乃木坂46 理想の「選抜」を考える 34th シングル版

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「イストワールを編み出す秋元康」

日本人ってえのはな、静かで控えめで小さなものの中にだけ、価値を見つけるんだ

矢作俊彦/あ・じゃ・ぱん

33枚目シングル表題作のタイトルには、おひとりさま天国、と印された。井上和という正真正銘の逸材をセンターに迎えた今作品の見どころは、私たちの日常生活に「アイドル」が関わることで、その生活がどのように変わるのか、という、アイドルが持つ力の再発見と、その際に立ち現れるアイドルの物語化、にあるだろうか。
私たち一般生活者の日常を表す工具としてまず準備されたのが「おひとりさま」であり、そこに「アイドル」が関わることで「おひとりさま天国」になるのだと云う秋元康の作家としての好奇心と童心は、アイドルのもつ活力を表現すると同時に、音楽の内に文句なしのイストワール(物語)を作り上げることに成功している。
作家という生き物は、自身の作品の内に、自分が生きた時代の風景、風俗、社会が活き活きと記録されていなければならないとする、退屈な使命感を、往々にして、抱くものである。とはいえ、ゾラやバルザック、スタンダールなど、外国の古い小説が今でも読み返される理由の一つに、物語のおもしろさもさることながら、作品のなかに当時の社会、当時の人間の生活の匂いが丁寧に保存されていることの希求があることもまた否定しようのない事実である。スマートフォンカメラなどなかった時代に、作家その人がカメラとなり、一般生活者の日常を剥ぎ取り記録する。ゆえにその物語たちは、過去の時代を知るための貴重な資料になっている。
イストワール、これはフランス語の「Histoire」をカタカナで表したものだが、イストワールと書けば、それは「物語」を意味すると同時に「歴史」を意味することになる。つまり物語を書く行為は、必然的に歴史を記す結果につながる。歴史であれば、その言葉たちは長い時間の経過に堪え得ることだろう。流行りの文言を執拗に歌詞の内に取り入れる秋元康もまた、こうした憧憬に根ざしているのではないだろうか。10年後、50年後、100年後、自分の作品に触れた人間の心の内に、自分が生きた時代の風景が浮かび上がり自分がそこに生きたことを証明するような、理想に憑かれているのではないか。

秋元康がおもしろいのは、と云うよりも、秋元康だけの特権とは、このイストワールの誕生に「アイドル」を絡めることができる点で、いや、「アイドル」を絡めることでようやくイストワールの誕生を叶える点であり、今作においては、「おひとりさま」という現代人の特徴に「アイドル」を絡め通い合わせることで、「おひとりさま」というネガティブでありまたポジティブでもありえる現代人の性(さが)、救いようの無さを肯定できるようになる、純粋無垢な物語を完成させた。文字どおり、「おひとりさま天国」が空高く浮かび上がった。
自分が生きる社会と、自分が眺めつづけるアイドルを重ね合わせる。するとそこにどのような光景が映し出されるのか、アイドルたちがどのように動き出すのか、しっかりと想像している、ということである。あるふたつの事柄を結びつけ、そこにもうひとつ別のなにか、あたらしいなにかを生み出そうとする……、これは文句なしのアート=芸術であり、坂道シリーズ発足以降の、秋元康の明確にされたスタイルである。
そのスタイルの魅力を端的に表せば、詩情の内にアイドルが顔を出すことで、それが詩でありながら小説じみた散文を叶える点にある、となるだろうか。もちろんそれはボードレールに代表される「散文詩」などではなく、あくまでも小説に焦がれる人間の私情の発露としての「散文」に相違ない。

秋元康の書く歌詞が小説じみていることは、ほかならぬアイドルファンの言動によって証されている。
小説を読む際には、おそらく読者のほとんどが、「現在の自分」を通して物語を読み解釈しようとするはずだ。貴方が落ち込んでいれば、作品はその屈託に寄り添うように貴方を励ますのだろうし、恋愛に悩んでいるならば、登場人物の一人がそれを解消するヒントをそっと提示してくれる。要するに、自分の気持ち次第で物語の有り様が変わる、眼に映る世界が一変する、小説は自己の成長にあわせて学ぶべきものを常に提示してくれる。ゆえに小説は、人生を通して読み返すに値する存在になり得る。
けれど、見落としてはならないのが、そうした読者の都合とはまったくの無関係に、小説は、そこに書かれている文字は過去から現在に至るまで何一つ変わらずそこに存在しつづけているという点で、たとえば小説家の保坂和志はそれを「現前性」と表現している。小説の作者の「表現」は常に、ただそこに在るもの、でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない、と。裏を返せば、「現在の自分」を通して小説を読み解釈することは、作品に対し純粋な接触を叶えないことを意味する。ただそこに在るだけの文字、言葉、物語にたいして自分の感情をぶつけ解釈することを「批評」と呼ぶのだが、もちろんこれは音楽も変わらない。

