乃木坂46 齋藤飛鳥 評価

乃木坂46

 

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「ニル・アドミラリ」


ある喜劇の一場面で、乃木坂46の第一期生の高山一実と第二期生の北野日奈子が「腕相撲」で闘うシーンがあった。それは単純な力競べではなかったようにおもう。高山の勝利をスタンディングオベーションで迎える一期生の体内を駆け巡る興奮がカタルシスへと到達した理由は、やはり、”2期生の挑戦”を返り討った”実感”にあるのだろう。自発的能動性の欠如した立ち居振る舞いを「日常」とするアイドルたちが、手の舞い足の踏む所を知らず喜んでいる…。その異常な空間のなかで独り、椅子に座ったまま、その光景を傍観する少女が居る。彼女が立ち上がらないのは、感動をみせないのは、勝負に敗れたアイドルへの忖度かもしれない。あるいは、自身が抱える浮遊感への反抗かもしれない。彼女は、齋藤飛鳥は、第一期生でありながらも第二世代を宿命付けられたアイドルである。これは、「昭和」生まれの作家が「平成」を代表とする作家と呼ばれるのに似ている。例えば、村上春樹は昭和24年生まれだが、間違いなく平成を代表とする純文学作家と云える。一方で、古井由吉は紛れもなく、昭和を代表とする純文学作家と呼べる。齋藤と同期で同年代の星野みなみが第一世代として(グループの顔として)物語を描くのとは対照的に、齋藤飛鳥は一期生との成長共有や共闘を抑制され、アイドルとしての書き出しの叙述は丁寧に保存されてしまった。彼女と一期生との関係は「共鳴」のみであった。第一期生でありながら、第二世代として、第二期生(同士ではなく、後続者)との交錯によって自我同一性の確立を試みなくてはならないという境遇と、その齋藤の境遇の存在を看過する人間から向けられる「センター」や「エース」という無責任で身勝手な”期待”は、彼女にある種の隔絶感をあたえる。齋藤飛鳥は群像劇を深化させる登場人物であり、主人公タイプではない。彼女を主人公に置くと、その物語は外伝作、”スピンオフ”として映ってしまう。この本編との”隔たり”が齋藤飛鳥に「ニル・アドミラリ」という立ち居振る舞いをとらせる理由なのかもしれない。

ニル・アドミラリとは、無感動や無関心な立ち居振る舞いを意味する。齋藤飛鳥はあらゆるシーンで、ファンに一般論的でニヒルな笑い顔をみせるのである。これは、現代日本人を象徴する姿勢であり、『海辺のカフカ』以前の村上春樹が描いてきた主人公の特徴でもある。村上の書く主人公が、時代を先回りして迎え撃っていた事実によって、次世代の作家である舞城王太郎は村上を過剰に意識する。つまり、彼(彼等)の文体と、平成年間を生きる齋藤飛鳥の文体が似てしまうのは、逃れられないカルマだと云える。

アホだなアホだなまたアホなことやってるなアハハと思って眺めているうちに、私は何となく陽治のことが好きになってしまったのだ。
ここが、とかじゃなく。
こういうところが、じゃなく。
理由も何もなく、ただきっかけだけがあって。
あの差し出された白くて細い手。
あれは本当に綺麗な手だったなあ。
でも多分きっと、人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う。

(舞城王太郎「阿修羅ガール」)

受動的であるにしても、アイドルが無関心や無感動な様を”カッコイイ”と捉え、それを採り入れ標榜してしまう感覚、センスの評価判断には躊躇がうまれるが、齋藤飛鳥に限って言えば、奏功したようである。無関心や無感動を装うというのは、裏を返せば他者への関心や感動に充足している、ということである。彼女は、他者への興味が尽きない。自己に降りかかる毎日のひかりに、恋い焦がれて止まなかった”奇跡”との遭遇に、喜び溢れているのである。そして、彼女は、このニル・アドミラリの”裏返し”をファンに意識的に汲み取られてしまうのである。アイドルが活力に満ちていく様というのは、それを眺めるファンにも活力をあたえることになる。現代アイドルとして、トップクラスのビジュアルと、この明確な性格は、ファン獲得の入り口として、機能する。

彼女の日常の仕草が、ファンの妄想世界の中で揺く齋藤飛鳥と高水準でリンクしてしまうのは、齋藤のファンサービスの巧さによるものだろう。AKB48の誕生はアイドル=グループアイドルという固定概念を形成し、ファンとの距離感の喪失を招く。その収斂として、または転換点として、乃木坂46が出現し、「リセエンヌ」というAKB48とは異なる距離感をつくりあげ、あたらしい人気を獲得した。その乃木坂46のなかにあって、齋藤飛鳥はファンとの距離感のこなし方が一番巧みなのである。例えば、宛名入りの直筆サインを書く際に、ファンの名字に対し、一言、”彼女らしさを含んだ”ユーモアのある科白を置く。きっと、その特別なメッセージを受け取ったファンは、りんごを齧ったら中心に甘い蜜があるのを発見するときみたいに、幸福感に包まれるだろう。彼女の作り上げる虚構は、輪郭がハッキリとしている。アイドルとしての日常の仕草に”リアリティ”がある。だから、ファンは自身が妄想する齋藤飛鳥を現実の齋藤飛鳥と重ねることができるのである。これは、刹那的な情動感染ではなく、長い時間維持される情動感染と云える。

情動感染の分野で齋藤飛鳥が他のアイドルを圧倒する理由のひとつに、ヴァルネラブルがある。”奇跡”という川を渡る以前も、以後も、齋藤飛鳥は弱さの露出をやめない。なぜ、彼女はヴァルネラブルを放棄せずに、涙を流すまでの物語の作り方を変えずに、ファンに心の痛みを共有させることができるのか。それは、(橋本奈々未を模倣するように)読書によって得た知識のひけらかし、ブッキッシュに因るのではない。第一期生と隔絶される前に、”同期”であった仲間の言葉によって、心の奥に植え付けられたイデオロギー=約束を、今でも、しっかりと守っているからである。

「これからもっと悔しい事とか辛い事とか納得いかない事がたくさんあると思うけど、でも、それでもみんな今の気持ちのまま、今のピュアな気持ちのまま良い意味で大人にならないで、そのままの純粋なきみたちでいてください」

(岩瀬佑美子『乃木坂ってどこ「笑顔、そして涙の岩瀬佑美子卒業式」』)

齋藤飛鳥の傷つきやすさやピュアさの露呈という”素顔”の提供は、西野七瀬の”素顔”と並び、彼女を現代アイドルとして、最高到達点に押し上げた、と評価する。

 

総合評価 85点

現代アイドル史に名を残す人物

(評価内訳)

ビジュアル 18点 ライブ表現 19点

演劇表現 13点 バラエティ 17点

情動感染 18点

 

乃木坂46 活動期間 2011年~

評価点数の見方