乃木坂46 大園桃子 評価

乃木坂46

大園桃子(C)BRODY 2018 / 白夜書房

「架空の魔物」

神童と呼んでしまったら嗤われるだろうか。
デビューした段階で既に、アイドルとしての枠組みをおおきくはみ出た存在であり、アイドルの虚構に対するリビドーは同時代を生きるアイドルたちを寥々と凌駕していた。彼女は、歌をひとつ口ずさむだけで、その場の空気を変質させてしまう。脆さや儚さといった範疇では語れないナイーブでイノセントな仕草をみせる。自由奔放な感性は純真で素朴な笑い顔と、深い森のなかへ迷い込んだような暗く不機嫌な顔(翳り)を形づくる。そして、その表情は我々の感情をやすやすと揺かす。情動感染という分野はこの大園桃子を評価するための分野と云える。大園桃子は、現代アイドルの枠組みを毀し、アイドルのありかたそのものを転覆させた人物としてアイドル史に銘記されるだろう。

絵は絶対的に画かれなければならない。金は絶対に奪らなければならない。この両輪を回す覚悟から、文人画家の血脈が息づく。「生きることは繪を描くことに値するか。」利行は風景からも恐喝する。その風景画は、一張羅のドテラを着て前のめりに駆けていく途中でぶつかった場所から盗み取った、アナーキストの言葉を借りれば、東京から「リャク(略奪)」した光景に外ならない。彼が文人の末裔足り得るのは、恐喝としての画業に拠る。犯罪の素早さが、描線を響かせ、眠った主観から、風景が目の前に在る事の恐ろしさを切り開く。

福田和也 / 日本の家郷

長谷川利行は日常から風景を奪い取る。大園桃子は自身の日常を千切り、それを虚構の中に投げ捨てる。「生きることは繪を描くことに値するか。」という切迫した問いを嘲笑うかのように”アイドルを演ることは生きることに値するか。”と平然と云って退ける。だが彼女の「覚悟」とは命の尊重などではなく、日常と虚構の不分明、つまりドラマツルギーの「恐ろしさ」なのだ。大園桃子は、あらゆるシーンで屈託を内包した闘争心とイノセントの枠組みが激しくぶつかり合うような異物感(不快感)を観る者に抱かせる、抱かせてしまう。善や悪という峻別を超えたノスタルジックな情景として、あるいは冷めたパラノイアとして我々の目に映り込み、自己投影をうながす。まるで、心の闇を裸にされ、虚構と現実の区別が灰色になって燃え落ちてしまったかのような、安易には認めることができない感情を、観る者に植え付けるのである。

「天才は実在するのか。希少獣のように、あるいは架空の魔物のように、問いかけるのも奇妙かもしれないが、天才という存在について語る時に生じる割り切れなさが、かような問いを人に強いるのだろう。」
「なぜ割り切れないのか。」
「それは天が、人知の及ばない領域が、ある人間を選んで並外れた才を、天分の才を授けてしまった、ということが、どうしたって納得できないからだ。」

福田和也 / ろくでなしの歌

現代のアイドルシーンは”システム”の完全さ(収斂)への依存で成立している。所属する組織の趨勢によってのみ、アイドルの成功と失敗が決定付けられていく。彼女たちは、システムを利用することにより、その枠組の中で自我を獲得する。情動に溺れることなく心地の良い群像劇を描く。”システムの想像力”の内側で成功を掴む。しかし、天才はちがう。天才とは、大園桃子というアイドルとは、「神秘的な異物」として自己の情動を引き起こし、それを我々に感染させる。我々の理解とは異なる空間で笑い、哭き、叫ぶ。そして、アイドルという虚構を、「理解という範疇を毀してしまう」。大園桃子が異端児として扱われるのは、「天が、人知の及ばない領域が、ある人間を選んで並外れた才を、天分の才を授けてしまった、ということが、どうしたって納得できないからだ」。(*1)
群像劇の登場によって、アイドルの姿形が、ソロアイドルからグループアイドルへと移りかわり、女優や歌手をアイドルと見做さない固定観念が形成された現代のシーンにあって、大園桃子はひとりの女優として、近代アイドル史に転換点を刻み込み、アイドルのあり方を、大衆認識を、グループアイドルからソロアイドルへと回帰させる人物である。

 

総合評価  92点

アイドル史に銘記されるべき人物

(評価内訳)

ビジュアル 18点 ライブ表現 18点

演劇表現 18点 バラエティ 19点

情動感染 19点

乃木坂46 活動期間 2016年~

引用:(*1)「」福田和/ろくでなしの歌

評価点数の見方