「僕が見たかった青空」メンバー紹介・寸評

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「アイドルの物語=小説がコンセプト」

というわけで、アウレリャノ・ブエンディア大佐が誘って、外国からの侵入者に支持された腐敗とスキャンダルの政権を根こそぎにする反乱を起こしたい、と言ったとき、ヘリネルド・マルケス大佐は身内の震えるような哀れみを感じ、思わず吐息をついて言った。
「ああ、アウレリャノ!年を取ったと聞いていたが、見かけよりよほどぼけてるんだな、あんたは!」

ガルシア・マルケス/百年の孤独

AKB48、と書いて、アイドル、と読む。アイドル、と書いて、成長物語、と読む。作詞家・秋元康の手によって決定づけられたこのアイドル観、グループアイドルにおける「成長物語」を一言で表せば、様々な困難・試練を乗り越え「希望」を手にする少女たちの夢の群像、となるだろうか。
もちろん、成長物語と言ってもそれはアイドルだけが表現し得る魅力、アイドルだけに許された特権ではない。成長物語は、世にあふれている。『タッチ』『SLAM DUNK』に象徴されるように、その作風は漫画・アニメの世界の王道となっているし、それはテレビゲームでも現実のスポーツ観戦でも変わらない。あらゆる娯楽のなかに、すでに浸透している。近年ならば、ユーチューバーの多くもこれに囚われるはずだ。自分の成長にはほとんど無関心であるのに――あるいは自分の成長を実感することにひどく疎いがゆえに――他人の成長を見極めたり見守ったりすることに並々ならぬ情熱を傾ける、そういう人間は、古今東西、社会の多くの場所に見つけることができる。とりわけグループアイドルは、青春を題材にとった「成長」のエキスパートに位置する。
この「成長物語」をひとつのジャンルとして早くから確立したのが文学、つまり小説ということになるのだけれど、チャールズ・ディケンズ、トーマス・マンといった文豪の傑作を彩るビルディングスロマン=自己形成小説、教養小説、つまり成長小説の数々が100年以上経った今でも世界中で読者を獲得し続けているのは、やはりそこに人間の生まれ持った普遍的な希求が印されているからだろう。
こうした一致、つまりアイドルと小説の一致のなかで「アイドル」の可能性を考えてきたのが「アイドルの値打ち」なのだが、たとえば、ビルディングスロマンを文学に飛翔させたディケンズ自身の作家としての成長を追っていくと、さらにおもしろい一致を発見することになる。

小説と言えば、その形式を長篇と短篇とに大別することができるが、ディケンズが生きた18世紀頃の、長篇小説が主役であった時代の短篇小説のあり方、生き残り方は、やや複雑に屈折している。
短篇小説の発表をもって作家としてのキャリアをスタートしたディケンズだが、デビュー後ほどなくして、作家としての生活を成り立たせるためには長篇小説を書かなければならないという差し迫った現実問題に直面することになる。短篇を得意とするディケンズは、この問題を前にして、長篇小説の中に独立した短篇小説をちりばめるという離れ技を駆使し「短篇」を生かすことに成功したと、翻訳家・小池滋は言っている。長編の作中人物の回想、独白を活用して「短篇」を語るそのスタイルはディケンズが考案したものではなく、当時の、ひとつの流行りの形式だったということだが、実際にディケンズの長篇小説『ピックウィック・クラブ遺文録』を読むと、その形式がディケンズの壺にはまり、作家としての才能を開花させていることに気づく。
『ピックウィック・クラブ遺文録』では、長篇小説の体裁を取りながら、随所に短篇小説がねじ込まれている。宿屋の商人たちの噂話から始まったり、精神病院患者の遺品の中から見つかった手記を作中人物が開くことで始まったりと、あれこれ手を尽くして「短篇」を挿し込んでいる。
おもしろいのは、そうしたアイデア、短篇を書き上げ、それをなんとかして自身の作品のなかに生かそうとする意識が、長篇を書くことのスタミナ、ある種のタフさ、読者を飽きさせない発想の転換力を鍛える結果につながっている点だ。今日、世に広まったディケンズの手による名作のほぼすべてが、長篇小説であることは、あらためて説明するまでもない。そのはじまりの物語が『ピックウィック・クラブ遺文録』なのだが、同作は、一見すると、短篇を継ぎ接ぎしてなんとか長篇を一本書き上げた、ように思えなくもない。けれど、長篇の間隙にまったく異なる世界での出来事を語った短篇の数々を投げ入れることで、物語の密度が高められ、小説世界の可能性を広げることに成功しているという印象のほうが、遥かに強い。

