乃木坂46 理想の「選抜」を考える 42nd シングル版

「アイドルはただ可愛いだけとか、言うんじゃねえよ」
私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。
三島由紀夫/金閣寺
池田瑛紗をセンターに抜擢した『最後に階段を駆け上がったのはいつだ?』は、その気取ったビジュアルイメージ、詩のテーマにそぐわない季節感を無視したメロディをしてみれば、思いのほかクリティカルな一曲となった。
若手である6期生を意図的に表舞台から遠ざけた、アイドルとしての地位を確立した中堅・ベテランで構成した歌唱メンバーを見てもわかるとおり、歌や踊りをないがしろにする、人気にあぐらをかいたグループだという印象に端を発するであろう大衆からの痛烈な批判が、楽曲のタイトル、音楽の作風にあらかじめ示されているという、なんとも皮肉の効いた、自己批判精神に活きた楽曲である点を下敷きにして、想像力に甘えた、アートによがった構図を持ちながら音楽を一個の作品へと高い水準に仕上げたミュージックビデオは大したものだが、反面、それを演じるアイドル当人を見れば、自分がいったい今なにをしているのか、空に何を見ているのか、定かでないように感じる点、たとえば、音楽に込められたメッセージ・魅力を自分の言葉にして伝える、これは多くのメンバーが我先にと発してはいるものの、その音楽を自分が口ずさむことの必然性にかんしては、どうにも余所余所しい点、つまるところ、音楽のなかに立っているアイドルがひどく無表情に見える、いや、あえて無感動に見せているであろう点は、おそらくは逆説的に、ほとんど不本意にも、あるいは、そう演出せざるをえないという事情に出発して、音楽と本質的な関わり合いを持てないという意味で、今日の若者を否が応でもリードしてしまう、無関心の表現に達している。
大して歌えないくせに、そこそこしか踊れないくせに、音楽のなかで気取ったり、格好をつけたりしてしまうのは、音楽に関心がもてないことの裏返しにすぎない。しかもここで言う無関心と言うのは、どうやら無意識に成り立っているものらしい。無意識と言っても、それは音楽に打ち込むという鋭意において、発声、身体操作の多くの部分で妥協しなければならないという、意識的な看過の末に獲得しているものに違いないが。ところで「時間」というものは、その進行を正しく計測しようとすると、時の流れがいつもより長く感じるという矛盾した性質を抱えている。アイドルにもこの種の矛盾がある。ステージの上で音楽を歌う、音楽に踊るという、努力、才能の面において一切のごまかしが効かない場面で、みずからその未熟さ、幼稚さをさらけ出すことができなければアイドルは成立しない。無関心というのは、そうした矛盾にもたらされる、ひとつの結実とも言えるはずだ。だが、もうひとつ、アイドルに求められてしかるべきものがある。それは乃木坂の面々が率先して、意識的にやっていること、つまり気取ったり、格好をつけたりしていること、要するに「美」ということになるだろう。
