「まだ結婚できない男」を全話、観終えた感想

「再会」
日本のテレビドラマをしっかりと最後まで観たのはどれくらいぶりだろう。それこそ、『まだ結婚できない男』の前シリーズ『結婚できない男』が放送されていた頃まで時間をさかのぼるかもしれない。
数年前に、フェイスブックを通じて奇跡的に学生時代の親友と再会したことがある。彼は無職になっていて、僕の部屋に毎日ビールを飲みにやってきた。僕が酒代をもつ日もあれば、彼がコンビニでビールと酒の肴を、どこからか工面した金で買ってきた。僕が留守のときはそのビールの入ったコンビニ袋が部屋ドアノブにぶら下げてあって帰宅時にそれを発見する、なんて場面もあった。こんなことする奴だっけかな、と可笑しく思ったり。そんな彼だが、当時、再放送されていた『結婚できない男』が毎日の楽しみになっていたようで、僕の部屋で酒を飲みながらドラマを絶賛していたのをよく覚えている。たしかに、良くできたドラマで、再放送を見ていない僕でも、初回放送時の記憶だけでリアルタイムでドラマを見ている彼とおなじ言葉と感情で盛り上がることができた。
女医役で出演していた女優の夏川結衣さんとは仕事の関係で一度だけお会いしたことがある。佇まいの凛としたひとで、演じることを生業とする人間特有の迫力があって、柄にもなく緊張したことをいまでも鮮明に覚えている。もっと若い頃、まだ物書きとして駆け出しの頃、アルバイト先で俳優の浅野忠信さんを偶然間近で眺めたことがあったけれど、その際にある種の狷介さがつくる凶暴性を投げつけられた。夏川さんにもそれと似た迫力があるな、と。主役の阿部寛という役者には個人的な思い入れはないけれど、彼の経歴をあらためて眺めると『アットホーム・ダッド』、『ドラゴン桜』、『結婚できない男』と成功の余韻を打ち消さずに、次々と当たり作品を提供しつづけている点には、驚かされる。『テルマエ・ロマエ』など、映画での成果も素晴らしい。とくに、映画『海よりもまだ深く』は傑作で、日常の不気味さの提示の成功、この一点において、アイドルの演劇を批評する身としては、是非アイドル諸君に鑑賞してもらいたい作品だとつよく感じる。
と、このような経緯もあり、『結婚できない男』の続編に元乃木坂46の深川麻衣が出演するというニュースが飛び込んできたときは、非常におどろきました。乃木坂46のファンの方たちも、きっと、心がおどり出したのではないでしょうか。僕たちは、彼女が芸能界に入り、アイドルを通過して役者になるまでのストーリーのすべてを知っている。あるいは、知っていると錯覚できている。そんな”彼女”が、ついに名作の世界の登場人物の一人として描かれる。アイドルを卒業した”彼女”と最高のかたちで再会できる、これは成長共有の観点において文句なしの展開と云えるのではないでしょうか。
しかしこの幸運と興奮は、物語のはじまりから終わりまで、真っ直ぐと伸びることなく減衰し、野ざらしにされる結果となってしまった。
「ドラマに点数を付けるなら、100点満点中、35点」
結論から言えば、「まだ結婚できない男」は沸点の低くなったカタルシスに一度もタッチすることなく、最終回をむかえ、そのまま物語の幕を閉じてしまいました。前作からの「移動」に障害物をまったく設けない、細部まで丁寧にこだわった仕掛けには感心するものの、肝心の物語の質がひどかった。
深川麻衣の演技については、とくに揶揄をつくる場面はなく、登場人物のなかで際立って古ぼけている、という印象は受けなかった。もちろん、トップレベルの俳優の演技を当たり前のように日々鑑賞する大衆から、”ほんとう”に「大根女優」の烙印を押されたのならば、それは看過すべきではない声量と言えます。大衆は、違和感を見逃しません。それが置かれていれば目ざとく見つけ出します。現在の日本のテレビドラマにおいて、その作り手にもっとも求められるのは、登場人物に非現実的な立ち居振る舞いを作らせないこと、つまり視聴者に違和感を与えないことです。
例として、鑑賞者に違和感を一切伝えない役者を挙げるならば、それはやはり樹木希林でしょう。樹木希林の凄みとは、映像世界のなかに自身の日常をちぎり取って捨てるところにあります。彼女の作る役を眺めた人間は、それを樹木希林本人だといつのまにか錯覚している。それは彼女が作品内において自身の日常をありのままに再現しているからです。また、堤真一、彼がメジャーシーンで成功したのは、映像作品を作る際に、舞台で培った演劇表現を下敷きにしつつも、舞台特有のケレン(身振り手振りの大仰な演技)のほとんどを捨てる覚悟、大胆さを有していたからです。アイドル出身の女優につよく求められるものこそ、かれら彼女らのような違和感を作らない姿勢と言えるかもしれません。