このディケンズのスタイル、『ピックウィック・クラブ遺文録』における長篇小説と短篇小説の関係性は、作詞家・秋元康とアイドルの関係性とどこか通い合うものがある。と言うか、現在の、秋元康が音楽をつくる上でアイドルとどのように関わるのか、という尽きない疑問を晴らすだけのヒントを与えてくれているように思える――こうした安易な引用、遊び心を私はついつい宿してしまうのだが、しかし考えるだけの価値はある――。

僕が見たかった青空、このグループ名に触れると、思わず、小説のタイトルをなぞるような心地になる。小説のように語られるアイドルグループだと、想像し、胸を高く鳴らしてしまう。「アイドル」を叙述し、フィクションを編もうとする意識の強さ、理想の高さ、そのあらわれなのだろうか、乃木坂46の公式ライバルだと、名乗りを上げた。物語を起こす際の格好の設定だとしても、正直、無謀にしか思えない。しかしまた、そう思い立つに足るだけのもの、誰もが挑むことを諦めた壁を登ろうと決意するだけのもの、言うなれば、これまでに秋元康が手掛けたアイドルグループにとって仄かな光でしかなかったものが、具体的な魅力となってかたちをあらわしていることも事実だ。別の言い方をすれば、既存のグループの内に、たとえば乃木坂46や櫻坂46の内に萌芽として現れていたものが、果実にみのっていることを、そこに知ることができる。
「僕が見たかった青空」が奏でる音楽の特徴は――少なくともこれまでに発表された音楽の特徴は――、まずアイドルがそこに在り、次に音楽が在るという、既存のアイドルソングの枠を、デビューしたばかりのアイドルでありながら大きく抜け出ているという点にある。”僕青”の音楽は、まずなによりもさきにそこに音楽が在り、その音楽を表現するためにアイドルが準備されている。秋元康の作詞家としての成長点、佳境と云うべき世界が広がっている。アイドルのことを考えてそのとおりアイドルソングを編み上げるのではなく、あくまでも自分の言葉をたよりに音楽を作っていく。自分の言葉で語り歌うことが、つまり、自分の言葉をとおしてなにものかを歌い語ることが「人間」そのものを語ることになるのならば、それは当然「アイドル」を語ることにもつながるのだから、アイドルに容喙する必要はない、という境地に、作詞家が達しているかに見える。もちろんこうした、音楽に向ける作詞家の純粋さ、イノセントな詩作が音楽に芸術性――秋元康にしかできないこと、という意味での芸術性――をあたえ、アイドルを生かす結果につながっている点も忘れてはならない。
誤解を恐れずに云えば、現在の秋元康にとっての音楽とは、自己のノスタルジーを支えにして「人間」を語っていく、「人間」というものを考える、紛れもない小説なのだ。その世界の内に、アイドルという短い花の命を授かった少女たちが次々と投げ込まれる。秋元康の郷愁=青春の書と直接関連をもたないその少女たちは、あくまでも自己の想像力をもって、青春の短い命を体現し、秋元康の詩情を、音楽を個々に表現する。アイドルの力を借りることで音楽の密度が高められ、ようやく、長い長い物語が完成する。
ノスタルジーとは、もうあの頃には戻れないのだという帰郷の可能性を断念した際に生まれる情動のことを言うのだろうから、その情動を「青空」というパレットの上に踊り描くこの少女たちは、秋元康の言葉、息の長い物語のなかで、一つひとつ、たしかに異なった、個性を握りしめている、そんな可能性に満ちている。


list.
青木宙帆 秋田莉杏 安納蒼衣 伊藤ゆず 今井優希 岩本理瑚 金澤亜美 木下藍 工藤唯愛 塩釜菜那 杉浦英恋 須永心海 西森杏弥 萩原心花 長谷川稀未 早崎すずき 宮腰友里亜 持永真奈 八重樫美伊咲 八木仁愛 柳堀花怜 山口結杏 吉本此那

