齋藤飛鳥 × 舞城王太郎

「ニル・アドミラリ」
ある喜劇の一場面で、第一期生の高山一実と第二期生の北野日奈子が「腕相撲」で闘う、という展開があった。それは単純な力競べではなかったようにおもう。高山の勝利をスタンディングオベーションで迎える一期生。彼女たちの体内を駆け巡る興奮がカタルシスへと到達した理由は、やはり、”二期”の挑戦を返り討った実感にあるのだろう。自発的能動性の欠如した立ち居振る舞いを日常の所作とするアイドルたちが、手の舞い足の踏む所を知らず歓喜している……、その異様な空間のなかで独り、椅子に座ったまま、眼前に広がる光景を傍観する少女が居る。彼女が立ち上がらないのは、感動をみせないのは、勝負に敗れたアイドルへの忖度かもしれない。あるいは、自身が抱える浮遊感への反抗かもしれない。彼女は、齋藤飛鳥は、第一期生でありながらも第二世代を宿命付けられたアイドルである。
齋藤飛鳥の境遇とは、昭和に生まれ「内向の世代」と呼ばれる作家がしかし平成を代表する作家と目されてしまうという現象によく似ている。たとえば、村上春樹は昭和24年生まれだが、間違いなく平成を代表とする純文学作家と云える。一方で、村上とおなじ昭和の時代に生まれた古井由吉は、紛れもなく第三の新人以降の「内向の世代」を象徴する、昭和と平成の端境を生きた純文学作家と呼べる。齋藤と同期で同年代の星野みなみが第一世代として、グループの顔としてアイドルの物語をスタートしたのとは対照的に、齋藤飛鳥はアイドルの書き出しの一行を書き終えた直後、一期生との成長共有や共闘は抑制され、星野と同等の逸材感の持ち主でありながら、物語の叙述は丁寧に保存されてしまった。彼女と一期生をつなぐもの、それは「共鳴」のみであった、と云えるかもしれない。
第一期生でありながら、第二世代の主人公と扱われ、一期生ではなく二期生との交錯に頼ってアイドルのアイデンティティの確立を試みなくてはならない、という境遇に置かれた少女の葛藤には興味深いものがある。齋藤飛鳥の場合、彼女の受動的な立場を看過する仲間、あるいは作り手から向けられる「センター」や「エース」といった身勝手な期待感によって、ある種の隔絶感を獲得したようだ。ここで肝心なのは、齋藤飛鳥は、グループの描く群像劇を深化させる登場人物であり、主人公タイプのアイドルではない、という点だ。彼女を主人公に置くと、その物語は、本編と異なる場所で、本編と同時に描かれる外伝、つまりスピンオフに映ってしまう。もちろん、次世代を担う登場人物でありながら、第一世代の旗手である生駒里奈や白石麻衣、西野七瀬、生田絵梨花、橋本奈々未といったグループのキーキャラクターと交わり、出会いや別れ、再会の物語を把持する、という点には、グループアイドルの連なり、系譜に思い馳せるとき、計り知れない感興が降るのは間違いないが。この本編との隔たりが、齋藤飛鳥にきわめてニル・アドミラリな立ち居振る舞いを作らせる核心部分と云えるのではないか。
ニル・アドミラリとは、無感動や無関心な立ち居振る舞いを意味する。齋藤飛鳥は、あらゆるシーンで、ファンに向けて一般論的な、ジェイク・ジレンホールのようなニヒルな笑顔、あるいはミスティフィカシオンを描く。それは現代人を象徴する姿勢であり、村上春樹の小説の主人公の特徴でもある。村上の書く”僕”が、”来るべきものの側”となり時代を迎え撃ったことにより、以降多くの若手作家、中堅作家が村上春樹という枠組みに囚われてしまう。たとえば、ポップ文学の次世代と目される舞城王太郎も村上を過剰に意識する作家の一人である。つまり、現代文学のあり方そのものを変えてしまった村上春樹という天才に囚われる舞城の文体と、アイドルシーン=文芸をブッキッシュに生き抜くしかない齋藤飛鳥の文体・思弁が共時してしまうのは当然の成り行き、逃れられない”業”に映る。
アホだなアホだなまたアホなことやってるなアハハと思って眺めているうちに、私は何となく陽治のことが好きになってしまったのだ。
ここが、とかじゃなく。
こういうところが、じゃなく。
理由も何もなく、ただきっかけだけがあって。
あの差し出された白くて細い手。
あれは本当に綺麗な手だったなあ。
でも多分きっと、人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う。
