AKB48 秋元才加 評判記

「演技のひと」
秋元才加、昭和63年生、AKB48の第二期生。
オーヴァーグラウンドを闊歩する今日のAKB48にあって、アンダーグラウンドとしての存在感を把持した稀有なアイドルである。よって、アイドルファンから得る評価よりも同業者による称賛の方が多い。グループアイドルと演劇、という話題において増田有華と並び主流を引き受けている。
今日、彼女のインタビュー、たとえば、父親とのエピソードを語る彼女の横顔にあらためて触れると、リリー・フランキーの書く小説を読むような、イメージを編みだす。自身の生い立ちを、物語を語るように表現できるひとであり、それはまさしく私小説の読後感を打ち、そうしたアイドルの大胆さ、素顔をさらけ出す姿勢には、次の時代を生きるアイドルへの多大な影響力を確信させる。同じエピソードを語るにしても、言葉の選び方、文体、描写によって印象は様変わりするものだ。彼女の発する言葉からは文学的な響き、自己表現においてそれが他者のこころにどう伝わるのか、賢明さを受け取る。秋元才加というアイドル自身、きっと、父親と似て文学的な人物なのだろう。当然、そのような言語への強い意識は演技へと活かされるはずだ。
だが私自身は、何よりも彼女の外見に強く惹かれ、すぐに主人公をイメージした。圧倒的な体格、掠れた声、ふてぶてしい表情、だが凛として美しい。彼女のすべてが、新しいジェンダーを感じさせた。彼女は男よりも男らしく、女よりも美しく、「闘う人」として男女を超越していた。
桐野夏生 / ファイアボール・ブルース
秋元才加の演じるアイドルの、強く、気高く、美しくあろうとする姿勢、姿形からは、松井珠理奈と同様の「新しいジェンダー」を感じる。あるいは、松井珠理奈のそれは、秋元才加から受け継いだものなのか。演劇が作り上げる虚構の中での交錯によって継承がなされたのかもしれない。そのような意味では、今日の松井珠理奈を囲繞する、メディアやファンがつくる声量は異常と云えるのかもしれない。秋元才加や篠田麻里子がステージに立っていた時代、当たり前に存在したイデオロギーが、現在のアイドルシーンにおいては、きわめて不快な異物と映し出され、希少獣と扱われてしまっているのだから。
たしかに、今日、アイドルを演じる少女たちの多くは苦悩に満ちあふれている。しかし、少女たちの苦悩のイロには、秋元才加がファンに覗かせた、けしてきれいごとでは終わらせない苦闘の劇、あるいは自我を獲得するための本物の模索劇が映らないのも事実だ。換言すれば、現在のアイドルシーンにおいて、松井珠理奈や生駒里奈から特別な存在感つまり主人公感を裏付ける異物感のようなものをつよく過剰に感じてしまう、この心理こそ、アイドル産業そのものが移り変わった、あるいは収斂したひとつの徴なのだろう。現在のアイドルファンは自身に自己否定を促すような、居心地の悪さを伝えるアイドルをけして看過しない。ファンは彼女たちを徹底的に傷めつけ、愛するグループから排除しようとする。
もちろん、松井珠理奈や生駒里奈が放つ異物感とは、秋元才加や篠田麻里子だけが握りしめる資質ではない。前田敦子から渡辺麻友まで、おそらく、黎明期のAKB48を支えたアイドルのそれぞれがそなえていた資質である。それぞれが、それぞれのファンにとっての主人公であったのだ。抑制された叙述で書かれた短編小説みたいに独立した物語を抱える少女たちが、右へ左へ動きまわり、目の前に立ち現れる光景、つまり、群像。アイドルグループの正しい物語の書き方とは、成長への希望という奇妙な希求力を発揮する不完全さに支えられた、未成熟な人間の集合が描く群像劇にあるのではないか。少女の不完全さこそ、膨大な成長への余白を提示し、アイドルとファンの成長共有を叶える原動力なのだ。
とするならば、秋元才加のアイデンティティを「強く 気高く 美しく」あろうとする立ち居振る舞い、つまりビジュアルと扱うのは、平成が暮れた現在、物語を振り返った際には妥当に映るが、秋元才加がアイドルを演じていた時代に立って語るならば、それは誤りかもしれない。
秋元才加のアイデンティティに「演技」を挙げる声は少なくない。たしかに、彼女の演技には、一本の木から仏像を掘り当てるように彫刻する、与えられた役を創造する、熱量がある。歌詞カードの余白を使ってサインの練習をしていたアイドルを叱りつけるなど、「言葉」に対しての真摯さを持っており、当然それは演技にも引用されている。役に対する思い入れが演劇のディティールに至り、大仰に云えば、複雑に絡み合った情念が、劇中の時間の流れに身を委ねるようにして、想いのひとつひとつを明らかにして行く、そんな演技を彼女は作る。舞台で培った経験が映像作品での演技にも色濃く現れており、切迫感がある。この秋元才加の役に対する没入感とは、舞台を主戦場とし、第一線で闘う役者にのみそなわる資質の発揮と云うべきだろうか。やはり、「演劇」を彼女の描くアイドルのアイデンティティだとする声に異議を唱えるのはむずかしい。