音楽に触れ、それを自己流に表現することは、作品とはまったく無関係である「私」を表現する、ということである。あるいは音楽が小説よりも「手軽」に感じるのは、ただそこに音楽が在り、ただそれに触れているだけだ、という態度をだれもが自然に取ることができるから、なのかもしれないが。仮にそれが言葉とは別の場所にある「音楽」の特性だとするならば、秋元康の編み上げる音楽はそうした力からは決定的に隔絶している。

秋元康の編み上げる音楽は、鑑賞者がただ音に身を任せるような、作品への純粋な接触、を叶えない。もはや説明するまでもないが、それはアイドルという前提・条件に鎖されるから、ではなく、秋元康の言葉が小説つまり散文に恋い焦がれたものであるからだ。音楽のなかに物語が起こされ、その登場人物をアイドルが演じる以上、ファンは音楽への純粋な接触を叶えず、小説を読むときと同じように「私」を通して音楽に触れることになる。「私」のなかで音楽を、アイドルを解釈しようと試みる。この点に、秋元康の言葉の魅力がある。たとえば『君の名は希望』『サヨナラの意味』『最後のTight Hug』の3部作。『シンクロニシティ』『僕のこと、知ってる?』『しあわせの保護色』の3部作などが、そのイストワールの代表的存在となるだろうか。
したがって(作曲家、映像作家、なによりもアイドルの顔ぶれが入れ代わり立ち代わり変わるなかで、作詞家だけはただひとり変わることなくシーンを歩み続けてきたのだから、当然と云えば当然なのだが)、現在のアイドルシーンにあっては、作詞家である秋元康の魅力・才能だけが突き抜けて成熟しきっているという、シーンに携わる多くの人間が秋元康の力量に拮抗し得ないという問題が浮き彫りになりつつある。
であればこれもまた至極当然、ここに一つ、好奇心を抱く。ではその秋元康の「言葉」の上で踊りを作れるグループアイドルとは誰か?という探究心、遊び心を。
なんのことはない、今回もまた、これまでと同様に、秋元康の詩情と響き合えるだけの資質を有したアイドルを探し当て、自己流に語る=理想を象る、理想の「選抜」という、言わば偽史を育み、愉しむことにする。


伊藤理々杏
久しぶりに「選抜」に入った。表題作のもつイメージ、とくにミュージックビデオの世界観への浸透力には目をみはるものがある。小閑を楽しむ人間の機微を上手に描き出している。作品で再現されたとおり、アイドルシーンの外側にたいする訴求力を高めたメンバーでもある。

岩本蓮加
これといって語るところなし。性根の軽い、太平楽を並べるだけの、楽隠居のアイドルへと変化を遂げた。

梅澤美波
キャプテンに就任し、『シンクロニシティ』を帷幄(いあく)の中で発する言葉へとかえたことで、グループアイドルを演じる少女にとってのシンクロニシティを描き出した。楽曲の内にこれまでにはない解釈を生み、新しい魅力を発現させた。ビジュアル良し、演技良し。とくに、日常の立ち居振る舞いに嫌味が一切ないところが素晴らしい。踊りの硬さ、ぎこちなさを克服さえすれば……。

久保史緒里
変わらず、文芸における海千山千のやり手。近年は、メディアを通し、より広く乃木坂=アイドルの魅力を伝えようと試みている。けれど、世評に迎え入れられたいと切望するその鼻息の荒さが、短期的にはアイドル本来の魅力を大幅に削いでしまっているように感じる。言葉、文章をもって正鵠を射ることができないという、教養の欠如が暴かれてしまった所為だろうか、ビジュアルもどこか間が抜けて見える。言葉に魅力を宿すことができないアイドルが、秋元康の詩情に揺れることを果たして可能にするだろうか、疑問。

佐藤楓
ベーシックな能力を持つベテランのアイドル。良く言えば安定的、悪く云えば退嬰的。アイドルの内に新しいものを取り入れようとする意気込みに欠けている。メディア展開を眺めていても、ただ同じことを繰り返しているだけにしか見えない。

中村麗乃
ようやく「選抜」入りを果たした。この人もすでにベテラン・アイドルだが、この人がほかの3期と決定的に違うのは、アイドルとしての瑞々しさ、無邪気さをそのビジュアルに備えもつ点だろう。裏を返せば、アイドルがまだまだ語り尽くされていない、ということだけれど、それが中村麗乃の現在の強みであり弱さでもある。
表題作のミュージックビデオを眺めればわかるとおり、この人のビジュアルは作品の水準を一段も二段も上に押し上げる。画面に一瞬映し出されるだけで乃木坂が乃木坂たり得る理由が証される。

