正源司陽子はなぜ人気があるのか、理由を考える

ブログ, 日向坂46(けやき坂46)

正源司陽子(C)音楽ナタリー

「無限に引き延ばされた希望」

からだの隅から隅まで、心の隅から隅まで、全部言語でできてるんだな。隅から隅まですべて言語でできているはずなのに、ところが稀にそこから洩れるものがあるんだよ

保坂和志/季節の記憶

正源司陽子、平成19年生、日向坂46の第四期生。
あるアイドルを眺め、その魅力を探りだそうとするとき、少女のどこに注目すべきだろうか。ビジュアル、歌、ダンス、演技…、どれも欠かせないが、私がまず足がかりにするのは、言葉と文章だ。
言葉・文章に魅力のあるアイドルは、ほぼ例外なく、売れる。古くは指原莉乃、須藤凜々花、齋藤飛鳥。近年ならば池田瑛紗、中西アルノが代表的な存在になるだろうか。とくに齋藤飛鳥の存在感は絶大で、彼女の文体、ブログ形式を模倣する若手アイドルは後を絶たない。それはきっと、齋藤飛鳥の真似をすれば売れるとする、安易な発想によるのではなくて、齋藤飛鳥の言葉・文章に生きた魅力、自分自身に重なるなにか、があるから、齋藤飛鳥と同じスタンスで文章を書けば自己表現が叶うはずだと、希望に憑かれた行動なのだと思う。それだけ言葉や文章には人の心を動かすちからがある。そしてそのちからは齋藤飛鳥の魅力をじかに表してもいる。
今回、「正源司陽子はなぜ人気があるのか、理由を考える」とタイトルに打った。人気を考える、あるいはこれは、魅力を考える、と言い換えることができるかもしれない。アイドルの魅力をこの手に捕らえようと試みるとき、私はまず少女の編み上げた言葉・文章を読むことに注意を打ち込む。

正源司陽子、2022年にデビューしたばかりの若手アイドルだが、すでにグループの中で一二を争う人気者だ。その存在感は、日向坂の主人公・小坂菜緒に比肩するものだ。小坂菜緒と比べ特徴的なのは、言葉の遠回りした不透明さによって自身の弱さをメランコリックに表現する小坂とは対照的に、正源司陽子の場合、言葉の透明さ、感覚の透徹さによって、自身の弱さ、明るさ、暗さ、屈託をつまびらかにする点にある。
正源司陽子の言葉・文章を前にしてまず気づくのは、季節の移り変わりにたいして強い名残、ノスタルジー、大げさに表現すれば、生きるための希望のようなもの、を打ち出している点だ。日常のなかで、不意に、言葉にしてうまく説明することができない、不思議な感情が自己の内に芽生える瞬間がある。それはたとえば、夏の終りを告げる鈴虫の鳴き声だったり、冬の到来を告げる朝の冷気だったり、季節の移り変わりを肌に感じた瞬間だということを、デビュー以来、彼女は繰り返し言葉・文章にしてファンに伝えている。

街を歩いていて、服屋・雑貨屋などから流れてくる音楽や、すれ違う人間の匂い、屋台から漂う匂いが鼻をかすめた際に、過去の記憶・光景が呼び起こされ、その場に立ちすくむことは、よくある。でも、ほとんどの人間は、きっと、そうやって足を止めた経験を、すぐに忘れてしまう。
たとえばプルーストだったり保坂和志だったり、こうした、だれもが経験し、また誰もが忘れ去ってしまう、日常の機微を見逃さずに物語にかえていくところに小説家の性(さが)があるのだが、かれらと通い合う性質をもつ存在は、アイドルシーンの中にだって見つけることができる。日常のなかで遭遇する、不思議な体験。しかしそれはおそらく誰の身にも起こっているであろう普遍の出来事なのだという確信のなかで好奇心を育み、「日常」を言葉・文章に変えていく、そんな少女を発見することは、私になんらかの勇気を抱かせる。
保坂和志の『季節の記憶』では、タイトルどおり、季節の移り変わりが人にもたらすもの、を小説のなかで、書きながら、考えている。小説の登場人物たちが「季節」を語らうなかで、興味深いシーンがある。その一場面を、私なりに、私の稚拙な言葉・表現を交えつつ平板に解釈すると以下のようになる。

