アイドルと引用

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「私に固有でないものが寄り集まって私になる」

無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに侵されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間は、どう見られるだろうか?自己責任の取れない人、ということになる。どちらにしても自分らしさというものは期待できない。だから、人格というものがあるとすれば、それは、他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合として定義されることになる。人格とは、その組み合わせ具合の、その人ごとに最も安定したあり方、ということになる。

新宮一成/精神分析の21世紀

この新宮一成の文章を『小説の自由』に引いた保坂和志は、「もともと人間の脳は、柔らかいテープレコーダーといった趣の物体であって、他者の語らいを忠実に記録している」、「人間は、成長して、それを自分の言葉であると思い込んで外に出すように出来ている」、と新宮一成の文章を自分の「言葉」として述べている。これを鵜呑みにするのならば、たとえば、舞台・演劇のなかで、アイドルがある登場人物を演じるとき、その横顔にアイドルの日常(素顔)が組み込まれる、これもアイドルを演じる少女による「他者の語らい」と云えるのだろう。しかしまた、この”鵜呑みにする”を、保坂和志は「引用」における「もうひとつ」の問題として提議している。「引用というのは、それによってある権威が付与されるような効能がある」、と。「引用箇所は真偽を問われない(問われにくい)」あるいは「なかば自動的に引用箇所が真理として機能する」。「引用箇所は数学の定理と同等の価値を持つ、証明済みの信じるに足る事項であるという錯覚を読者に与えやすい」、と。この保坂和志によって提示された「もうひとつ」の問題は、実に小説家らしい提議に映る。小説家が、ひとりの批評家と出会い、彼が共に闘うべき人物に足ると理解した際の、彼の文章に向けた、日常の思弁を得物とする小説家らしい刃にみえる。しかしそれが引用を試みる人間にとって避けては通れない問題であるのもまた事実だ。もちろん、権威性の獲得を前にして、引用することと、引用せずに自分の言葉に置き換えて表現することでは、実を云えば後者のほうがはるかに容易である、というのはあらためて説明するまでもないのだが。保坂和志が提議するこの「もうひとつ」は、よりシステム的な話題、引用によって物語を作る、フィクションを構築するといった行為と径庭する話題と云えるだろう。

引用の成立と不成立、この岐路とは、システム的な話題に過ぎない。引用を成立させるのは簡単だ。自分が何を言いたいのか、書きたいのか、伝えたいのか、明瞭なテーマを握りしめてさえいれば、その文章を物語るために、あるいは権威性なるものを付与するために「引用」を継ぎ足せばいいだけの話だ。その再構築過程に引用のおもしろさがあり、物語化がある、と個人的には考えているのだが。
一方、引用が不成立に終わる、これはようするに、他者に向け伝えたいものがなにもない、という事態をさす。自身の日常体験に照らし合わせたテーマがあれば、引用と自身の文章の主従関係が逆転するなどという事態は起き得ないのだから。つまり、権威性の付与なるものを目的とした引用の場合、しかしそれが不成立に終わってしまう理由とは、乱暴に云ってしまえば、そこには、昨日手に入れた知識をひけらかしたい、という目的しか置かれていない所為だ、と云えるだろう。だが引用の話題において肝要なのは、このようなシステム的な話題などではなく、「他者の語らい」による自我の芽生えにあるはずだ。保坂和志はそれを小説の内へとつき進めていくのだが、ここでは当然、アイドルを演じる少女の内へと循環させる。なぜ、人は、少女は、アイドルは引用を、「私に固有でないもの」の蒐集をやめられないのだろうか。
ドストエフスキーの『白痴』においてこの問いを考えるうえで興味深い文章が記されている。それは、新宮一成や保坂和志のいう”他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合”、その両極の片方に勢いよく倒れ込んだ情況と捉えることが可能かもしれない。

枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないのである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。…またある者は、何らかの思想をそのまま鵜のみにするか、それとも手当たりしだいに本の一ページをちょっとのぞいてみさえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生まれたものだと、わけもなく信じこんでしまうのである。

ドストエフスキー/白痴(木村浩 訳)

このドストエフスキーの文章を、アイドルシーンに溶かし込んだ場合に想起されるのが橋本奈々未であり、齋藤飛鳥であり、平手友梨奈であり、他者の思想になりかわるという一点においては西野七瀬そのものであり、ともすれば、現代アイドルシーンのイコンとも呼べる”凡庸”である。つまりは、”他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合”、その成立を、自分らしさの探求、つまりアイデンティティの追求と捉え、アイドルの横顔に重ねるこの行為こそ「引用」なのだが、その「引用」がグループアイドルのアンビバレントと響き合う話題であった、という発見には尽きない興趣がある。ファンに向けて「成長」を物語化し伝えなければならない情況に追い込まれた少女にとって、意識的にしろ、無意識にせよ、「引用」とは避けて通ることができない行為になるのではないか。情報と知識、名作と呼ばれる映画や小説から剽窃した思想、あるいは秋元康の詩情を堆積しつつ、その自分ではないなにものかを自己と自己の演じるアイドルの物語に引く……、そのような試みを通さずしてアイドルがアイデンティティを、自分らしさを獲得できるだろうか。未熟さも情熱に導かれた先走りに過ぎない。負けるな、しょげるな、林瑠奈!。

 

引用:見出し、「」保坂和志/小説の自由

 

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