乃木坂46 林瑠奈 評判記

乃木坂46

林瑠奈(C)B.L.T 2020年5月号

「インディヴィジュアル・プロジェクション」

自意識ばかりが鋭敏になり、自分が何者なのか、何が欲しいのか、何をやるべきなのか一切分からず、自分を持て余しながら、どうしようもない衝動だけはふんだんに抱えている厄介者たちの、無益だが深刻な苦闘の劇…彼らの屈託を、不適切な行動を、笑えばいいのだ。それは、あなた方の姿そのものなのだから。

福田和也 / ろくでなしの歌「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」

林瑠奈、平成15年生、乃木坂46の第四期生。
平手友梨奈の系譜に立つ、と言い切ってよいだろう。アイドルを眺める人間になにがしかの発意を促してしまうその佇まいには特別な存在感がある。しかもそれは本人の意図しないところで作られる、あるいは本人にとって絶対に認めたくないものとして現れる「佇まい」である。自分が大衆の側に立っていることを強く自覚し、その自分が嫌いだ、と歌う横顔は、大衆との対峙を描いた平手友梨奈と愛着しているようにおもう。
平手友梨奈のおもかげをもつからだろうか、ファンのみならず、作り手の内においても好悪の激しくわかれるアイドルであるらしく、その物語は書き出しからすでに境遇に大きく揺さぶられ、左右している。しかし
林瑠奈がセレクション審査においてアイドル不適正の烙印を押され、「坂道研修生」の枠に押し込まれ主流から逸れてしまったことは避けようのない帰結と捉えるべきかもしれない。
平手友梨奈を継ぎ、かつ次のまったく新しい物語の誕生を告げる主人公の横顔を想起するならば、それはまず間違いなく森田ひかるになるはずだが、そうしたフィクションとしての魅力にあふれたストーリー展開とは別の、言わば超越的超自然的な話題、たとえば乃木坂46の楽曲になぞらえ表現するならば”他人のそら似”という神秘なシチュエーションにおいて「平手友梨奈」ともっとも近い距離に立つのが、おそらくはこの林瑠奈であり、要するに、超越的であるがゆえに、未成熟な少女を秤に載せ秘められた可能性をはかる際に、その魅力が目に見える重さとして針を揺らさないわけである。

この少女は、以前、どこかで見かけたことがあるような、通り過ぎた「過去」を振り返させるような、それが結局ただの思い違いであったとしても、誰かに似ているな、と無意識に確信させる、アンコンシャスなアイドルだ、と唱えるべきだろうか。ほんとうの自分がどこにあるのか、わからないし、そのほんとうの自分を探求する姿すらも他者だけでなく自己を偽る仮の姿であるという無意識の確信によって、絶対に自分は幸せになれないだろうという予感のなかで過剰な自虐性を握りしめ生きているような息苦しさ、抜けがたさがこのアイドルにはある。しかもその「抜けがたさ」とは彼女を眺める人間をも縛る抜けがたさである。

アイドルを演じる。日常を演じる。フィクションを物語る。つまり嘘を作る行為によってようやく立ち現れる少女の素顔が、しかしそれすらも嘘のかたまりであるという、自分にとってもっともかけがえのないものをどうやっても他者に明かすことができないという未練さ、逃れがたい凡庸さを知ったとき、つまり、あるアイドルを眺め、誰かと似ているな、という印象をもった際に、しかしその「似ている」の対象が、ほかでもない自分自身であった、と知らされたとき、どのような事態に直面するだろうか。

嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。

白井浩司(カミュ / 異邦人)

