乃木坂46の『車道側』を聴いた感想

ブログ, 乃木坂46

(C)車道側 ミュージックビデオ

「センターは、筒井あやめ」

山下美月のラスト作品となった35枚目シングルは、作り手の、やや独りよがった、たとえば『Actually…』以来の、アーティスティックな志向弾を放っている。チャンスは平等だと、笑顔で歌うその音楽は、ながい時間アイドルのことを間近で眺め続けてきた人間だけが表現し得る活力にあふれ出ている。シーンのトップランナーであることの余裕なのだろうか、はたまた、矜持なのだろうか、「選抜」の構成もまた、他のアイドルグループではとても真似できないような大胆なものとなっている。アイドルとしての人気・知名度の一切に囚われず、楽曲のテーマに忠実に、山下美月の同期である3期生のすべてを歌唱メンバーに並べた点には、感服するしかない。

とすれば当然、ここにひとつ、ひずみが生じる。アイドルとして確かな実力をそなえたメンバー、それも将来性豊かな若手メンバーの多くがアンダーに控えるという事態が、今作においては生じている。個人的にまず最も違和感を覚えたのが、金川紗耶。休業明けという事情があるにはあるようだけれど、アイドルとしての実力は相当なもので、ビジュアル、ライブ表現力、多様性のいずれも、現在の乃木坂にあっては最も完成されたメンバーだと云えるだろう。中西アルノ、小川彩、菅原咲月、冨里奈央の4人も「選抜」の水準を軽く超えている。とくに小川彩は、表題作のセンターにいつ立ってもおかしくない逸材だ。そして、この上にさらに筒井あやめの名前が載るのだから、胸に抱いた違和感もいよいよ抑えきれなくなってくる。

けれど、そうした違和感は、実際に楽曲に触れてみると、上手に晴らされてしまう。
筒井あやめをセンターに配し披露された『車道側』は、日常のなかで私たちをそっと驚かせる、小さな「戸惑い」のようなもの――「戸惑い」が誤りならば、やはり「ひずみ」と表現すべきだろうか――を人が成長することの原動力として、準備し、奏でられている。

まずは歌詞。
これはもう秋元康ならではと言ったところで、青春の些細な一面、しかしそれなしでは青春は象られないという一瞬の出来事を、アイドルを通して物語っている。
恋人(意中の人)と歩くとき、自然と車道側に立とうとする、肩をつかんで位置を入れ替えようとする、そう思い立つ、これはきっとだれでも一度は経験する、青春の1ページだ。でもきっと、そうした経験はみんないつのまにか忘れてしまうんじゃないか。かけがえのない瞬間であったはずなのに、いつのまにか忘れてしまっていた記憶を呼び覚ます点に、秋元康の詩の魅力がある。今作においてもその魅力を下敷きにしつつ、今作では、なぜ「僕」は車道側に立とうと思い立ったのか、という疑問を、「好き」だからという理由だけで片付けてしまわずに、そこに「成長」だったり、「アイドル」だったりを絡め、しっかりと考え、物語を起こしている。青春を想うことは、自分の成長を思うことでもある。未熟な自分が、一歩、大人に近づいた瞬間を探すことが、自分の青春がどこにあったのか、考えることになるんじゃないか。車道側に立とうと思い立ったその瞬間に「青春」があって、それが自分が「成長」したことの記憶になるんじゃないか。

次にミュージックビデオ。
映像作品もまた歌詞と同様に、小さな戸惑いのなかで成長していく若者を描き出している。その「若者」を描き出す際に映像作家の個性、作家としてのスタイルが役立てられている点に、見どころがある。
一見してわかるように、今作品では、カメラのレンズを人間関係の隔たりに仕立て、アイドルを語っている。カメラで距離をつくる、カメラを通すことで距離を感じてしまうという作家個人の経験がセンターで踊るアイドルの個性を映すことにつながっている。あらためて説明するまでもないけれど、伊藤衆人という人は、これまでに乃木坂の数多くの場面でアイドルと接し、アイドルを間近で眺め、作品の内にアイドルをとらえてきた人だから、きっと、アイドルたちの絆をレンズ越しに眺めることで、ある種の距離を感じ取る、そんな経験を持つんじゃないか。MV・PV制作をとおしてどれだけアイドルの内実に迫ろうとも、夢に結ばれたその少女たちの絆に自分が加わることはできないという、寂しさのようなものを、肌で感じとった人なんじゃないか。
人と人との距離って、人の数だけあるというか、たとえば恋人同士だからといって当人のあいだでかならずしもその関係が最も密なわけではない。と言うか、密接は密接なんだけれど、同じような密接さが同時に違う場所にもある。私の個人的な体験を述べれば、昔、交際中の恋人が、仕事の愚痴を友人に零しながらぽろぽろと涙を落とすという場面を目撃したことがある。それまで私は彼女の涙を一度も見たことがなかった。二人でいる時に、泣いたことは一度もなかった。だからか、私は、少なからずショックを受けた。彼女のことを、遠く感じた。すごく遠い遠い距離を感じた。もちろん、恋人なのだから、私と彼女は特別な関係で、特別な距離をもっている。でもそれとはまったく別のところに、それと同じだけの、あるいはそれ以上の密接さをもった距離があるのだということを、大人になった今ならば理解できるけれど、まだ若かった頃の私は、とても受け入れることができなかった。『車道側』のミュージックビデオには、こうした若者の甘く切ない「距離感」が瑞々しくも描き出されている。日常の寂寥のようなものが作品にうまく落とし込まれているように感じる。ファンから眺めた筒井あやめを作品に取り込む際に作家の私情が活躍した、幸福な作品だと、強く感じる。

 

2024/04/07  楠木かなえ
2024/04/21  一般公開に際しタイトルと見出しを変更しました