乃木坂46 齋藤飛鳥 評価

乃木坂46

齋藤飛鳥 (C) CM NOW (シーエム・ナウ) 2017年 9月号/玄光社

「ニル・アドミラリ」

齋藤飛鳥、平成10年生、乃木坂46の第一期生。
ある喜劇の一場面で、第一期生の高山一実と第二期生の北野日奈子が「腕相撲」で闘うシーンがあった。それは単純な力競べではなかったようにおもう。高山の勝利をスタンディングオベーションで迎える一期生、彼女たちの体内を駆け巡る興奮がカタルシスへと到達した理由は、やはり、”2期生の挑戦”を返り討った”実感”にあるのだろう。自発的能動性の欠如した立ち居振る舞いを日常とするアイドルたちが、手の舞い足の踏む所を知らず喜んでいる…。その異常な空間のなかで独り、椅子に座ったまま、眼の前の光景を傍観する少女が居る。彼女が立ち上がらないのは、感動をみせないのは、勝負に敗れたアイドルへの忖度かもしれない。あるいは、自身が抱える浮遊感への反抗かもしれない。彼女は、齋藤飛鳥は、第一期生でありながらも第二世代を宿命付けられたアイドルである。

齋藤飛鳥の境遇は、「昭和」生まれの作家が「平成」を代表とする作家と呼ばれるのに似ている。例えば、村上春樹は昭和24年生まれだが、間違いなく平成を代表とする純文学作家と云える。一方で、村上とおなじ昭和に生まれた古井由吉は、紛れもなく昭和を代表とする純文学作家と呼べる。齋藤と同期で同年代の星野みなみが第一世代として(グループの顔として)物語を描くのとは対照的に、齋藤飛鳥は一期生との成長共有や共闘を抑制され、「グループアイドル」の書き出しの叙述は丁寧に保存されてしまった。彼女と一期生との関係は「共鳴」のみであった。第一期生でありながら、第二世代として、第二期生(同士ではなく後続者)との交錯によって自我同一性の確立を試みなくてはならない境遇と、その齋藤の受動的立場を看過する人間から向けられる「センター」や「エース」という無責任で身勝手な”期待”は、彼女にある種の隔絶感をあたえる。齋藤飛鳥は群像劇を深化させる登場人物であり、主人公タイプではない。彼女を主人公に置くと、その物語は外伝作、”スピンオフ”に映ってしまう。この本編との”隔たり”が齋藤飛鳥にきわめてニル・アドミラリな立ち居振る舞いをとらせる理由なのかもしれない。

ニル・アドミラリとは、無感動や無関心な立ち居振る舞いを意味する。齋藤飛鳥は、あらゆるシーンで、ファンに向けて一般論的な、ジェイク・ジレンホールのようなニヒルな笑い顔をみせる。これは、現代人を象徴する姿勢であり、『海辺のカフカ』以前の村上春樹が描いてきた主人公の特徴でもある。村上の書く”僕”が、時代を先回りし迎え撃っていた事実によって、次世代の作家と目される舞城王太郎は村上を過剰に意識する。つまり、現代文学のあり方そのものを変えてしまった村上春樹という天才に囚われる舞城(あたらしい世代)の文体と、平成年間をブッキッシュに生き抜こうとする齋藤飛鳥の文体が、思弁が共時してしまうのは当然の成り行きであり、逃れられない”業”と云えるだろう。

アホだなアホだなまたアホなことやってるなアハハと思って眺めているうちに、私は何となく陽治のことが好きになってしまったのだ。
ここが、とかじゃなく。
こういうところが、じゃなく。
理由も何もなく、ただきっかけだけがあって。
あの差し出された白くて細い手。
あれは本当に綺麗な手だったなあ。
でも多分きっと、人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う。