人間と自然のあいだには越えることのできない線が引かれている。人間は、言語でできた生き物だ。一方、自然界には言語は存在しない。山や海、空は言語でできていないし、動物も言語をもたない。言語をもつのは人間だけだ(この前提が、「季節の記憶」を考えるにあたっての要になる)。
季節が変わる、自然がその姿を変える、ということは、自然と共に生活を送っている人間とのあいだにズレが生じる、という意味でもある。季節の移り変わりを前にして、たとえば気温の変化、景色の変化、風の強さ、あたらしく芽生えた草花の発する匂いに触れ、過去の記憶が唐突に呼び起こされるのならば、それは自然とのあいだに生じたズレを感じ取った人間が、そのズレをなんとかして正そうとするからだ。
自然と人間のあいだに越えることのできない線が引かれていると言っても、地球に暮らす以上は、人は自然と歩調を共にしなければならない。しかし自然は人間の都合などとは無関係に、その姿を刻々と変えていく。人は日々の変化に対応しながら生活していかなければならない。人には自然を抑制するちからなど備わっていない。暑くなったら服を脱ぐし、寒くなったらコートを着る。可能なかぎり、自然に順応しようとする。だから自然が決定的に移動した際には、置いてけぼりを食う。自然がいつどこでその姿を変えるのか、正確に当てることは誰にもできない。だから自然と人間とのあいだにズレが生じる日が、必ずやって来る。
ある朝、玄関のドアを開けると、不意に、肌寒さを感じる。昨日まではたしかに暖かかったのに。その違和感は、結果的に私たちに居心地の悪さを与えたり、感傷に浸らせたりする。なぜならその違和感を解消するために、つまり自然との折り合いをつけるために、私たちは、それぞれが、それぞれの過去を観照する羽目に陥るからだ。私たちは、過去の体験の内に新しい環境に順応するための答えを見つけようとする。だから過去の記憶が呼び覚まされる。唐突に引き出された過去、いつの間にか忘れていた人生の時々が息を吹き返し、言いようのないノスタルジーを覚え、立ちすくむことになる。その”見つけようとする瞬間”を、人が言語から引き剥がされた状態、と表現できるかもしれない。言語から、気持ち以前のなにかが洩れ、それを拾い上げる瞬間だ、と。

多くのは人はきっと、人間にはまず感情があって、その感情を説明するために言語が用意されるのだと認識しているはずだ。けれどそれは大きな誤りだ。人は、まず言語があって、言語のなかで感情を得ていく、言語の先立つ生き物だ。たしかに、幼少期に限って言えば、言語は先立っていない。子供は、自然に限りなく近い生き物だ。しかし人は成長するにつれて言語を学び、限定された枠のなかで生きていくようになる。言語のなかに生き、みんなと同じように笑い、同じように悩むようになる。大人になるにつれて、平凡になったりもする。この「平凡になる」という考え方もまた、言語に生きる人間固有のもの、つまり平凡さの証なのだが。しかしそれにもかかわらず、その平凡さから、つまり言語から洩れるものを発見する瞬間がたしかにある。そのひとつが季節の移り変わりがもたらすズレ、その間隙に立たされた瞬間なのだ。このズレに私たちが馴れることはない。なぜなら私たちは言語のなかに生き、日々、人生を経験し、記憶を積み上げていくからだ。記憶が積み重なれば積みかさなるほど、人は、過ぎ去った季節を想う日が多くなる。

この「言語から洩れるもの」を考えることは個性をとらえることにつながるのではないか、などと云ってしまうと、どうしようもなく安直に感じられる。しかし、私の本音は、この点に強く引かれている。
人が言語のなかで生きている以上、個性などというものに期待はできない。より絞って云えば、どのようなアイデア、物の見方、生き方をもってしても、それはすでに過去において何者かの手によってテクストにされている。この現実、この前提からどうやっても抜け出ることができない私たちの言葉や文章に見出す個性など、たかが知れている。たとえば『季節の記憶』に発想を得てこうした興味を抱くこともまた、過去のテクストから逃げきれない、凡庸さにまみれている。しかし言語から洩れたものに限って言えば、そこにはたしかに、その人だけのもの、つまり個性があるんじゃないか、とつい考えてしまう(考えるまでもなく、「言語から洩れたもの」を問題にあげ言葉・文章にして表現することは、再び言語に落とし込み典型に収める行為と云えるだろう。しかしそれでもなお、そこには、ある人をその人たらしめる個別性つまり魅力を見出すことが可能なのではないか、と私は無防備にも希望を見つけてしまう。フィッツジェラルドに言わせれば、こうした「希望」こそ、まさしく”無限に引き延ばされた希望”にほかならないのだろうけれど)。