舞城王太郎 /「阿修羅ガール」
このモノローグが、齋藤飛鳥の思弁(日常)にきこえるのは私だけだろうか。受動的であるにしても、アイドルがこのような無関心や無感動な様を”カッコイイ”と捉え、それを採り入れ標榜してしまう感覚、センスの評価判断には躊躇がうまれる。だが、齋藤飛鳥に限っていえば、奏功したようである。無関心や無感動を装うのは、裏を返せば他者への関心や感動に充足している、ということだ。彼女は、他者への興味が尽きない。自己に降りかかる毎日のひかりに、恋い焦がれて止まなかった”奇跡”との遭遇に、喜び溢れている。特筆すべきは、このニル・アドミラリの裏に隠した素顔を、彼女はファンに意識的に汲み取られ、妄執を与える点だ。アイドルが夢をつかみ活力に満ちていく様は、それを眺め、素顔を発見したと確信するファンにも活力と同時に夢を与える。齋藤飛鳥が、アイドルを”無条件で好きになる”ファンの獲得に成功するのは、現代アイドルとしてトップクラスのビジュアルと、常に青の時代を映す、明確な性格の提示に因る。
彼女の日常の仕草がファンの妄想世界の内で揺く齋藤飛鳥と高水準でリンクし、素顔の発見といった妄執の展開を可能にするのは、齋藤のファンサービスの巧さに因るものだろう。AKB48の誕生はアイドル=グループアイドルという固定概念を形成し、ファンとの距離感の喪失を招いた。その収斂として、または転換点として、乃木坂46が出現し、「リセエンヌ」というAKB48とは異なる距離感をつくりあげ、あたらしい人気を獲得した。あたらしい群像を描く乃木坂46のなかにあって、ファンとの距離感のこなし方が一番巧みな人物こそ、ほかでもない、齋藤飛鳥、彼女だ。恋愛は、”2人”の想いが重なり合い、はじまる。その前段階、”2人”の想いが響き合っていると約束された瞬間に生まれる甘美な時間こそ、齋藤飛鳥との物語であり、現実世界では、恋愛の発展によって確実に失われるその甘美も仮想恋愛の内では奪われない。例えば、宛名入りの直筆サインを書く際に、ファンの名字に対し、一言だけ、彼女らしさを含んだユーモアな科白、いたずら書きを色紙の端っこに置く。きっと、その自分だけに贈られた特別なメッセージを受け取ったファンは、りんごを齧ったら中心に甘い蜜があるのを発見するときみたいに、格別な幸福感に包まれ、より一層、両想いを確信し、”彼女”に没頭していくことになるはず。齋藤飛鳥の作り上げる虚構の輪郭の鮮明さは一線を画しており、アイドルを演じ過ごす日常の仕草に”リアリティ”がある。だから、ファンは自身が妄想する齋藤飛鳥を、「齋藤飛鳥」の日常と響き合わせる行為を許可される。これは刹那的な情動感染ではなく、ながい時間維持される情動感染と云えるだろう。
情動感染の分野で齋藤飛鳥が他のアイドルを圧倒する理由のひとつに、ヴァルネラブルがある。”奇跡”という川を渡る以前も、以後も、齋藤飛鳥は弱さの露出をやめない。なぜ、彼女はヴァルネラブルを放棄せずに、涙を流すまでの物語の作り方を変えずに、ファンに心の痛みを共有させることができるのか。それは、(橋本奈々未を模倣するように)読書によって得た知識のひけらかしや、大江健三郎的なブッキッシュに因るのではない。第一期生と隔絶される前に、”同期”であった仲間の言葉によって心の奥に植え付けられたイデオロギー=約束を、彼女が今でもしっかりと守っているからである。
「これからもっと悔しい事とか辛い事とか納得いかない事がたくさんあると思うけど、でも、それでもみんな今の気持ちのまま、今のピュアな気持ちのまま良い意味で大人にならないで、そのままの純粋なきみたちでいてください」
岩瀬佑美子 / 乃木坂ってどこ「笑顔、そして涙の岩瀬佑美子卒業式」
齋藤飛鳥の傷つきやすさやピュアさを露呈する”素顔”の提供は、西野七瀬の”素顔”と並び、彼女を現代アイドルとして、最高到達点に押し上げた、と評価する。敢えて、彼女が西野七瀬に圧倒され届かない達成を挙げるならば、それは、楽曲に提示され、発見される、アナザーストーリーへの”成り切り”だろうか。齋藤飛鳥は楽曲と融和するような物語を持っていない。それはやはり、彼女の抱える「隔たり」に因るのかもしれない。
2018/12/05 楠木