林瑠奈はなぜ「選抜」に入らないのか

乃木坂46, 座談会

林瑠奈(C)日刊スポーツ

「アイドルの可能性を考える 第二十二回 林瑠奈 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は、乃木坂46の林瑠奈について触れた箇所があったので、その抜粋になる。

「林瑠奈 VS 中西アルノ」

島:次は「小説」です。今回の持ち込みは…、楠木さんがニミエ『Le Hussard bleu』、OLEさんが阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』、横森さんが東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、僕がローラン・ビネ『HHhH―プラハ、1942年』。ニミエに関しては翻訳は論外ということで、僕は原書を読めませんから、楠木さんの独擅場になります。
楠木:ニミエは別にしても今回みなさんが読んだ作品を並べて見て思うのは、やや強引ですが、これらは作家の立場としての「批評」と距離の近さをもった小説ですね。こういう偶然は、おもしろい。
島:そうなんですよ。(『HHhH―プラハ、1942年』の)最初の数行を読んだだけで、あれ?これ楠木さんが翻訳したのか?ってニヤニヤしてしまった(笑)。
楠木:ロベール・メルルの小説『死はわが職業』、ダグラス・サークの映画『ヒトラーの狂人』、フリッツ・ラングの映画『死刑執行人もまた死す』への容喙とかね、フィクションとの駆け引きというか、憧憬が顕著でしょう。批評家の誰もが一度はやってみたいと思うことを小説家として小説のなかで「小説」としてやっている。
OLE:俺にはそういう高尚さは見えなくて、自分で物語を作れないことの白状、なにか新しいことをやらないと目立てないと考える平凡な作家の結晶にしか思えない。
横森:この形式が許されるなら批評家はみんな小説家になれるよね。
楠木:E・サイードの言葉を実践しているんでしょう。ただ、批評が古典的小説にならざるを得ないという事態を、批評の地平で小説を結構していく能動性に重ねることは乱暴に思えなくもない。とはいえ、この小説で注目すべきは、作家がこうした無垢な行動に打って出れたのは、ナチス・ドイツという思考に足る歴史問題があったから、という点でしょう。アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である、というテオドール・アドルノの科白にローラン・ビネも囚われているんだね。
横森:『クォンタム・ファミリーズ』はその点もっと直接的で、人気批評家の手による小説なんだけど、こっちはこっちでやっぱり「批評」の匂いがするんだよね。隠す気もないようだし。
OLE:これはしっかり小説を書いてるよ。村上春樹から逃げてないじゃん。
横森:そこがまさに批評家なんだけどね(笑)。我慢できないんだよ。
島:村上春樹に言及することで読者としては現実に引き戻されちゃいますから、やっぱりこれも批評ですよ。
OLE:そんなこと言ったらどれもこれも批評になってしまうよ(笑)。作家のキャリアを作品に持ち込みすぎるのは好ましくないね。阿部和重だって映画批評を小説に持ち込んだ作家だけど、それが小説の価値を決定しているわけじゃないでしょ。
楠木:阿部和重は映画における時代反復への問題意識を小説で晴らしているようにも感じますけどね。過去の作品を現代の技術で再現することを反復と捉える、つまり今目の前に出現した作品を過去の作品と結びつけることは批評の資質であるし、そうした「反復」への批判精神が『インディヴィジュアル・プロジェクション』では小説の新しい技法として結実しているのだから、やはりこの人もまた「批評」に含まれるんじゃないか。
OLE:そう考えていくと批評というのはやっぱり世界の”ねじれ”に対する憤りが原動力にあるってのが見えてきちゃうなあ。
横森:というか、作家なんてみんなそんなもんでしょ。逆に言えば、そういうのがなくなっちゃった人はもう書けなくなる。
島:『インディヴィジュアル・プロジェクション』の記述における仮装、自分しか読まない日記に嘘を書き連ねる行為って典型的な投影ですよね。でもその嘘のなかにこそ本音がある。裏を返せば、嘘を書いたほうが真実に接近できる。これも”ねじれ”ですよね。
横森:そうかなあ。日記に嘘を書くって、それをあとから読み返したときにその嘘こそが真実として働くことを期待しているんじゃないの。だからそれは「書くための理由」にはならないよね。
OLE:日記という体裁、しかも独白体を取りながらそこに嘘が書かれている。そうなるともう読者はそれが嘘であることに永遠に気付くことができない。という発想そのものが書く理由になっているからね。ただ発想そのものはそこまで目新しいものではなくて、カフカがすでにやってる。

