜明けまで強がらなくてもいい』において表現した暗示から転向した、一種の勇敢さが出てきたようにおもう。
未来を作る、と呼号し制作されたシングルだが、そのシングルの主役に安に新人アイドルを抜擢するのではなく、かねてから期待されていた登場人物を満を持して置くという点に作り手の”センス”があり、なにもないところに希望を見出すのではなく、すでにそこに在るものの内に希望、未来を見出そうとするとき、山下美月というアイドルの存在感は他を圧倒しているかにおもわれる。

・映像作家:奥山大史
・選抜メンバー:山下美月(センター)、生田絵梨花、梅澤美波、久保史緒里、齋藤飛鳥、遠藤さくら、大園桃子、堀未央奈、与田祐希、賀喜遥香、秋元真夏、新内眞衣、清宮レイ田村真佑、星野みなみ、筒井あやめ、岩本蓮加、高山一実、松村沙友理


27th.ごめんねFingers crossed  25

(C)ごめんねFingers crossed ミュージックビデオ

「セットは豪華」

カーレースをグループアイドルの順位闘争に喩えただけの、安易な作品。順位闘争を描くことに不満はないが、それが「車」であることの必然性がどこにも説明・表現されていない。こういった「お金」をかけただけの、毒にも薬にもならない作品が今後二度と提示されないことを、今はただ祈るばかり。
ただ、映像作品のために用意された衣装と、それを身に着け踊り、演技するアイドルの表現力には目をみはるものがある。とくにセンターで踊る遠藤さくらの表現力には新人らしからぬ輝きを見る。二度と取り戻すことの出来ない、いつのまにか壊れてしまっていた過去への強い希求のなかで未来への希望を見出すという、「過去」との別れの決意を歌った、作詞家のその青さに上手に応答している。
神童として、デビュー以来、ずば抜けた存在感を示してきた大園桃子がアイドルの物語の幕を下ろした作品でもある。

・映像作家:東市篤憲
・選抜メンバー:遠藤さくら(センター)、山下美月、与田祐希、齋藤飛鳥、賀喜遥香、樋口日奈、早川聖来、筒井あやめ、大園桃子、岩本蓮加、清宮レイ、田村真佑、新内眞衣、秋元真夏、梅澤美波、星野みなみ、松村沙友理、生田絵梨花、久保史緒里、高山一実


28th.君に叱られた  92

(C)君に叱られた ミュージックビデオ

「グループアイドルの価値を底上げした名作」

平凡な少女が、ある日突然、夢の舞台に引き上げられるというシンデレラストーリー。
アイドルを”推す”、これはアイドルの夢に乗る、という意味でもあるから、「アイドルの夢」に対する献身をシンデレラに喩え物語った点に、作り手のアイドルシーンに向けた理解と熱誠を受け取る。
つまりは、平凡な少女が夢を叶える、夢の舞台の主人公に選ばれる、というストーリー展開こそグループアイドルの醍醐味なのだろう。そうした「王道」を作品に引き、描くとき、往々にして、陳腐な映像・物語に仕上がってしまうのだろうけれど、今作においてはそのような危惧は払拭されている。それはやはり、平凡な少女を演じるアイドル自身の素顔が、映像作家によって準備された物語の主人公の横顔とかさなり合い、また、通い合っているからである。
完璧そうに見えるのに、どこか脇が甘い、凛とした強い美人を想起させる、アニメや漫画の主人公のようなビジュアル、佇まいをもっているのに、どこか隙きがあるように感じる、なにかあるとすぐにしくじったような顔つきをする、その賀喜遥香の日常風景を眺め、そこにアイドルとしての魅力を見出し、物語を編んでしまえるところに映像作家・横堀光範の才能があり、今作品の成功の理由がある。
だれでも、どんな少女でも、こんな自分でもアイドルになれるのだ、なにかの物語の主役になれるのだ、という希望を、綺麗事としてではなく、手を伸ばせば届くかもしれないというきわめて強い現実感覚のもとに、しかもそれをひとつのフィクションとして提示してしまえるところに、乃木坂46の魅力があるのだ。
今作をもって、乃木坂46のデビュー時からグループを支えてきた、シーンを牽引してきた生田絵梨花、星野みなみがアイドルを卒業した。