もちろん、私たちの生活のなかで、言語から洩れるもの、を発見する瞬間は「季節の移り変わり」だけではない。なによりもまず恋愛を挙げるべきだろうし、小説や音楽、テレビドラマや映画にだってその瞬間はある。それは、日常の様々な場面に潜んでいる。「アイドル」だって、きっと、変わらないはずだ。
たとえば、朝は落ち込みやすい人、とブログで打ち明ける正源司陽子の横顔はまさしく言語のなかに生きる人間そのものだと云えるだろう。朝、眼が覚め、その日にこなさなければならない雑事を考えると、気が滅入る。絶望感に襲われる。それは私たちが言語のなかで生きているからに相違ない。動物は、そんなことを考えない。眠りから覚めても、落ち込まない。それは”かれら”が言語のなかで生きてはいないからだ。
では、『シーラカンス』のレコーディングの際に、感極まって泣きそうになったというその瞬間の正源司陽子はどうだろうか。きっと、その瞬間、彼女は言語から洩れるなにかを拾い上げたのではないだろうか。中学生の頃、クラスメイトの前で初めてスピーチをしたとき、唇がふるえて、訳もわからず涙が込みあげてきたことを、今でもよく覚えている。あの忘れがたい瞬間と同じように、彼女も「なにか」を拾ったんじゃないか。
そうした瞬間に、そうした出来事があることに、そうした出来事を言葉・文章にして伝えられるアーティファクトなアイドルに、ファンは引かれていくのではないだろうか。

と、ここまでだらだらと、思いついたことをだらしなく書き連ねてみたものの、これを言ったら元も子もないのだけれど、こうした感慨は「正源司陽子はなぜ人気があるのか、理由を考える」と打ったタイトルへの回答としてはまだまだ不充分どころか、まったくの的外れであったかもしれない。
人気があるということは、そのアイドルになんらかの魅力=個性がある、これは明白だ。ではその「個性」とはどのようなものか、考え探ろうとするのならば、少女がアイドルを演じる時間のなかで、自己を形づくる「言語」から洩れたもの、を拾い上げた瞬間を見つけ出せば良い。と、ここまではわかった。けれど、それを考えることが「正源司陽子の人気を説明すること」につながらないこともまた明白だ。なぜなら、アイドル本人が拾い上げた「言語から洩れたもの」の具体的な効力を知っているのはアイドル本人だけだからだ。それが彼女の生き方に、アイドルの演じ方にどのような影響を及ぼしたのかは、本人以外、知る由もない。
なにが言いたいのかというと、アイドルを眺め、彼女はなぜここまで人気があるのか、考えるのなら、まず自分がそのアイドルに引かれる切々たる理由、そもそも引かれるところはあるのか、探るべきだし、それしか手は残されていないように思う。もちろん、ここまでに書きながら考えたものを捨てる気はない。自分がアイドルに引かれる理由を考える際にも「季節の記憶」「言語から洩れるもの」はかならず役立つはずだ。つまり、正源司陽子というアイドルに引かれる理由を考える、正源司陽子の内にどのような個性を見出しているのか言葉にする、という行為を、彼女がどのようにして私を言語から引き剥がしたのか、回復の不可能な衝撃を与えたのか、考える、という行為にすり合わせる。「季節の移り変わりがもたらすズレ」と変わらないものをより具体的なかたちをもって「アイドル」が私の心の内に生じさせた瞬間を、探し、考える。