乱世は、下剋上の時代である。親代々の元老院議員の出であるとか有力者と縁戚関係にあるとかは、決定的な要素にはならない。それよりも重要なことは、野生の動物の世界と同じで、勝ち残るには力にプラス知能が不可欠になるのだった。(塩野七生/ローマ人の物語Ⅺ)


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青木宙帆、平成15年生。
現在のところは、ダンスにおいてひときわ精彩を欠いたメンバーだとする印象に圧されてしまい、生来の魅力を思うように発揮できず、その片鱗を示すにとどまっている。雲組(俗に言う「アンダー」)の単独公演に際し『制服のマネキン』の歌唱メンバーから唯ひとり外されるなど、なかなか憂いに満ちている。けれど、ひと目見ればわかるとおり、主人公感に満ち溢れたアイドルでもある。とりわけノスタルジーを喚起させるビジュアルの持ち主で、笑った顔も、泣いた顔も、憤った真剣な表情も、どれも引かれるものがある。華奢で、素朴だけれど、たぎるものが内にある。その彼女一流の感傷が踊りに現れさえすれば、事態はまたたく間に好転するんじゃないか。つまり、そうした逆転の光景を予感させるところに青木宙帆というアイドルの魅力の片鱗がある。


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秋田莉杏、平成19年生。
現時点では、グループのなかで最も明確に成長を記したメンバーだということになるだろうか。3rdシングルを機に、雲組のセンターから青空組(いわゆる「選抜」にあたる、表題曲の歌唱メンバー)へとその立場を変えた。目まぐるしく変わる状況のなかで得た経験の一つひとつに、しっかりと鍛えられたようで、落ち着いて見える。身の回りで起こる出来事を熱く冷静にとらえ、無辺の自信に満ちて行く、急速な成長を印している。
私の見立てでは、「僕が見たかった青空」が現在の「AKB48」や「乃木坂46」にはない魅力、言い換えれば、本物の「希望」を持つことをもっとも鮮明に教えるのが、この秋田莉杏の横顔になる。
自身がセンターを務める『君のための歌』を初めて聴いた際に、彼女は胸に抱いた高揚感を抑えきれず、思わず笑みをこぼした。その「笑顔」は、アイドルを演じることが自分の未来になんら貢献しないだろうという確信、現実感覚に縛られる既存のアイドルたちから遠く離れた、希望に憑かれたものだ。自分がこれから先どうなるのか、まったく予想もつかない不安が、アイドルへの期待、未来の希望へと結ばれている。


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安納蒼衣、平成19年生。
もうすでにコアなファンを獲得し、支えられている。乃木坂の『何度目の青空か?』をカヴァーした際にセンターポジションを任されるなど、ステージ上での話題性にも事欠かない。
ダンスの技量は、まだまだ乏しい。それでも 、胸に呼びかけるものが確かにある。意図してか、まったくの不作為なのか、少女の現在の素顔がありのままに投げ出されている。素顔がある、ということは、場面場面によって表情が様変わりする、ということでもある。ラブリーであったり、目がらんらんとした、少女らしからぬ表情を見せつけたり、そうした一瞬の美しさを捕らえきった人間が、彼女の虜になるのだろう。現実を突きつけることでファンに活力を付すアイドルがいる一方で、現実を忘れさせる、逃避の戸口を開放することで活力をあたえるアイドルもいる。安納蒼衣は時として前者であり、また音楽の中では後者でもあり得る、不思議なアイドルだ。


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伊藤ゆず、平成13年生。
最年長者だけあってか、アイドルとはこれこれこういうものだとする、自己の内に定めた規範に沿って、堅実にアイドルを演じている。取り立てて落ち着いているわけではないが、堂々としている。どこか割り切っているところがある。ファンに向ける言葉・文章も「アイドル」を忘れないようポップな工夫がなされている。自らのアイドルの世界観と、ファンが思うアイドルの世界観のどちらも壊さないように、心がけている。その規定されたスタイルを裏切ることができるかどうかが、今後、ひとつの見どころになるのだろう。