・映像作家:横堀光範
・選抜メンバー:賀喜遥香(センター)、遠藤さくら、与田祐希、齋藤飛鳥、山下美月、筒井あやめ、梅澤美波、星野みなみ、高山一実、生田絵梨花、久保史緒里、秋元真夏、樋口日奈、早川聖来、清宮レイ、北野日奈子、岩本蓮加、鈴木絢音、田村真佑、新内眞衣、掛橋沙耶


29th.Actually…  測定不能

(C)Actually… ミュージックビデオ

「役名:平手友梨奈、主演:中西アルノ」

青空の下、校庭を眺めながら、不意に、ひらめき、衝動的に10月のプールに飛び込み「アイドル」から脱した平手友梨奈と入れ替わるようにして、あるいは、融け合うように、その冷たいプールに、あるひとりの少女が飛び込んだ、という乃木坂46のあたらしいストーリー展開が、現在と過去という関係、換言すれば、現実とフィクションの関係、その距離を時間ではかるのではなく、ひとつの空間で測ろうとするような、きわめてアーティスティックであり、かつ、私情の暴走をもってアイドルの物語を編もうとするその現実の試みが、ミュージックビデオにおいても、なんら水増しされることなく、何ものにも配慮することなく、描かれ再現されている。
これはあまりにもありきたりで退屈な感慨なのだが、天才がシーンに誕生するとき、往々にして、一般大衆から石を投げつけられるものだし、そうした石を投げつけられる、また投げる動機とは、往々にして、その天才から溢れ出る野心や虚栄心にではなく、通俗に向けられるものだ。
今作品に「特筆」を探るならば、その石を投げつけられることを物語化しようと企んでしまった、あるいは、どこか期待してしまった、つまりはひとりの少女に責任の一切を負わせてしまった点だろうか。とはいえ、ある一人の天才を演じきるには、やはり天与の才をもたなければならないのか、という、やはりこれもありきたりだが、しかし尽きない興趣もたしかにあるのだが。
むしろ、天才を演じることでしか「天才」の出現は叶わない、あるいは、天才とのフュージョンによってのみ天才が出現するのだ、というところに今日のアイドルシーンはあるのではないか、などという凡庸な感慨すら抱いてしまう。あるいは、こうした感慨を抱くことそれ自体が、眼前に出現した「神秘」に触れたことによる作用、つまり自己の凡庸さが、もうすでに暗闇=絶望をまとう少女の才能を前にあぶり出されてしまったのか。
いずれにせよ、センターに抜擢された中西を含め、11人の少女が新たにグループの歴史に加わった。

・映像作家:黒沢清
・映像作家:東市篤憲(DANCE & LIP)
・歌唱メンバー:中西アルノ(センター)、遠藤さくら、筒井あやめ、梅澤美波、山下美月、齋藤飛鳥、秋元真夏、田村真佑、掛橋沙耶香、清宮レイ、鈴木絢音、樋口日奈、岩本蓮加、柴田柚菜、早川聖来、久保史緒里、賀喜遥香、与田祐希


あとがき、
この批評は2021年の夏頃から書きはじめた。書きはじめたものの、『命は美しい』あたりまで書いてみて、これはダメだな、書いていても読んでみてもまったくおもしろくないな、とはやくも遊び心が萎え、挫折した。とはいえ、乃木坂46の歴代シングルのMV批評を、映像作品だけを読んだ批評を、つまりはMVを語ることで乃木坂46のストーリーが立ち現れるような、そうした物語性に溢れた記事を作っておきたい、という企図を捨てきれず、気が向けばメモ帳を開き、文章を書き溜め、また書き直し、今日に至った。途中、ベストアルバム発売の報に触れ、ならそれにあわせて記事をアップすればいい、と考えたが、結局、間に合わなかった。これまで「アイドルの値打ち」にアップした記事の多くは、1日~2日程度で書き上げているから、当記事は例外中の例外である。
今回の批評にあたってあたらしく発見したもの、あるいは再発見したもの、そのなかでもっとも印象深いのは、齋藤飛鳥の踊りになるだろうか。『命は美しい』で表舞台に再登場してからは、どのような作品においても、どのようなポジションにおいても、常に高い水準のパフォーマンスをみせ、映像作品そのものの水準を押し上げているように感じる。彼女は演技もできるアイドルであるから、演技とダンスのどちらも要求されるアイドルのミュージックビデオというコンテンツに対し壺にはまっているように見える。『Sing Out!』においては、その魅力がひとつの境地となり爆発したようにおもう。

2022/03/26  楠木

 

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