(C)シーラカンス ミュージックビデオ

「ロマンチックな遡行」

ずっと前に失くしたと思ってた  僕にとって大事なものを  胸の奥で見つけたんだ

シーラカンス/秋元康

幸福の象徴である青い鳥を追いかける若者の群像という王道のシチュエーションのなかで、まだ何色にも染まっていない真っ白な少女たちがそのヴェールを脱ぎ捨て、日向坂46のイメージカラーである青に染まっていく、アイドルへと変身していく様子を記録した4期生楽曲『シーラカンス』のミュージックビデオは、アイドルになったばかりの少女たちが現実から幻想の世界へと空を駆けて行く際の希望を味わう作品となっている。
正源司陽子がセンターを務めたこの『シーラカンス』のミュージックビデオを眺め、まず覚るのは、その物語が、
先立って制作・発表された日向坂46・4期生のドキュメンタリー映像作品におけるひとコマ、言わば正源司陽子の素顔にあたる部分、アイドルになる以前の彼女の屈託を下敷きにしている点だ。
作中、正源司陽子演じる主人公の少女がひときわ目立ち、関心を誘うのは、楽曲のセンターに選ばれた少女を軸にしてストーリーが編まれているから、と言うよりも、空を見上げ、希望を見つめ求め、風に吹かれながらも、同じように希望=青い鳥を追いかけ走り出した少女たちの群像の輪に加わることにどこか臆病になっている、伏し目がちな、憂鬱な表情を、彼女が場面場面で垣間見せるからだろう。
”彼女”の憂いを、正源司陽子のドキュメンタリーの内に探り重ね合わせれば、右のようになる。中学生の頃、自分の”素”を出しすぎて嫌われたことがある。だから、人に正直な意見を言うのが怖い、と。
たとえばクラスメイトと話をしているとき、思いがけず、兄弟姉妹と接しているのと変わらぬ態度を取ってしまい、キョトン、とされる、困惑させてしまうことは、よくある。本来、他人とのあいだに置かれているべき壁を無意識に、衝動的に取り払い素顔をさらけ出してしまい、唖然とされる、果ては嫌悪感を抱かれる。しまった、つい素を出してしまった、と焦る。不注意にも素顔の自分をさらけ出してしまったことに気づき、後悔する。そればかりか、自分の本性が相手に激しい嫌悪感を抱かせていることを知る……。
自分のなかで「これが本当の自分だ」と考えているものが拒絶されるわけだから、若者のフラジャイルな心を抉るような出来事だ。もちろん、「本当の自分」なんてものは人前でさらけ出すには躊躇する醜いものであって当然だし、自分の醜い部分を知り尽くしていて、わたしは自分のことが嫌いだ、と話すアイドルもいる。思春期特有のアンビバレントを踏んで、私たちは人前ではなるべく素を出さないように注意を払って生きるようになる。日常の些細な場面まで、演じ生きるようになる。誰にでも、よくあることだ。

よくある、と云ってしまうと、取り立てて問題にするような出来事ではない、といったニュアンスで受け取られてしまいそうだけれど、それは誤解だ。よくあるけれど、それはやはりその人にとって特別な、これまでの生き方を変えざるをえないような、致命的な出来事なのだ。でもその特別さは、人間生きていれば誰もが人生の時々で味わうことになる、誰にも逃れることができない「特別さ」でもあるのだ。『シーラカンス』のミュージックビデオでは、そうした「特別さ」の渦中にある少女が青い鳥=夢を追いかけるというなにものにも勝る衝動のなかで、前を向き立ち直っていく姿を、少女がアイドルに変身していく過程として描き出している。