舞城王太郎 /「阿修羅ガール」

受動的であるにしても、アイドルがこのような無関心や無感動な様を”カッコイイ”と捉え、それを採り入れ標榜してしまう感覚、センスの評価判断には躊躇がうまれる。だが、齋藤飛鳥に限っていえば、奏功したようである。無関心や無感動を装うのは、裏を返せば他者への関心や感動に充足している、ということだ。彼女は、他者への興味が尽きない。自己に降りかかる毎日のひかりに、恋い焦がれて止まなかった”奇跡”との遭遇に、喜び溢れている。特筆すべきは、このニル・アドミラリの裏に隠した素顔を、彼女はファンに意識的に汲み取られ、妄執を与える点だ。アイドルが夢をつかみ活力に満ちていく様は、それを眺め、素顔を発見したと確信するファンにも活力と同時に夢を与える。齋藤飛鳥が、アイドルを”無条件で好きになる”ファンの獲得に成功するのは、現代アイドルとしてトップクラスのビジュアルと、この明確な性格の提示に因る。

彼女の日常の仕草がファンの妄想世界の内で揺く齋藤飛鳥と高水準でリンクし、素顔の発見といった妄執の展開を可能にするのは、齋藤のファンサービスの巧さに因るものだろう。AKB48の誕生はアイドル=グループアイドルという固定概念を形成し、ファンとの距離感の喪失を招いた。その収斂として、または転換点として、乃木坂46が出現し、「リセエンヌ」というAKB48とは異なる距離感をつくりあげ、あたらしい人気を獲得した。あたらしい群像を描く乃木坂46のなかにあって、ファンとの距離感のこなし方が一番巧みなのが齋藤飛鳥だ。恋愛は、”2人”の想いが重なり合い、はじまる。その前段階、”2人”の想いが響き合っていると約束された瞬間に生まれる甘美な時間こそ、齋藤飛鳥との物語であり、現実世界では、恋愛の発展によって確実に失われるその甘美も仮想恋愛の内では奪われない。例えば、宛名入りの直筆サインを書く際に、ファンの名字に対し、一言だけ、彼女らしさを含んだユーモアな科白、いたずら書きを色紙の端っこに置く。きっと、その自分だけに贈られた特別なメッセージを受け取ったファンは、りんごを齧ったら中心に甘い蜜があるのを発見するときみたいに、格別な幸福感に包まれ、より一層、両想いを確信し、”彼女”に没頭していくことになるはず。齋藤飛鳥の作り上げる虚構の輪郭の鮮明さは一線を画しており、アイドルを演じ過ごす日常の仕草に”リアリティ”がある。だから、ファンは自身が妄想する齋藤飛鳥を、「齋藤飛鳥」の日常と響き合わせる行為を許可される。これは刹那的な情動感染ではなく、ながい時間維持される情動感染と云えるだろう。

情動感染の分野で齋藤飛鳥が他のアイドルを圧倒する理由のひとつに、ヴァルネラブルがある。”奇跡”という川を渡る以前も、以後も、齋藤飛鳥は弱さの露出をやめない。なぜ、彼女はヴァルネラブルを放棄せずに、涙を流すまでの物語の作り方を変えずに、ファンに心の痛みを共有させることができるのか。それは、(橋本奈々未を模倣するように)読書によって得た知識のひけらかしや、大江健三郎的なブッキッシュに因るのではない。第一期生と隔絶される前に、”同期”であった仲間の言葉によって心の奥に植え付けられたイデオロギー=約束を、彼女が今でもしっかりと守っているからである。

「これからもっと悔しい事とか辛い事とか納得いかない事がたくさんあると思うけど、でも、それでもみんな今の気持ちのまま、今のピュアな気持ちのまま良い意味で大人にならないで、そのままの純粋なきみたちでいてください」

岩瀬佑美子 / 乃木坂ってどこ「笑顔、そして涙の岩瀬佑美子卒業式」

齋藤飛鳥の傷つきやすさやピュアさを露呈する”素顔”の提供は、西野七瀬の”素顔”と並び、彼女を現代アイドルとして、最高到達点に押し上げた、と評価する。敢えて、彼女が西野七瀬に圧倒され届かない達成を挙げるならば、それは、楽曲に提示され、発見される、アナザーストーリーへの”成り切り”だろうか。齋藤飛鳥は楽曲と融和するような物語を持っていない。それは、やはり、彼女の抱える「隔たり」に因るのだろう。

 

総合評価 82点

現代のアイドルを象徴する人物

(評価内訳)

ビジュアル 17点 ライブ表現 17点

演劇表現 14点 バラエティ 16点

情動感染 18点

乃木坂46 活動期間 2011年~

評価更新履歴
2019/05/03 ライブ表現 16→17  演劇表現 13→14  加筆しました