AKB48 村山彩希 評価

AKB48

村山彩希 (C) UTBアップトゥボーイ265号

「ロード・オブ・ザ・アンダーグラウンド」

拾ってもらう事を願うのとは違う
誰も出来ないと言う道を敢えてやっていきたいんだ
この世界でやっていこうと思っているんだったら…
痛い、痛いって泣き言云うな
シーンはどんどん小さくなればいい
またそこからはじめればいいだろう

THA BLUE HERB /アンダーグラウンドVSアマチュア

村山彩希、1997年生、AKB48の第十三期生。
西野七瀬とならび、現代アイドルの中で最高の実力者であり、屈曲を強いられながらもシーンのトレンドと無縁をつらぬき、ファンともっとも近い場所で踊り続けることに拘る姿勢から、グループアイドルの収斂と転換を考える上で重要な人物と云える。キュートでドラスティックな偶像を描く村山彩希は、悲しみよりも、怒りを先に抱くように微笑みかける。アイドルの内部で起こるであろう変化を、けして安易には汲み取らせまいとする隔たりのある笑い顔を作る。その笑顔は、アイドルが死屍累々と転がっている、常闇に覆われた筐体に渦巻く、衰退と崩壊への前兆を払拭する一人の英雄として、現代アイドルにしがみつく固定概念を転覆する革命児として、あるいは異端を王道にすり替える寵児として、きわめてたかい可能性を感じさせる。なによりも、アイドルとして冠絶した演技力をそなえた人物であり、デビューした段階ですでに、アイドルを演じる暮らしの中で”本来の素顔”を提出することに成功していた。村山彩希の作り上げる虚構=架空の世界の上には、現実世界の村山彩希の日常と素顔がちりばめられ、ウソと現実の境界線が意図的に消されているのだ。だから彼女のファンは、カメラの前で動く村山彩希から、舞台装置の上で踊る村山彩希から、彼女が忍ばせた素顔を、アイドルを演じる少女の真実を拾うことができるのである。この日常と虚構の不分明(日常の写実)は、乃木坂46の西野七瀬や松村沙友理と響き合う資質であり、陳腐な”アイドルらしさ”と乖離した立ち居振る舞いを作り、嗤う、メーンストリートから逸れる村山彩希こそ、AKB48という枠組みにおいてもっとも高い次元でアイドルを演りきっているのである。村山のアウトロー的な立ち居振る舞いが王道にすり替えられて行く光景、その胎動と期待感の手触りは、部活動感覚でアイドルを演じているアマチュアアイドルの夢と希望を毀損するだろう。アイドルは「いつでもやめられるお遊びじゃない」。(*1)

この世の誰からも頼まれていないのに演ることを使命としている者たちの作品、創造行為、そのすべてがアンダーグラウンドというわけではない。誰のものでもないけれど誰かのものである。のではなく、やっている自分のものでしかないけれど宇宙やあの世の誰かがすでに所有しているもの、あるいはこの世もあの世も相手にしえないもの、そうしたものを所有しようとすることこそアングラ人の基準であると思う。あるいは闇雲に大した欲望や妄想に押しつぶされる寸前の創造力の、なんらかの証し、かすかな気配と木霊のような歌、ほんのわずかの人々の心にだけ刺さったまま致命傷となるような音楽。