では、テレビドラマというコンテンツに参加しても、視聴者に違和感を与えることのない演技を可能とするグループアイドルとはだれか?まず頭をよぎったのは、欅坂46の渡辺梨加、次に乃木坂46の大園桃子です。彼女たちは、樹木希林のように虚構の中で日常を再現できる才能を持っています。また、映像演技に特化した伊藤万理華、作り手やファンの声量を不気味に仕舞い込み、何者にでもなれる久保史緒里の名も挙げたい。この2名も、大衆に違和感をあたえない演技を作るはずです。
ドラマに話を戻すと、中盤までの展開の鈍さと、終盤での前のめりなシーンの連続にまず辟易させられました。9話、10話のエピソードを中盤で消化すべきだった。吉田羊演じる弁護士の吉山まどかと、夏川結衣の演じた女医早坂夏美のキャラクターがかさなって見える点は賛否の対象になるはずなので、作品の瑕疵になるとはおもいません。致命的なのは、主人公が前シリーズからまったく変化していない点でしょう。前シリーズとおなじタイプのヒロインを置くのならば、そこで期待される物語とは、主人公の変化、あるいは成長になるはずです。もちろん、タイトルを裏切らないためにも、成長をしない主人公を描く使命があったのかもしれない。しかしそれならば、やはり、その理由、動機を描写する必要がある。安易に前シリーズの後日談を語る必要はないけれど、なぜ、あのラストシーンを経た主人公が成長をできなかったのか、あるいはその後日談を経て成長を拒否する動機を主人公が獲得したのか、この問いにこたえることが続編を豊穣な物語にするチャンスであった、と確信しますが、実際にスリリングだと感じたのは最終回のラスト10分間のみで、前シリーズのラストとかさなるシーンが映し出され、そこから二人が前シリーズでは見届けることができなかった場面に踏み込むのでは、ときわめてたかい期待と興奮がたしかにありました。しかし、結局、前シリーズの結末のさきにある世界を一秒も見せることなく、物語は幕を閉じてしまいます。
実際に放送されたドラマの構築に準拠した批評を作るのならば、端的に、「今回のラストシーンは前回の結末とまったく同じだったけれど、しかし、今回は前回とはちがう未来が主人公におとずれるはずだ」という期待と確信を視聴者にいだかせるラストシーンが描けるように、物語の構成を準備する必要があった、と言えるでしょうか。
なぜ準備ができなかったのか。乱暴ですが、それは単純に、物語を作る作家の資質不足、経験不足と言うほかない。「シリーズ」という観点に立つとき、海外ドラマの存在は看過できません。ネットが普及した現代、今や我々は、世界中のドラマをリアルタイムで観ることができる。海外ドラマの魅力のひとつは、やはりその物語の長さにあります。近年ならば、『ゲーム・オブ・スローンズ』、『ブレイキング・バッド』『ウォーキング・デッド』などの名作が挙げられます。これらの作品に共通する点のひとつに(演者のきわめて個人的な問題に端を発するキャスト降板などが顕著)、現実的な問題によって引き起こされる、現実とフィクションの枠組みの衝突があります。キャスティングの問題などで登場人物の役割が変化し、唐突に描写が削がれ、物語の展開が一変する。仮想と現実の混濁、この情報の囲繞が作る倒錯は、視聴者にある種の錯覚をあたえる。奇妙なことに、錯覚を所持した視聴者は、現実世界の働きかけによって架空の世界の空にひびを入れられたにもかかわらず、ドラマの世界へ、より没入して行くのです。
日本のドラマは、このような深刻な局面に未だ到達していません。長期シリーズドラマは複数存在するものの、海外ドラマのように、同じ虚構のなかであらゆる問題を乗り越えながら物語を書きつづけるスタミナとモチベーションを把持する脚本家はひとりもいないと感じます。同じ登場人物でも、シリーズをまたぐことで、再会時には、以前とはまったくことなる表情をみせている…、このようなスリリングなシーンを、おそらく、日本のドラマは未だ一度も語っていない。ガルシア・マルケスが物語の作り方について、「とにかく、捨てることを学ばなくてはいけない。いい作家というのは、何冊本を出したかではなく、原稿を何枚くずかごに捨てたかで決まるんだ。ほかの人は気づいていなくても、本人はくずかごに放り込んだもの、つまり何を捨てて、何を残したかはちゃんとわかっているからね。捨てることが、作家になるための王道だよ。*1」と語っていますが、これは小説家だけでなく、テレビドラマの脚本家に向けられた言葉でもあります。つまり「まだ結婚できない男」がシリーズ2でありながらシリーズ1のオマージュになってしまった問題、作家の力量不足に通じる話題と言えるでしょう。大切に抱きしめてきたアイデアを捨てることによってはじめて、構築した物語にあたらしい展開がおとずれ、原稿用紙の上を登場人物たちが右に左に走り回るのだとおもいます。
引用:*1ガルシア・マルケス/物語の作り方