僕が見たかった青空の『暗闇の哲学者』が最高点をマークする理由

僕が見たかった青空, 楽曲

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「傑作を生み続ける秋元康」

あれもしたいこれもしたい 人生は短い

秋元康/暗闇の哲学者

最近は、映画制作に付きっきりだ。多忙になると、当たり前のように顔を合わせていた友人たちと、自然と、会わなくなる。幸か不幸か、僕は一般社会人としてまともに働いた経験をもたないから、ほとんど休みなく長期間、プライベートの大部分を犠牲にして仕事をするのはこれがはじめての経験だ。恋人ができると、友人との付き合いがおろそかになる。友人と過ごすより恋人と過ごす時間のほうが楽しいから、なのだが、今の僕にとっては、仕事が恋人になってしまったらしい。こうした気持ちはきっと、アイドルも変わらないんじゃないか。売れ始めたアイドルの充実感と孤独感みたいなものを、すこしだけ、理解できたかもしれない。

先日、「アイドルの値打ち」は文学のサブ・ジャンルとしてアイドルを用意し語っている、というような意見を耳にした。聴きながら、僕は違和感を覚えた。サブ・ジャンルという視点は、たしかに、興味深いものではある。たとえばレイモンド・チャンドラーは文句なしに純文学作家だけれど、チャンドラーの小説の多くがミステリーをサブ・ジャンルとして用意していることはあらためて説明するまでもなく、そのサブ・ジャンルにされたミステリーのおかげで、チャンドラーは大衆を引きつけることができた(チャンドラーも僕とおなじように、文筆業のかたわら、映画の脚本を書いていた時期があるらしい)。このチャンドラーの成り立ちに刺激を受けたのが、ほかでもない、村上春樹であり、村上春樹が純文学のジャンルに立ちながら多くの読者を獲得することができた理由もまた、チャンドラー同様に、純文学のなかに別のものを、ありていに言えば、エンターテインメントとしてのサブ・ジャンルを用意したからだ。そのサブ・ジャンルの存在感が強すぎて、多くの場面で、村上春樹が純文学作家であることを大衆が忘れてしまった点もまた、チャンドラーの悲劇と似通っている。
要するに、サブ・ジャンルを用意する目的は、メインのジャンルの可能性を広げるためであるから、説明するまでもなく「アイドルの値打ち」はそこに当てはまらない。僕はアイドルを語ることで文学の可能性を広げようなどというバカげた希望はもっていないし、僕が「アイドルの値打ち」でやっていることは、その真逆の行為だ。アイドルを語るための手段として、文学を用いているにすぎない。かと言って、アイドルのサブ・ジャンルとして文学を用意しているわけでもない。僕のなかで「文学」がアイドルの下に控える事態などありえないからだ。あくまでも、文学の力を借りて、アイドルを語っているにすぎない。

では「アイドルの値打ち」におけるアイドルと文学の関係をどう説明すべきだろうか。それを一言で表せば、エピファニー、ということになるのだろう。これは小説的にはジョイスが広めた言葉であると記憶している。ジョイスは、宗教を考えることで得た発想を文学つまり小説を作ることのアイデアへと変換していった作家で、そうした手法を自ら「エピファニー」と表現している。
「アイドルの値打ち」で楠木かなえという作家がやっていることがまさにこの「エピファニー」で、ジョイスは宗教から文学へと移動したが、僕は文学からアイドルへとスライドする。僕は物事を考える際にはまず文学を準備するタイプの人間だ。文学に触れるなかで得た発想を、生きることの糧にしているわけだが、「アイドルの値打ち」においてもその、発想を役立てる、という行為を実行しているにすぎない。もちろん、そうした「考える」時間のなかで、アイドルから発想を得ることもある。つまり、一方通行ではない、ということが、転じて、僕のなかでアイドルが文学のサブ・ジャンルになっていないことを、教えている。

しかしなぜこうも「文学」にすがるのだろうか、と読者の多くは疑問を抱いているかもしれない。その疑問への回答はすでに、「アイドルの値打ち」立ち上げ当時に”まえがき”として記してはいるのだが、ここで今一度、より説得力を出すために「引用」のもつ権威のちからに頼って示してみようと思う。