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今井優希、平成17年生。
ルックスは、まだまだ幼さが残っていて、キュート。一方で、全体のシルエットはひときわシックで、洗練されている。かなりアンバランスなアイドルだ。それは用いる言葉・文章からも濃く伝わってくる。随所にアイドルらしいワードを詰め込みファンを楽しませるが、慇懃さをかいま見る部分も多い。歌やダンスへの意気込みをとおしてグループの展望を語る場面などは、かなり実際的で、逞しい。少女の内面の成長を予告している。


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岩本理瑚、平成19年生。
ビジュアルはもちろん、ダンスにおいても、素朴な少女の魅力をありありと示している。音楽のなかで生き生きとして見える点、「歌割り」を自分に与えられた「役」として捉え、身振り手振りを交え、強く印象に残る表情をつくり出す点などは、たとえば磯貝花音を彷彿させる。今の自分にしか表現できないものをしっかりとステージの上に吐き出せている。踊りの最中に、芝居する力を身に着けていく様子には胸躍るものがある。


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金澤亜美、平成19年生。
まだまだ不明瞭なところが多い。エース級にも見えるし、端役にも見える。他のメンバーと比べると、アンビジョンに欠ける。虚栄心も、一回りも二回りも小さい。それでいて、感情を一方向に強く傾けた際に、その悔しかったり悲しかったりする自分の感情をいつのまにかファンの感情へと暗転させてしまうような、才気の際どさも持っている。どことなくではあるが、伏し目がちな花の一面として、あの西野七瀬を想わせる。


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木下藍、平成21年生。
年少者の特権でもある、言葉を多くもたないことの直感を、最大限に発揮している。どれだけ大きな恐怖であっても、好奇心には敵わない。デビュー当時に見せた涙は枯れて、現在はアイドルになった実感に喜び、尽くしているようだ。年齢にそぐわない、異様に大人びた表情を見せる瞬間もある。あの「涙」もすべて演技だったのではないか、と勘ぐってしまうような。いわゆる「トラツグミ」に見えなくもない。今後、グループに2期、3期と後続のアイドルが現れるのならば、ひとつの基準線になるのではないか。


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工藤唯愛、平成21年生。
年少メンバーのなかでは、最も注目を集めている。まだまだあどけなく、言葉もたどたどしいけれど、注意深く「アイドル」のことを考えている。デビューしたばかりのアイドルにありがちな、偽善的なところがひとつもない点が、なによりもまず好感を誘う。青空組という第一線の境遇に育まれるだけでなく、雑誌・グラビアにおいて際立った存在感を放ち感興を呼ぶなど、率先してメディア選抜としての役割を全うしている。ダンスにも目をみはるものがある。息を荒らげず、音楽に深く沈み込む表情が特に素晴らしい。この逸材を大成させることができるかどうかが、グループの岐路になるだろう。


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塩釜菜那、平成14年生。 
グループのリーダー。アイドルグループのキャプテンやリーダーは、その人を語ることがグループを語ることに結ばれなければならない。この点において塩釜菜那はすでに条件をクリアしている。今の、つねに気を張っていて、油断のない、ヒステリックに見える彼女のその横顔は、現在の”僕青”が置かれている状況をよくあらわしている。彼女の「笑顔」が評判なのは、張りつめた空気をもつ人が笑うとき、それが嘘偽りのない笑顔だと、だれもが感じ取るからだろう。この彼女のリーダーとしての魅力、いや、リーダーに選ばれたことで育まれたであろう彼女の魅力をひとつ挙げれば、自己嫌悪を成長の糧にできる、こころの強く繊細な一面、となるだろうか。
思い出の中に自己嫌悪を拾うことは誰にでもできる。でも、目の前の物事が思い出になる前にそこに自己嫌悪を宿し考え込む人は、実は少ない。リーダーとして、グループを広く見渡し小さな出来事にも目を配るから、気分が繊細になるのだろうし、その繊細さが、他人の言葉をこころの深いところまで落とし時間をかけて解釈しようとする強さを彼女にもたらしているのだと思う。