楠木:僕がニミエの小説を読んでいつも思うのは、真っ直ぐに伸びていく怒りの進行によって過去の怒りが怒りではなくなってしまう虚しさで、過去の怒りが現在の怒りに食われてしまうことでその過去の感情、過去に自分を衝き動かしたものがまたたく間に価値を失ってしまう。しかもその過去の怒りの喪失が自分のなかで活力になり得るという、浅ましさまを読者としては実感してしまう。フランスの小説家で天才を挙げるならまずこのニミエの名を僕は想起しますが、しかしこの天才は、自分はもう書く必要がない、という情況に落ち込んで、酒に溺れ事故死してしまった。なぜ天才がそのような事態に直面してしまったのか。これは『奇妙な廃墟』にしてみれば上滑りしているかもしれませんが、それは単に自分が書こうとおもったことのすべてがすでに過去の天才の手によって作品にされていたからです。だから同じように天才であったニミエは自分があえて小説を書き続ける必要を感じられなかった。この、書く必要がない、というニミエの絶望は、現代では天才でなくても芸術、文芸にかかわる人間であれば否応なく直面する問題で、なにかをやろうとしてもすでにほかの誰かがやっている。作品として残している。だから”ねじれ”をして自己に宿した衝動も枯れてしまう。つまり、衝動よりも、それでも自分はこれをやりたい、つくりたいのは何故か、という理由探し、自己探求の劇のウェイトが高くなってしまう。
横森:グループアイドルなんかまさにそれだよね。
OLE:うん。
楠木:アイドルに引くなら、林瑠奈がわかりやすくて、彼女は平手友梨奈の面影を持ってしまったばかりに、たしかな才能・魅力があるのに、しかし彼女がやれること、やろうとすることのほとんどすべてがすでに平手友梨奈によって作品にされてしまっているという事態に、これはアイドル特有の視点ですが、林瑠奈本人、というよりは、作り手ですね、作り手がそうした確信を抱いてしまうことで、結果としてアイドル本人がその絶望に包まれるんじゃないか。林瑠奈はなぜ「選抜」に入らないのか、と問うとき、様々な要素を様々なファンが持ち出すはずだけれど、結局はこの点に帰結するんだとおもう。
島:他人のそら似が作り手のモチベーションを下げるというのはこれまでの論調と対決していませんか?
横森:そのモチベーションって要は金儲けの話でしょ。
島:それだけですかね。平手友梨奈に似ているアイドルが出現することで創作意欲が湧くんでしょう?
OLE:その意欲が結局は減衰してしまうっていう話をしているんだけど(笑)。しかも同じ「似ている」でも好悪がわかれるんだよな。中西アルノは作り手に歓迎されているように見える。でも林瑠奈は研修生にされたことからもわかるとおり、作り手にあまり歓迎されていないのは明らか。この子でやりたいことはもう平手友梨奈でやった、という感情が作り手の内にあるんじゃないかと言われたら、まあたしかにそうかもな。
楠木:受け入れがたい思いがあるなら、それは本当に似ているってことだとおもう。顔は中西アルノのほうが似ていると思うけどね。林瑠奈の場合は、似ていることを否定したくなるなにかがあるんじゃないかな。その「否定したくなるなにか」が似ていることを証明してしまうわけだけど。
島:彼女のコラムってわかりやすく自己表現の場ですよね。
OLE:『アトノマツリ』も。
横森:そこに齟齬があるんじゃない?他人にプロデュースされるよりもアイドルが自分でやったほうが活きるっていう点が、プロデュースの意欲を萎えさせるんじゃないのかな。
島:でもそれこそがアートですよね。
OLE:アートじゃアイドルは売れないからなあ。
楠木:なにかのバラエティ番組で林瑠奈が齋藤飛鳥のことを語っているのを見たけれど、言葉の質というか、視点のあり方ですか、彼女のそれは純文学ですね。エンタメとは質が違っていて、批評に見える。林瑠奈は批評をやってみればおもしろいんじゃないかな。
OLE:でもね……、中西アルノも批評キャラなんだよ……。
楠木:はあ。そうなんですね。
横森:久保史緒里も批評キャラだよね。
楠木:いや、久保史緒里はエンタメの申し子だよ。ただその彼女のことを眺めるファンの視点というか妄執は純文学然としていて、それがアイドルに被さるとアイドルもそう見えるってだけ。はっきり云ってしまえば、今、乃木坂にしろ櫻坂にしろ日向坂にしろ、彼女たちを語ることはエンターテイメントにしかならない。一方でAKBグループを語ることは純文学つまりアートになる。
島:僕のまわりで平手友梨奈が受けるのも、結局は、平手友梨奈の場合、そのアイドルのことを話題に出すことが恥ずかしいことには感じられないという意識があるからなんだと思います。これが他のアイドルになると、正直、恥ずかしくて話してられない。
OLE:そういう意識が楽曲の質の良さに比例するんだろうな。
楠木:ただ、例外もあって、林瑠奈とか、中西アルノとか、奥田いろはですか、彼女たちは純文学のゆりかごに入れて揺らすことができる、つまり真剣に語れる。中西アルノと林瑠奈をあえて比較するなら、林瑠奈があらゆる意味で自己投影としての対象であるのに比して、中西アルノには鑑賞者とはまったく無関係の場所で果敢に生きていくような行動力、つまりヴィルトゥスがある。たしかに、そう考えてみると、批評とは、なにものにも侵されない価値を自己の内に作り出そうとする意識の強さの発揮ですから、林瑠奈と中西アルノでは中西アルノの方が強いのかもしれない。
横森:コア・インテリ層を共感と関心で引きつけつつ、無知な大衆を無関心にさせず「こいつに文句を言ってやろう」と鼻息荒くさせるのが批評だから、その点では中西アルノって「批評」なんだろうなやっぱり。


2023/03/19  楠木かなえ