湯浅学 /STUDIO VOICE vol.360

村山彩希のファンとの物語の作り方というのは、古くもあたらしくもない。煽てても現在(いま)居る場所から移動しないから、異端と、臆病者と嘲笑される物語。「笑いたい奴らには笑わせておけばいいさ」と云う物語。”ほんのわずかの人々の心にだけ刺さったまま致命傷となるような”物語。心に響くただ一つの明確な徴だけを頼りに笑い合う物語。だから、彼女に向けるクリティークは彼女のことを”知っている”人間にだけ届けば良い、と妄執させる。そのようなストーリー性の保持が村山彩希をオーヴァーグラウンドではなくアンダーグラウンドとして屹立させる。もちろん、アンダーグラウンドとアマチュアを混同してはいけない。アンダーグラウンドとはアマチュアに絶望感を与える存在なのだから。(*2)
文芸とは孤絶である。「乱暴にいってしまえば、自分が世界から隔てられていると感じる人間が作り上げる、今ひとつの世界」。一度でも深く入り込んでしまったら無傷ではすまされない場所。その境域に立ち、実力者ノートに列記され称賛を受ける人物が、神秘的な行為に没頭する人間をアンダーグラウンドと呼ぶ。アンダーグラウンドは、本質を見抜く資質をそなえた同業者と観客に批評空間を作らせる原動力であり、彼らとおなじ言葉で笑い、あたらしい感情に浸り、支持をされてきた。村山彩希も青に染まった舞台の上から彼らだけに対し、内に秘めた科白を吐露する。村山彩希に対する批評で看過の許されない点がある。それは、彼女に呼応するファンの心動が、『村山彩希』というフィクションを作るための寄す処になっている点である。(*3)
劇場でうたい踊る彼女にはじめて遭遇した日、もっとも鮮烈な印象を投げつけたのはファンが作る空気感である。演者だけでなく、観者の作る”振動”によってステージとの距離感が少しずつ手繰り寄せられていく感覚は、『THA BLUE HERB』のライブを、橋を渡った河のこちら側、「東京」ではじめて観た時のファンの息遣いと、匂いと酷似している。匂いは季節の記憶を呼び覚ます。村山彩希のファンと、村山彩希が発散させる匂いが当時の記憶を鮮明に呼び戻した。彼女の踊りは観客の心の底に転がって放置されたままの、冷たくて丸い塊を溶かしていくようにドラスティックである。そこに居る全員が、その空間を共有した全員が奇妙な信頼感と一体感を獲得している。それは、アイデンティティの喪失と呼ぶことが可能かもしれない。”誰も出来ないと言う道”を成し遂げようと抗うのはアイデンティティの獲得ではなく、アイデンティティの喪失なのかもしれない。闘争ではなく逃走と揶揄される光景。しかし、アイドルも観客も、その炎によって自我が燃え落ちるのを自覚しているようだった。少しずつ溶けてなくなって行く氷の彫刻を、白い息を吐きながら観賞するときのように儚さを抱きしめる。
儚さの象徴となったアイドルに『坂井泉水』が挙げられる。彼女の儚さとは、喪失体験が成熟に塗り替えられた出来事の徴であった。「輝く季節の中で夢は藍く染まるだろう」
と彼女は云った。ファンが求める”儚さ”とは喪失でしかないと思い知らされた。”あお”が爻わる。明澄なステージの上で、静かに、拒みえない鮮烈さを描く村山彩希の舞姿は、自身の内奥で引き起こされた喪失を、物語をファンに共有させる。村山が坂井泉水のような悲しい光りを内在しないのは、彼女がグループアイドルだからである。グループアイドルとしてのレーゾンデートルこそ、彼女にアイドル史に”なかった”喪失を、あるいはアイドル史を回帰させるための喪失を描かせる原動力である。喪失の共有は、儚さが作る残酷な美しさをファンに経験させるだろう。真っ青な空間に漂う、行くあてもない感情への救済と共鳴はまさしく稀有のものであり、伝えたい心には必ず伝わる力を有している。村山彩希はAKBグループが作り上げてきたステージ=群像劇、「この世界に踊り続けるしかない」アイドルのなかで、最高到達点と云える。(*4)

善也は黙って田端さんの手をとり、長いあいだ握っていた。胸の中にある想いを相手の手に伝えようとした。僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。

村上春樹 「神の子どもたちはみな踊る」

 

総合評価 90点

アイドル史に銘記されるべき人物

(評価内訳)

ビジュアル 17点 ライブ表現 20点

演劇表現 18点 バラエティ 17点

情動感染 18点

AKB48 活動期間 2011年~

引用:(*1) THA BLUE HERB  /  My Faith
(*3)福田和也 / 乃木希典
(*2)(*4)坂井泉水 / 君がいたから

評価点数の見方