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杉浦英恋、平成20年生。
淡々としている。笑顔をつくる際にも、悔しさに涙をこらえたり、実際に大粒の涙を流したりするときも、あくまでも淡々としている。音楽を奏でる際も、そう見える場面が多い。音楽にたいして、どこか部外者であるふうな、態度で佇む。しかるに『暗闇の哲学者』では一転、そうしたスタンスがうまく壺にはまったのか、悠然とした、独特な雰囲気をかもし出していて、とびきりに冴えて美しく映る。静かに佇むその可憐な横顔は、情感に脈打つ八木仁愛の対比として、楽曲の世界観をより深く複雑なものへと押し上げている。
ダンスというものは、鑑賞者が思わず息を呑んでしまうような瞬間が一つ、たった一つ、あればそれでいい。それだけで、鑑賞者の内でそのアイドルは特別な記憶となる。その「瞬間」を描き出せる少女だけがトップアイドルになれる、と言ったらこれは大げさではあるのだが、杉浦英恋はどうやらその才能に恵まれているようだ。


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須永心海、平成17年生。
意気阻喪して見えたデビュー当時と比べれば、もうすでに垢抜けてきていて、都会の力を借り優雅なビジュアルを会得している。言葉・文章はかなり平板だけれど、その味のなさがある種の純潔さとなってビジュアルに表出している。デビュー当日、メンバー発表会の場で、人生で初めて、身体がふるえて止まらないほどの緊張を経験したという。そうしたエピソードの内にも、少女がすでに、「アイドル」をとおして本当の自分を知っていく、という憧憬にタッチしていることが見て取れる。知らない自分、見たくない自分、認めたくない自分というものに、なにものかを通して否応なく直面してしまう、成長の端緒を、図らずも描き出している。


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西森杏弥、平成15年生。
私が眺めた限りでは、グループいちばんの”考えるメンバー”だと感じる。進取の気性に富み、言葉に密度がある。自分がアイドルになった意味を「アイドル」との関わりのなかから発見しようとする、野蛮さ、うちまけた熱情を言葉にして伝える心の正直さが、すでに彼女のアイドルとしての魅力へと昇華されている。
考えることの弊害なのだろうか。グループ内の趨勢に右顧左眄しない強さを示す一方で、楽曲披露の段であえて無表情を演じてしまう一点ばりの悪癖をもっている。踊りに意識的であることの強度を踊りのなかでさらに高めようと試みているかのような、その行動力には一抹の不安を感じる。今、アイドルが自然体であることを教えようと演技してしまうことでむしろ不自然に見えてしまうという、矛盾を招いている。


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萩原心花、平成18年生。
感情を言葉にして表わすことが、ひどく苦手で、奥手な人のようだ。そういう人は、思弁的になりやすい。そして人は思弁的になると、豊かな感情を備える。その感情の秘密の一片が歌や踊りの中で苦もなく明かされるのだから、並ではない。ビジュアルも抜群に良い。美の萌芽がはっきりと目視できる。アイドルというものは、夏を前にした、6月のチョコレートみたいなものだ。萩原心花にもそうした香気、日常の場面で心を奪い去る、儚い気配がある。近い将来、人気者になるんじゃないか。グループの一方の主役を担う可能性を秘めている。


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長谷川稀未、平成15年生。
ダンスの技量を練磨することでグループに自身の立場を得ようとする点、レッスン場であっても、本番のステージ上であっても「表現」することを妥協しない点、自分と「アイドル」をつなぐ真のきずなに「ダンス」があるのだと誇示する点などは、曲がらない何物かを有した頼もしい人物であることを確信させる。
けれど、時にその頼もしさは、努力に値するものにしか価値を見いだせないアイドルだという息苦しい印象を与えもする。その息苦しさが、肝要のダンスにおいて、足を引っ張っているようにも見える。踊りの上達を目指す少女たちの誰もが求める巧妙さをすでに彼女は習得しているが、それだけに顔貌が一辺倒に感じる。ファンの眼に自分の表情がどう映っているのか、客観的になって、鏡を見つめる時間が必要かもしれない。