現在のところ、林瑠奈というアイドルについてわかっていることは、彼女はひどく無知であり、自分がこれまでに生きてきた、見て経験してきた世界の常識が、広く一般的な常識と隔たっていたことを、常識の通用しない場所でありながらしかし強く常識を求められる世界=芸能界において知らされるという驚き=醜態を露呈している、という点だけである。
そうした現実的な様相を呈してしまう点、より砕いて云えば、そんなこといちいち言わなくていいのに、と思わせるような言葉をつい放ってしまうアクチュアルさにおいては、またグループアイドルとしての有り様、とくにステージ上で見せる踊り、絶対にファンの思い通りには動かないとこころに誓っているような硬さには、佐々木琴子と通い合うものがある、他人のそら似がある、と云えるかもしれない。
佐々木琴子の描いたアクチュアルとは、日常を演じることに一切の関心がもたれていないことの、あるいはそう見えるような日常の演じ分けの徹底をもつことのあらわれであり、当然、彼女はこころに無いことは言わないし、あること以上のことも言わないし、感じること以上のことも絶対に言葉にして表わさない。裏を返せば、こころにあることならば物怖じせずに言うし、感じたことがあれば素直に表明する。つまり嘘をつかない生活=性格によって、自らの矜持を守り育むと同時にアイドルとして幻想に生きづらくなってしまった、非凡な才を持ちながらも凡庸に終始したのが佐々木琴子である。ゆえに、彼女を眺める人間は、彼女をグループアイドルとしてあるべき場所に導くことができなかった自己を責め、悶えつづけることになった。
一方でおなじくアクチュアルに振る舞う林だが、彼女の場合は日常を演じることに、日常を演じ分けることに、アイドル=あたらしい自分を作ることに躍起になっているように見える。それは彼女の日常風景を眺めれば一目瞭然である。彼女は必要以上に無いことを言ったり、あること以上のことを言ったり、感じること以上のことをあらゆる些細な場面で表明する。問題は、いや、問題にされてしまうのは、その嘘が、その言葉のどれもが「他の誰かが過去に語った言葉」であるという点だろう。自分の言葉を使って自分の感情を伝える、ではなく、他者の言葉明らかなものを駆使しなにかを伝えようと苦心する少女を前にして、鑑賞者は違和感をおぼえるのだ。嘘の裏側に置かれた真実すらも嘘で形作られたものなのか、と落胆する。とくに林の横顔からは、生きることへの「円滑」を過剰に求めているような、「円滑」を希求することでむしろ生きにくくなりアイドルの生彩が削がれてしまっているような、息詰まりを感じる。このひとの自意識とは、自己否定の裏返しとして描出された自己肯定に過ぎず、生田絵梨花のような幅広い自己肯定、久保史緒里の強烈な自己肯定の裏返しの発露として描かれる自己否定、つまり定形としての”乃木坂らしさ”とは決定的に径庭したものである。
しかし肝心なのは、いや、ここで問いかけるべきは、そうした「他の誰かが過去に語った言葉」の蒐集、グループの既存のアイデンティティから逸れる危うさなどではなく、他者の語らいを用いてでもファンに伝えたい、誇示したいと誓う何かがこころに秘められ現実に行動してしまう無謀さ、つまり非凡でありながら凡庸の枠に押し込められてしまう、一種の無理解・悲痛の囲繞ではないか。
自分ではないもうひとりの自分を作りそれをファンの前で物語る存在、という意味においてアイドルとは小説家に限りなく近い稼業であるが、「他者の言葉」を駆使する、換言すれば「引用」をアイドルの軸にする林瑠奈とは、批評を書ける小説家とたとえるべきだろうか。こういうひとは、なにものかの影響を受けやすい。さらに云えば、影響を受けたものに生き方そのものが左右されてしまう。そしてそういうひとは、多くの場合、「凡庸」に分類されてしまうものだ。

こうした感慨によってより明らかになった、アイドルを眺める人間が直面する、自己投影を強いた人間が「天才」ではなく「凡庸」に過ぎなかったという事実は、当然、その投影を強いたアイドル自身へと意趣返しされその身を引き裂くのだろう。
自分と似た暗さを持つ人間が、自分とどこか似ているなと感じてしまった人間が(しかもその「似ている」は認めたくない「似ている」である)文芸の世界において、過去を振り切り変わろうとする、成長を描こうとする、しかもその手段が「他の誰かが過去に語った言葉」の蒐集作業であり、自分を必要以上に大きく見せようとするような、水増しされたアイドルに見えるから、なおさら許容できない。絶対に認められないし、嘲笑ってしまうわけである。だから彼女は、アイドルとして文句なしの光量を放っているけれど、思うように人気を獲得できない、という矛盾に引き裂かれることになった。
確かに自分ではない存在、を演じることで本来の自分つまり自分が認知することができなかった自分を知るきっかけになる、という状況において、その自分の知らなかった「自分の素顔」すらも自分を偽ったものである、という虚しさを林は隠蔽することができない。それは彼女の歌唱によくあらわれている。一見すると、ダイナミックでありかつ繊細におもうが、耳をすませば、傍観的に過ぎ、無感動にみえる。だから「彼女」を眺める人間(そこには当然彼女自身もふくまれる)はどこか息苦しくなる。
しかしこの虚しさ息苦しさこそ、自我の喪失と探求を描いた『シンクロニシティ』あるいは『僕のこと、知ってる?』以降の白石麻衣の物語が象徴する、自我の模索劇そのものにほかならず、林瑠奈もまたアイドルの扉をひらいたその段階で”乃木坂らしさ”をそなえていたという、非凡のイメージを打ち出しながらも唖然とするような凡庸を備えてしまうという倒錯を引き起こすのである。

他人のそら似、これは、「君」をきわめて個人的な「わたし」だと捉えるだけでなく、すべての「わたし」が「君」であることの証明なのだ。もし、あなたがアイドルに対しこうした大仰で遠大に思える感慨を打ち出してしまうならば、それは往々にして、アイドルに自己を投射するからである。自分の人生に対し真面目になれない、真剣に語れない人間など果たして存在するだろうか。「そう、すでに君も気づいているかもしれないが、これはまさに私の」物語でもある*1

 

総合評価 65点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 13点

演劇表現 13点 バラエティ 10点

情動感染 14点

坂道研修生 活動期間 2018年~2020年
乃木坂46 活動期間 2020年~

引用:*1 阿部和重/インディヴィジュアル・プロジェクション

2022/04/08  再評価しました  ビジュアル 14→15  ライブ表現 8→13

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