しかし一方では、こうした資質の発揮がグループアイドルとしての瑕疵にも映ってしまう。アイドルを演じる上での倒錯、勘違い、と表現したら嘲笑されるだろうか。
演技において、役になりきることは、演者が”自分を捨てる”という意味ではない。自分を捨て、台本に書かれたキャラクターに向け、想像力を働かせ、演じる。この行為はエンターテイメント的な見地から観るのならば、心地よい響きを放つかもしれない。だが、純文学とは径庭している。
想像力とは、いとも容易く陳腐な物体を作りあげてしまうものだ。安易な想像力を積み上げた末にできあがった役(演技)では、観者が自身の存在を根本から揺さぶられるような、こころをひき裂かれる体験に遭遇する可能性は低い。すべての演劇作品とは、文字で連なった物語の再現でしかないという事実を忘れてはいけない。作家の日常を損壊し、放流的な再構築(仮構)を近代戯曲=文学だと錯覚する隘路に陥ってはならない。演劇とは、演者の日常生活における仕草、立ち居振る舞いを切り取り、作品の世界に置いてくる、写実行為だ。
多くの役者、アイドルはこうした感慨に対し真逆の行為を選択し、隘路に陥る。彼女たちは、役になりきろうと、まず自分を脱ぎ捨てるのだ。そして作品世界の中に落ちているものを拾ってきて、現実世界でそれを掲げる。そうではなく、演者は、自身の人生の一部を刳り貫いて、虚構の中にそれを差し出す覚悟を示すべきなのだ。日常を写実し、自我をすり減らす覚悟によってのみ、作品世界は深化に成功する。
映像のなかで、演劇を作り上げていくなかで、秋元才加自身が情動を引き起こし、それを観者の前でさらけ出す光景を観た日がある。そこに作られた現実と仮想の間合い、あるいはアイドルとファンの距離感からは、たしかに、役者から非凡な才を受けとった。だが一方で、彼女の描く情動は観者に感染する類のものではなかったようにもみえた。そこに「秋元才加」を感じることができなかった。これは、演劇のみならず、アイドルとしての活動すべてに当て嵌まる瑕疵ではないか。秋元才加がトップアイドルと呼ばれる水準に到達できなかった要因のひとつに、ファンに自身の情動を感染させる「資質」の欠如があったのは、間違いないだろう。
演劇における実力、経験、実績ならば、秋元才加はアイドル史のなかで上位5%に入ると確信するが、資質の観点では、私が考えるトップアイドルたちに、あと一歩、二歩と及ばない。例えば、乃木坂46の大園桃子。彼女は、経歴、実力ともに秋元才加の足元にも及ばないが、演劇表現力をティア1に置いている。それは彼女の資質を評価したからである。「演技」とは作家にとっての「文体」と同じだ。秋元才加の演技は、熟練した役者ならば再現が容易なのではないか、と想像する。それをドラマツルギーの欠如と呼べるだろうか。一方で、自身の日常を千切ってはフィクションの底へ向けて投げ捨てる大園桃子の演技とは、どれだけ名声のある役者でも、模倣し再現することは不可能だと確信する。なぜなら、それは大園桃子の身体の一部であり、彼女を演じることができるのは、当然、彼女しかいない。映像のなかに見知ったアイドル、「大園桃子」の存在を感知し、それに触れてしまったファンは、アイドルの素顔を発見したと妄執し、情動を引き起こす。あるいは、映像のなかで情動をすでに引き起こしている大園桃子の立ち居振る舞いが眼に映った瞬間に、カタルシスとともに、彼女の情動が感染する。秋元才加が目標とする、樹木希林の演技、映像とは、それを観た誰もが、その演じられた役の人格を「樹木希林」と混同するのではないか。そこに「女優」を生業とする人間の底知れぬ不気味さを感じられはしないか。日常を演じることを職業にしてしまった女のドラマツルギー、つまりそれは、映像の中に日常の「演じ分け」を意図的に混淆し、現実と虚構の境界線を不分明にする所業である。
神童とは、ある日突然、我々の眼の前に出現し、あらゆる才能を喰い、絶望を与える。そのような光景が当たり前に繰り返される世界を文芸と呼び、それが虚構の宿命的な魅力、レーゾン・デートルである。つまり、この不条理に歪んだ世界で自己を成立させようと苦闘する英姿こそ、アイドル・秋元才加が描いた物語の魅力であり、彼女の作り上げたアイドルのアイデンティティなのだろう、とおもう。
総合評価 64点
アイドルとして活力を与える人物
(評価内訳)
ビジュアル 13点 ライブ表現 13点
演劇表現 16点 バラエティ 12点
情動感染 10点
AKB48 活動期間 2006年~2013年