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早崎すずき、平成17年生。
「美」という観点で、貫禄がある。グループにたいして多角的に存在している。音楽のなかでは透徹した存在で、一瞬一瞬、表情が様変わりする。鋭く、ぞくっとするほど冷めた眼差しをつくり踊るときもあれば、キャラメルのように甘く曲がった歌声も出せる。その表現力を裏付けるように、日常にしろ、スポットライトの下にしろ、つねにどこか、ひそかな欲望に衝き動かされてアイドルを演じているのだろうと想わせる点に、アイドル群像を撹乱させる素顔をさらけ出すその瞬間に、もっとも強い希求があるかに見える。


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宮腰友里亜、平成16年生。
序列闘争において、這い上がる人がいるならば、当然、下がる人がいる。選抜制へと移行したセカンドシングル『卒業まで』では見事に表題作の歌唱メンバーに選ばれたが、サードシングルの制作にあたっては青空組から雲組へと活動の場を変えることになった。グループアイドルの物語の一つの醍醐味を体現したメンバーだと言ったら、あまりにも月並みではあるが。ダンスに苦手意識をもっているようだけれど、本人が思うほど悪くない。ステージのどこに彼女がいるのか、すぐに見つけることができるくらいの、存在感はある。やわらかな、生来の笑顔の明るさが有効に働いている、と言ったらこれも月並みだが。


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持永真奈、平成16年生。
踊りの巧者。どこか大人になりきれない日常のあどけなさをダンスで払拭する剛健な一面に説明されるとおり、本番のステージに立てば、毎回、実力以上のパフォーマンスを発揮する。
もちろんシーン全体で見れば、まだまだ未熟な面も多い。たとえば、楽曲をどう表現するのか、自分の感情をどう表に現すのか、という点に集中しすぎているためか、表情が粗くなってしまう場面が多い。しかしまた、そうした視野の狭さ、情熱の偏向が魅力になっていることも否定できない。それでいて本人は、アイドルに必要なものは歌とダンスだけではない、と話すのだから、付け入る隙がない。
しかしながら、そうした姿勢は、理に落ちているように見えなくもない。アイドルを最も魅力的に映し、夢の世界へと飛翔させるものが「ダンス」であり、たしかに、昨今の売れるアイドルの条件からそれは外れるかもしれないが、踊りの才さえあればそのアイドルの名は後世に残るのだという信条を、ダンスの分野で突出した実力を持った人間だけにはつらぬきとおして欲しいと、他人事ながら、ついつい望んでしまう。


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八重樫美伊咲、平成22年生。
最年少メンバー。幸か不幸か、最年少メンバーであることの避けがたい帰結なのか、グループの、同期の複数の人気メンバーの面影をすでに宿している。ビジュアルにしても、ライブパフォーマンスにしても、まだまだ荒削りな一方、アイドルとしての人気にかかわる多くの部分で、高い可能性を打ち出している。それだけに、本人にしてみれば、きっと、自分は「選抜」に入るだろう、と漠然ながら心のどこかで自信の念を燃やしていたんじゃないか。しかし、選ばれなかった。選抜発表に際し彼女が抱いたであろうその屈託は、『君のための歌』のミュージックビデオにおいて、推薦入試に失敗してしまった少女という設定を通して上手に描き出されてもいる。
万能感に足をすくわれ挫折した少女の成長物語、という視点では、雲組に求められるサクセスのひとつを象徴していると云えるかもしれない。最近は、借りてきた猫が本性をあらわすように、闘争心が出てきた。