…短篇集『空の怪物アグイー』を町田の有隣堂で購入し、文庫本のいちばん目に収録された「不満足」を読んだことが決定打となった。のめりこまずにはいられないというほどの読書体験を持つ人間からすればきっとめずらしい話ではないはずだが、ここにはおれのことが書かれていると思ってしまったのだ。
…文学による世界の変革などもはやかなわぬ夢にすぎまいが、小説がひとりの人生を変えることはできる。少なくともわたしは大江を読んでそうなった。しかし肝心なのはつねに変化のあとなのだ。

阿部和重/群像 2023年5月号

小説=物語とは、要するに、人間を書いて、その人間がその世界のなかでどう動くのか、作家が考え描き出したものだから、そこに「人間」がある以上、その登場人物の生き様、結末は、読者の人生のなにがしかに重なる可能性がある、ということだ。自分のことが小説のなかに書かれている、ということは、他のだれかのこともまた、そこに描き出されている、ということになる。もちろんそうした「可能性」を実現するのは、一握りの、豊かな才能を有した作家だけであることは、言うまでもないが。いずれにせよ、アイドルのことを考えようとする、知ろうとするその手段に文学のテクストを準備することは、無垢で、大仰に見えはするけれど、その実、遠回りした有効打であり、的はずれな、突飛な行動ではないと、僕は言い切ることができる。
阿部和重の言葉に刺激を受けるならば、文学テクストに触れた際の感慨をアイドルを考えることに役立てる、小説とアイドルを響き合わせる、という行動の果てに、やはり、もうひとつの、あたらしい情報=変化をそこに生み出さなければならないだろう。まったく別のことがらだと考えていたふたつのものを合わせることでそこに新しい情報を生む。そうした試みが、批評=フィクションを生むことのまず最初の条件になるはずだ。
これが、この点が、「アイドルの値打ち」の概要になる。

と、前置きがすこしだけ長くなってしまったが、この「エピファニー」こそ、作詞家・秋元康の詩作における現在のスタイルの一方の主流を担うもの、つまりアイドルとの関係性の核心と言えるだろう。
たしかに、エピファニーと言い切れない作品も多い。とくに初期のAKBの作品は、アイドルと、アイドルを眺めるファンだけを向いた音楽で溢れかえっている。秋元康の最高傑作と言えば、まず間違いなく『サイレントマジョリティー』にその評価を内外ともに一致するはずだが、同作品もまた、疑う余地もなくアイドルソングである。けれどなぜ同じアイドルソングでありながら『サイレントマジョリティー』だけがこうも大衆のこころを掴んで離さないのだろうか。欅坂であったり、平手友梨奈であったり、作曲家、ミュージックビデオを手掛けた映像監督の存在を無視することはできないけれど、しかし端的にその成功の核心を撃てば、それはやはり同作品においては、作詞家でありプロデューサーでもある秋元康のなかでアイドルがサブ・ジャンルに置かれ、純文学のなかにミステリーを置いたチャンドラーとおなじように、自己の表現する世界の可能性を広げるために異ジャンルの力を借りることの、その効果が最大限に発揮されたからだろう。その効果は、大衆を敵に回した音楽でありながら、しかし大衆に歓呼されつづけるアイロニーによって、裏づけられてもいる。
この『サイレントマジョリティー』にあえてケチをつけるならば、アイドルの色を濃く出した歌であるゆえに、大人への反抗が夢につながるという、あくまでもアイドルを演じる少女と、それを眺める若者に向けた応援歌の枠を出ず、その枠から外れる人間にとっては、自己の日常になんら浸透しない音楽だという点になるだろうか。
そうしたキズをもつことは、ほかならぬ作詞家自身、痛感しているようで、秋元康は様々な媒体で、自分はアイドルソングを作っているつもりはない、といった趣旨の発言を繰り返している。自己の成功に無頓着になる秋元康がこの点においては自意識過剰になっている姿はなんとも微笑ましいが、そうした自意識の肥大が功を奏したのか、わからないが、秋元康作品には、『サイレントマジョリティー』とはまったく毛色の異なった音楽が、ある時期から、たとえば乃木坂の『シンクロニシティ』のヒットを境にして、ズラッと並ぶことになる。