こうやって、作品の成り立ちを粗述していく段でどうにか気づけた点がある。それは「アイドルに変身していく少女たち」という構図を支えているものが「アイドルに救われた少女」であるという点だ。
上空の彼方へと飛んで行く青い鳥を目指し走り出した矢先、つまずき転んでしまった主人公だが、彼女は仲間から差し伸べられた手を握ることで、自分が立ち上がり前を向き直るまで誰一人欠けることなく、前を走っていた少女たちの全員が微笑んで待ってくれているのを知ったことで、救われる。ようやく笑顔を取り戻す。こうした無垢な光景を物語として映し出せるのがグループアイドルの特権なのだが、しかしなぜこうも、いともたやすく、アイドルを演じる少女たちはその絆を固く結びつけることができるのだろうか。
アイドルとアイドルの関係性を表す言葉として「仲間」を用いたが、これは正しくもあり誤りでもある。アイドルを演じる少女と少女の間柄を正確に一言で表現した言葉を、いまのところ、私は知らない。彼女たちの関係性は時、場所、場合に応じて意味を変える。彼女たちは時として、仲間であり、同士であり、ライバルであり、友人でもある。さながら、「夢」「アイドル」は、生まれも育ちも違う、時と場合によって互いに役割を変える少女たちを横一列に並べることのできる”ひかり”と呼べるだろうか。そしてその”ひかり”の効力の一つに「素顔の提示」があることを、不覚にも私はこの文章を書き始める前まで、見落としていたようだ。
もし『シーラカンス』のミュージックビデオが正源司陽子の”立ち直り”を描いているのならば、ドキュメンタリー作品から引用した彼女の屈託を作品のなかで解消していなければならないし、実際に、少女の「憂鬱」は上手に晴らされている。おなじ夢をもった少女たちに巡り会うクライマックスシーンがそこにあたるのだが、ではなぜ、おなじ夢をもつことが、つまりアイドルに変身することが少女たちを固く結びつけるのか。と考えたとき、一つの答えを教えてくれるのが、ほかでもない正源司陽子の屈託なのだ。
アイドルになることは、素顔をさらけ出すことだ。いや、正確には、アイドルになることは、自分ではないもうひとりの自分、を作り上げ仮面の下に素顔を隠し生きることだから、素顔をさらけ出すのは、夢見る少女が実体としてアイドルへと変身しようとするその瞬間、と云うべきだろうか。
自分以外のだれかに向けて自分の夢を語る、これは素顔の提示にほかならない。胸の内に秘めてきた「夢」を具体的に口に出し話すことほど、勇気のいることはない。なんだか照れくさいし、そんな夢叶うわけがないと鼻で笑われるかもしれない。想像しただけで、億劫になる。口に出すことで、無限に思えた可能性が否定されてしまうような。だから多くの人は胸の内に「夢」を秘めて生きていく。ある意味、素顔を隠して生きている。しかしアイドルは違う。アイドルは、自分が将来どうなりたいのか、同業者、またファンに向け、語らなければならないし、そもそも今日においてはアイドルになることそれ自体が大きな夢になっている。ゆえに少女たちは、アイドルの扉をひらくその瞬間、大勢の人間に向け素顔をさらけ出している、ということになる。そう、夢を追い求める人間としての素顔をさらけ出し合うからこそ、少女たちは固く結びつけられていくのだ。
こうした感慨をもってあらためて『シーラカンス』のミュージックビデオを眺めてみると、少女がアイドルへ変身する過程を描き出すことで必然的に生じる問いかけ、少女がアイドルになる瞬間、少女の内部でどのようなことが起きているのか、少女がアイドルになったことを裏付けるものとはなにか、という問いかけの出現にたいして、正源司陽子という少女の個人的な屈託をもって応じていることがわかる。
ちなみに正源司陽子のドキュメンタリー作品には彼女の憂鬱だけでなく、彼女がアイドルへと変身する瞬間も記録されている。正源司陽子がアイドルになった瞬間とは、オーディションの最終審査で番号を呼ばれた瞬間でもなければ、ファンの前にその姿を初めて現した瞬間でもない。それはきっと、旅立ちの日、家族の前でフルート演奏をした際に、涙する姉を見て、その涙が今まで見たことのない「涙」だと驚き知った、その瞬間だったのではないか。家族から未知の表情を引き出したその瞬間、彼女はアイドルになったんじゃないか。

つまりこの「瞬間」が、正源司陽子の横顔に触れたこの「瞬間」が、アイドルの働きかけによって「私を作る言語」から私が引き剥がされた「瞬間」となる。とくに素顔にかかわる彼女のナイーブな吐露、打ち明け話は、素顔を提示する大胆さにこそアイドルの魅力・才能があるのだとこれまでに繰り返し語ってきた私の価値観を大きく揺さぶる、引き返すことのできないクレバスを生じさせる、衝撃を与えている。
アイドルという仮面の下に隠された少女の素顔に引かれることは確かな事実だけれど、素顔を隠すことの一つの意味に、正源司陽子のような屈託があることを、まるで想像していなかった。どうして気が回らなかったのか。すこし考えればわかることなのに。考えてみれば当然だ、となる事柄を、しかしそれに思い至ることができないまま長い時間を過ごしてきた。この自覚は、作家として備えているべき資質を欠いているのではないか、気味の悪さを教える。たとえば、自分の身に起きた特別な出来事を、他人の出来事として、それを自分が目撃するというシチュエーションを作り物語るところに作家の性(さが)があるはずだが、そもそも、自分の身に起きないことを、想像できなかったことを文章のなかで考え発見していくことにも作家性は宿るのだ。