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八木仁愛、平成19年生。
桁違いのライブパフォーマンスをもって、前評判のすべてをねじ伏せている。鑑賞者のすべてを印象批評に囚える踊り子だと、まず極褒めしたい。「ダンス」と「音楽」を結んで「アイドル」を純粋につくりだすことに成功したという点では、古典的であり、現在のシーンにあっては未来を描くことのできる数少ない希望の星に数えられる。音楽の中に自分だけの世界を作り上げた平手友梨奈に唯一人拮抗し得る存在だと、換言しても良い。
その特徴は、ステージの上に感情の起伏をつらねることで楽曲をひとつの物語に纏めあげる手腕にある。そのタイミングで笑みをこぼせるのか……、と感嘆させる、アイドルという魔法のマントを羽織って時間をひと飛びし作詞家・秋元康のノスタルジーの世界に馴染む、見れば見るほど引き込まれるビジュアルを描き出すことに成功するのは、音楽が鳴り止むまで、その余韻が覚めるまで、音楽に佇むことの美意識を枯らさない緊張感、自分の本音を誤魔化さない純粋さを彼女がそなえもつからに相違ない。
作り手の誰であっても、この才能を間近で目撃してしまったのなら、センターの他に選択肢はないだろう。アイドルの踊りに、表現のごときにほとんど重きを置かない、あやめもわかない現在のシーンに引かれたルールを書き換える存在として、音楽のエネルギーを引き出す希有な登場人物として、非常に期待がもてる。


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柳堀花怜、平成17年生。
あえて説明するまでもないのだが、音楽に純粋に接する、つまり秋元康というジャンルに立ったアイドルたちが編み上げる音楽に純粋に接するということは、AKBだったり乃木坂だったりを区分けしない、ということを意味する。当たり前だが、そこにジャンルの壁はなく、あるのは秋元康の言葉の上で踊る少女たちという前提、約束だけだ。つまり裏を返せば、乃木坂の音楽は評価するけれど、”僕青”の音楽は聴くに値しないという姿勢を示す多くのアイドルファンは、アイドルの作る音楽に純粋に接していないということになる。かれら彼女らはあくまでも乃木坂のファンであって、乃木坂の音楽のファンではない、ということだ。だから、音楽に純粋に接していない人間、と言わざるを得ない。そこに表現されているもの、はどうでもよくて、誰が表現しているのか、この一点にしか興味を抱けない、音楽性と人間性のどちらも貧しい、幼稚な集団だと、一刀両断するのは容易なのだが、柳堀花怜はそうした集団と、そうした大衆から距離を取ろうとする私の思料をあざ笑うかのように、AKB的であり、乃木坂的であり、またきわめて”僕青”的なアイドルを、生まれながらに立ち上げ、私の関心を握って離さず、胸に手繰り寄せる。とりわけ、アイドルとは、あくまでも信念であり、プラグマティックにはないということを、一貫して「行動」で示すという卓越化の矛盾にこの人のイロがある。前田敦子のように、また生田絵梨花がそうであったように、現実の感覚を失えるならば、なおのこと良い。


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山口結杏、平成16年生。
頭が良い。インタビューや対談など、用いる言葉がすこぶる明晰で、物事を端正に考えることで、一歩一歩、着実に前に進もうとしているのがわかる。これまでにグループが様々な場面で打ち出してきた命題と呼応する、一本芯の通った、強く清らかな人物に見える。それでいて隙もある。方言を落とすことが素顔の露出になるというギャップを生んでいる。とくに口をまっすぐに結ぶ仕草、笑みが美しい。
だが意外なことに、現在まで雲組にその立場を置いている。他のグループであれば、このタイプのアイドルはそつなく「選抜」のイスを手に入れ、ポジションを確立するものなのだが、しかし彼女はそうはならなかった。それはなぜだろうか。渦中にあるアイドル自身ではなく、むしろファンの側がそのズレを考えることが、山口結杏の世界に入り込めるかどうかの、まず最初のハードルになる。


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吉本此那、平成17年生。
公的な認知の証しとしてのビジュアルという意味で、一大砦を築いている。氷質を全身に走らせた、自然のままのおももち、放恣に流れた美しさもさることながら、そうやって身勝手に先行させたビジュアル・イメージ、つまり吉本此那というアイドルを眺めた際にファンが抱く印象と、アイドル本人がこれが自分だと考えているものとがなにひとつ一致していないように見える点がなによりも神秘的に映る。
今後、その質と人気にみあう楽曲が与えられるのならば、グループは大きく飛翔することだろう。


2024/05/10 楠木かなえ