向井葉月
紆余曲折を経て実を結んだアイドルの誠実な横顔が、根強くファンを引きつけている。まだまだ気炎に満ちているところが嬉しい。

吉田綾乃クリスティー
わたしのことは、わかる人にだけ、わかればいい。という心地の良い場所に引きこもっているらしく、アイドルの鞍部を見ることができない。遡上する場面を一つとして描き出さない。見方を変えれば、「おひとりさま」にもっとも距離が近いメンバーと云えるかもしれない。だからどうということはないのだけれど。

与田祐希
やや旬が過ぎてしまったが、送像されるアイドルの表情・演技にはなかなかの情感がある。

山下美月
アイドルとして、まさに今ピークを迎えている。現在の山下美月は、過去のどの「山下美月」よりも凛として鮮やかで、美しい。表題作のミュージックビデオにおいては、センターで踊る少女に勝るとも劣らない存在感を発揮している。気になるのは、アイドルを演じるためのアイデアを枯渇してしまった点だろうか。それは言葉・文章によく現れている。24歳にしては、言葉に魅力がない。10代の頃と比べても、用いる言葉に変化がない。この点は久保史緒里とよく似ている。あるいは、柏木由紀。アイドルのまま大人になってしまった人間が、人間性の貧しさをさらけ出してしまう。しかも当の本人はその醜態にまるで気がついていない。その横顔は、令和のアイドルシーンを写した無残な鏡である、と大仰に表現すべきかもしれない。

阪口珠美
一転して、阪口珠美の場合、言語の特徴が個性につながると確信したメンバーであるように思う。言葉に意識的だから、ダンスも個性的になる。とりわけ生の感情を言葉にかえるのが上手い。「一緒に居すぎて なかなか写真撮らないわたしたち」、と日常の機微を詩のように書き出す。間投詞だけで会話を成立させてしまうところも面白い。この人そのものが”流行りの文言”であるように錯覚される。*1

遠藤さくら
ビジュアル、歌、ダンス、演技…、すべてを最高水準に一致させた希有なメンバー。「アイドル」のなかで「私」を奪回しようとするその演技力は比肩する者がいない。

賀喜遥香
音楽・ステージのいたるところで才気を見せつける。喜怒哀楽を結構させたその笑顔は、もはや独擅場である。成長への余白を探り出すとすれば、『マグカップとシンク』における演技が顕著だが、日常を非日常として描き出すための「異化」にあるだろうか。

掛橋沙耶香
療養中のため、選考外。

金川紗耶
ビジュアル、ダンスはもちろん、果敢さ、生命感など、多様性の魅力をあげていけばキリがない。バラエティ番組においては、その多様性の高さを存分に発揮した。欠くことの許さない存在にまで成長した。

黒見明香
自分の興味のないところ、関心を寄せることができない場所でなにやら物語が起きているらしい、という気配が、実はファンのモチベーションを支える。黒見明香はその物語の中心に立っているようだ。

佐藤璃果
アンダーに再び落ちたことで、アイドルの物語が烏有に帰した。ひたすら迂路をたどるアイドルに感傷を見出だせるかどうかが、佐藤璃果を推せるかどうかの岐路になる。

柴田柚菜
歌、踊りのいずれもアイデアの練り上げがなく個性に乏しい。現状は、乃木坂の亜流でしかない。糟粕をなめている。演技は上手い。

清宮レイ
兌換されたアイドル、といった印象に落ち着いた。フレネミーに生きる人だけれど、それ以上に、そのキャリアの起伏を眺めれば、多くの若手アイドルが戦々恐々とすることだろう。

田村真佑
アイドルとして活動すればするほど澄んでいく、不思議なアイドル。秋の澄明な空を眺めているような、ノスタルジックな趣をもつ。「演劇の乃木坂」の正統な担い手でもある。

林瑠奈
休業中のため、選考外。

矢久保美緒
言葉・文章は、思いのほか、冴えていて、端正。ダンスも潔癖。その飛びきりに冴えた意識が、存外、ファンの壺にハマらないのかもしれない。

弓木奈於
バラエティ番組における存在感を日増しに強め、猖獗(しょうけつ)を極めている。歌、ダンスを鍛えることができれば、尚良し。

筒井あやめ
自分のペースをしっかり守り、アイドルを演じ作っている。時にその姿勢がプライドの高さとなってアイドルの飛翔を妨げているように見える場面もあるにはあるが、そのプライドがアイドルとしての実力を養っていることもまた事実。開花が待ち望まれるメンバー。