しかし打ち明け話というのはどういう形であれ破壊力抜群なのだな、とつくづく思う。打ち明け話をされた、という実感は、その人にとって自分が特別な存在だという確信につながるし、自己の内でもその人が特別な存在になっていく。カメラの前で打ち明け話をする正源司陽子の横顔は、それ自体が現実でありフィクションであるように感じる。鑑賞者にとっての、つまり私にとっての「アイドル」の出現を叶えている。
アイドルとは、現実のなかに当たり前のように姿をあらわす非現実の存在だ。そのアイドルから、人が季節の移り変わりを前にして抱く感情とまったくおなじもの、を投げ与えられる瞬間を探すと言ったが、そもそも「季節の記憶」をもつ少女だけを真にアイドルと呼ぶんじゃないか、などと今思ったりもする。
もちろん、正源司陽子の打ち明け話とは、これからまさにアイドルへと変身しようと試みている少女の行動力の一部分であって、ファンの個々に向けられたものではない。それにもかかわらず、もし彼女の科白が自己の内で特別なものへと昇華されるのならば、やはりそこには「季節の記憶」のようなもの、があるんじゃないか。自身の過去を観照し、ロマンチックな遡行に憑かれているんじゃないか。たとえば、眼の前にいるアイドルと良く似た少女に、過去のどこかで出会っていたことを、アイドルを通して、思い出す、ような。

私は、女性からよく打ち明け話をされる。親しい間柄の人よりも、初対面の相手、あるいは、自分にとって無害な人間、影響力をもたない人間にたいしてのほうが、自分のことを大胆に語れる、こころを打ち明けられる、という人は多い。だからか、私は、女性からよく打ち明け話をされる。
打ち明け話だから、なかなか深刻なものが多い。たとえば10代の頃に出会った少女には、処女をレイプによって喪失した、と告げられたことがある。当時、まだまだ若かった私は、そうした体験を口に出せてしまうことにある種の軽さを見出し、事の深刻さを理解できなかった。私に打ち明ける、
ということは、他のだれかにも同じようにして打ち明けているのだろうという漠然とした予感が、彼女にたいして親身になることを、避けさせた。何年か経ってから、それが私だけに打ち明けられたものだと知った。それ以来、私は、女性というのは大なり小なりレイプされた経験をもつ生き物なのだろう、と考えるようにしている。
20代後半、物書きとして駆け出しだった頃、アルバイト先で出会った少女からは、家族の抱える問題について、打ち明けられた。ある日、彼女の母親とお祖父さんが激しい口論を交わした。口論の末、母親がお祖父さんに向け、死んでしまえ、と言い放った。次の日、お祖父さんは本当に死んでしまった。借金を苦にした自殺だったらしい。けれど母親にしてみれば、自分の言葉が、ギリギリのところで耐えていた人間の背中を押してしまったのだと、確信したに違いない。母親は、しばらくして家を出て行ってしまったのだと。
自殺は、今では身近な話題だ。私の友人にも自死を選んだ者がいる。小学校、中学校と、実に9年間同じ教室で過ごした友人の死を、私も経験している。友人と言っても、高等部にあがってからは、会うことも喋ることもほとんどなくなった、旧友、ということになるが。彼の死を知ったのも、社会人になってからだ。彼が死んでから3年か5年、経っていたとおもう。彼が死んでしまったことを、私はずっと知らなかった。彼の死を知ったとき、中学の頃に彼に対して私が言い放ったいくつかの言葉、口に出してはならない類いの言葉を、私は思い出した。私は、直感したものをその場で口に出してしまう、衝動を抑えられない子供だった。もちろん私の言葉が直接彼を死に追いやったわけではないけれど、私の言葉が彼の心の内にあるなにかを突いていた、つまり私を苛立たせた問題が彼の死の核心であるならば、結局、彼は私の言葉によって死への歩みを始めてしまったのかもしれない。言葉は、時間に囚われないのだ。というようなエピソードを、私は彼女に話してみたのだけれど、それが彼女と彼女の母親にとって何らかの慰めになったとも思わない。

人生の折々で、私に打ち明け話をしてくれた彼女たちの顔は、今ではもうぼんやりとしか思い出せない。アイドルに計り知れないパワーがあるとすれば、夢という青春の横溢にかもし出される儚さが希望となって、過ぎ去った少女たちの横顔にアイドルの横顔をかさねる点にあるのだと、私はおもう。


2023/10/05  楠木かなえ