『シンクロニシティ』や『僕のこと、知ってる?』『声の足跡』は言うまでもなく、近年ならば『君に叱られた』『心にもないこと』は、アイドルをサブ・ジャンルにした音楽ではなく、作詞家が音楽をつくるなかで、詩作する過程で得た発想をそのままアイドルに代弁させることでアイドルすらも物語ってしまう、既存のアイドルソングの枠を抜け出た作品、つまりエピファニーの代表作とみなすことができるだろう。
秋元康のエピファニーの特徴は、青春の回想に端を発する、ノスタルジーへの冒険を未来の探求譚として語る点にある。ノスタルジーの誘惑のなかで、過去を肯定することも否定することも、どちらも希望に変えてしまう手腕に、秋元康の才能がある。アイドルを語るということは、若者を語るということになるが、その「若者」という限定された枠をより普遍的なものにする、つまり触れた人間のだれもが心を揺さぶられる音楽をつくるために、秋元康は「青春」という逃れることのできないノスタルジーを準備する。ここに秋元康のセンスがある。
このエピファニーの境地として誕生したのが、僕が見たかった青空、なのだ。それは、まるで小説のタイトルのようなグループ名にすでに現れているが、彼女たちが奏でる音楽にもまた、克明に刻まれている。

まだ僕の好奇心 満たせるか?

秋元康/暗闇の哲学者

ここでようやく、当記事のタイトルに記した『暗闇の哲学者』にたどり着くのだが、まず、同作品が、僕が見たかった青空の表題作『青空について考える』や『卒業まで』によって端的に示され歌われた遡行への希求の結晶化に成功した作品である点、また同作品が『僕のこと、知ってる?』の系譜に立ち、その達成を乗り越え、最高点をマークしていることに驚嘆し、敬服すべきだろう。
今作品の魅力を一言で云えば、現在の自分を否定することで「夢」を立ち上がらせる、そしてその夢を支えるものが過去=ノスタルジーへの冒険であるとする、レトロスペクティブな遡行のなかで、作詞家個人の未来への成長の可能性を歌うことが、アイドル=若者だけでなく、世代を越えた希望を印している点になるだろうか。
そうした希望を音楽に見出すと同時に、その歌詞の一つひとつが、アイドルの扉をひらいたばかりの少女に向けた強い憧憬・期待に根ざしたメッセージであることにも気づく。「先頭に僕がいて 冒険は始まるんだ*1」と呼号する赤裸々なメッセージは、立ち上がったばかりのグループに向けるワクワクさを増進させるとともに、アイドルとそのファンを鼓舞し、ある瞬間、勇気づけることだろう。
しかし今作におけるエピファニーの最たる魅力とは、――エピファニーによって現れたアイドルの魅力という意味になるが――言葉・詩情によって人間喜劇を作り上げている点にあるのだと、僕は考える。

『暗闇の哲学者』に触れたとき、アイドルファンならばきっと誰もが、抑えきれず、乃木坂や櫻坂を想起してしまうんじゃないか。流れ出る音楽のイロだったり、アイドルの表現だったり、「考える」とか「静寂」だったり、作品の端々に既存の、比較的新しい記憶としての、アイドルを象ってきた言葉、がちりばめられている。
ここで、僕は自分のエピファニーを使うことにするが、人間喜劇、というものは文豪バルザックに代表されるように、前作品に登場した人物が、次の作品において再登場することで描かれる人間群像、つまり前作品においては描かれなかった人物の内面を次作において描き出すことで人間性の豊かさを、社会の広がりを記すことに成功する手法のことを指すのだが、これはなにも「人間」だけに縛られるものではない。言葉もまた当然、再登場を描き出すことで、人間喜劇を作り上げるのだ。
作家は、おなじ言葉、おなじ表現を繰り返し用いることは避けなければならない、同じ語彙の乱用は控えなければならない、とする教訓は、正しくもあり、また致命的な誤りでもある。職業作家として食うためには、自分のスタイルを打ち出さなければならないし、そのスタイルを決定づけるものこそ、言葉・文体の再利用なのだ。文体は、思考を縛ると同時に、明晰にするものだ。職業作家のほとんどは、自己のうちに定めた文体のなかで思考するのだろうし、読者もまたその決められたリズムに乗ることで、作品に溺れていく。
作詞家・秋元康もまた、言葉の再利用に憑かれた作家だ。その最たるものが、僕が見たかった青空、というタイトルであり、この「僕」と「青」の出現を前にして、多くのアイドルファンが辟易したんじゃないか。そうした現象を「クリシェ」と表現できるだろうか。クリシェとは、要するに、同じ言葉を何度も繰り返し使用することでその言葉が本来持っていた価値を失ってしまう、という意味になる。
作詞家・秋元康の凄みは、この「クリシェ」に対して常に無頓着でありつづけるところにある。何度も何度も、繰り返し同じ言葉を使うことで、その言葉の意味を考え知っていくところに秋元康の詩のおもしろさがある。たとえば近年ならば、『僕たちのサヨナラ』で記した「なんて美しい オレンジ色の空*2」とか、『笑顔のチャンス』で書いた「誰にも一生忘れない空の色があるらしい*3」といった情感豊かで普遍的なフレーズでありながら、作詞家個人の目線をも感じられる詩を書けるのは、『何度目の青空か?』や『10月のプールに飛び込んだ』などの傑作を書き上げたあとも変わることなく青空に着想を求め、その意味を考えてきたからだ。