松尾美佑
言葉による感情表現、とくに陽気さのなかで心の暗い部分を表現するのに長けた人であるらしく、それがダンスに活かされているように見える。『踏んでしまった』では彼女にしかできないであろう仕草・動作を踊りの内に落とし込んでみせた。ビジュアル、多様性、ダンスと三拍子揃ったメンバーへと成長した。

五百城茉央
演技においては、5期のみならず、現在の乃木坂における大立者。『古書堂ものがたり』では素晴らしい演技を披露した。自己の日常を思い返し演技を作ることで、その演技がそのまま日常においても反復され、日常と非日常の交錯が現実とフィクションの循環を生むという、役者としての勘を備える。それはライブステージの上でも変わらない。茶目っ気あるエレガントな踊りは、彼女の素顔がどのようなものなのか、妄想させる。

池田瑛紗
前作『人は夢を二度見る』から今作『おひとりさま天国』までのあいだで、最も成長したメンバーと云えるだろうか。とくに踊りの変化は目覚ましく、日常を脱ぎ捨てることに成功し、アイドルがしっかりとタフタを身にまとっている。言葉・文章に向ける熱誠も衰え知らずで、ファンが眼に映すことのできないアイドルの生活風景を、日々、細やかにノートに書き連ねている。

一ノ瀬美空
ミュージックビデオなど、速成される舞台であっても、この人だけは、常にゆったりとした上品な踊りを披露している。アイドルを演じることの意識の強さ、その賜物だろうか。さすがとしか言いようがない。

井上和
メンバー個々とのかかわり合いのなかで、ではなく、秋元康の編む言葉・音楽を通して乃木坂らしさを相承していく様子には胸躍るものがある。緊張した表情を、いや、緊張感そのものを魅力に変えられる人でもある。

岡本姫奈
休業中のため、選考外。

小川彩
アレグレットに歌い踊り成長している。知勇に抜きん出た少女であるらしく、歌、ダンス、演技のいずれも自惚れているところがひとつもない。『考えないようにする』を表現する彼女を眺めていると、乃木坂のダンスとは踊りであり演技でもあるということを、独自に理解しているように見える。

奥田いろは
この人の歌声に一度でも魅了されてしまえば、もうほかのアイドルの歌では満足できないだろう。熱気にあふれたダンスもキュート。野に遺賢なし、という言葉があるが、奥田いろはの名が「選抜」に銘記されたとき、乃木坂の第二の黄金期の到来が約束される。

川﨑桜
いまのところ、ビジュアルのほかに特筆する点を持たない。持たないが、そのビジュアルがずば抜けて素晴らしいので、「理想」から外すという選択はまずあり得ない。

菅原咲月
美しい、という言葉は容姿にだけ用いる言葉ではない。日常の立ち居振る舞い、行為や態度つまりビジュアルにたいして用いる言葉だ。菅原咲月は、現在の乃木坂において最も美しいアイドルであると思う。その美しさを一言で云えば、アイドルという幼稚さに溢れたコンテンツにそぐわないアクチュアルな美、となるだろうか。
その「美」は、秋元康の差し出す音楽を演じきれるかどうか、という問いかけから抜け出て、果たして秋元康は菅原咲月という人に似つかわしい音楽を作れるのか、斬り返す。むしろそうした緊張感のなかで作られた音楽だけが、アイドルの物語化を叶えるのではないか。『君の名は希望』『サヨナラの意味』『最後のTight Hug』の3部作。『シンクロニシティ』『僕のこと、知ってる?』『しあわせの保護色』の3部作に次ぐイストワールの誕生を考える際に、最も重要なピースになり得るアイドルとして、この菅原咲月の名を挙げるべきだろう。

冨里奈央
5期生楽曲においてセンターに選ばれた。考えないようにする、という、紋切り型のイメージではあったが、アイドルのキャラクター付けに役立ったようだ。木々のあわいに見る、アイドルの雲霧に満ちた表情には確かに引かれるものがある。

中西アルノ
アイドルというジャンルに自身の周波数をうまく合わせられるようになった。『考えないようにする』においては、もやの立ち込めた水面を晴らすような、透徹した歌声を披露した。気にかかる点は、ダンス、になるだろうか。踊りの最中に描き出す表情の豊かさ、思い切りの良さには感心するが、足取りがひどく不安定……。運動能力の低さ、足腰の弱さを克服することが今後の課題か。

よって、私が考える理想の「選抜」は以下のようになった。34thシングルのセンターには菅原咲月を選んだ。

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4列目:五百城茉央、一ノ瀬美空、中西アルノ、池田瑛紗、奥田いろは、冨里奈央、金川紗耶
3列目:中村麗乃、田村真佑、井上和、筒井あやめ、川﨑桜
2列目:遠藤さくら、小川彩、賀喜遥香
1列目:菅原咲月


2023/09/04  楠木かなえ

*1乃木坂46公式ブログ