話が逸れてしまったが、言葉の再登場=人間喜劇の魅力をグループアイドルをとおして表現すれば、「静寂」という言葉のなかで踊ったかつての少女たちには表現し得なかったものを、次の作品において違うアイドルが表現し得る、ということなるはずで、『暗闇の哲学者』においては、それが見事に叶えられている。
踊りの表現力をもって、前評判のすべてをねじ伏せる、センターの八木仁愛の躍動感に満ちた熱誠はもちろん、その近傍に位置する杉浦英恋もまた、櫻坂46の少女たちとは異なった、鑑賞者の心を喜ばせるような、色気を描き出している。『静寂の暴力』にしても『暗闇の哲学者』にしても、アイドルの扉をひらいたばかりの少女に向けた励まし・啓蒙を普遍的な「夢」への活力へと結んでいるが、『暗闇の哲学者』はより普遍的な世界の広がりを見せている。八木仁愛に限って云えば、すでに村山彩希や平手友梨奈に比肩する才能を示している。しかし、他のメンバーたちを見渡しても、そのパフォーマンスの質は、シングル2作品目とは思えないほどに、高い。
その質の高さは、間接的に、秋元康の現在を映し出しているかのように錯覚させる。
物を書き続けていると、ある段階で、ふと、今自分の筆力はピークにあると、確信することがある。過去に描いたどの作品よりも優れたものを、今ここでいかようにも作ることができるという、自信に満たされることがある。そうした時期には、一筆書きで作品をつくっていけるから、「量」も稼げたりする(実のところ、この記事もまた、ほとんど、一筆書きで起こしている)。とはいえ、詩的表現に満ち満ちた『暗闇の哲学者』がそうした一筆書きによるものだとは思わないが、しかし、かなりの自信をもって作られた作品であることは、おなじ作家として、見て取れる。自分を語ることがアイドルを語ることにすら結びつくのだという境地を、自負をもってひらいている。詩作をとおして青春の香る過去に立ち戻ることで、もう一度、成長を試みるその想像力による成長が、アイドルを演じる少女への刺激となって、アイドルの表現力を飛翔させているかのように見える。
当然と云えば当然かもしれないが、今、たった今、僕が見たかった青空、に夢中になっているファンって、すごく成熟したファンであるはずで、ファンのそれぞれが、ひとりかふたり、過去に強く推したアイドルとの思い出をもっていて、そうした思い出と同等のものと出会えるんじゃないかという淡い希望のもとに、”僕青”を眺めているんじゃないか。ほかのグループのファンよりも、眼力をそなえたファンの割合が遥かに多い、ということだ。であればこれもまた当然、アイドルや作り手は高い緊張感を強いられるだろうし、『暗闇の哲学者』はそうした緊張感を晴らす、会心作として、提示されている。

 

2024/04/10  楠木かなえ
*1暗闇の哲学者 *2僕たちのサヨナラ *3笑顔のチャンス/秋元康