大園桃子「センター」を検証する

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大園桃子 写真中央(C)ザテレビジョン

「天才」

グループアイドルに対し「この少女はまさしく天才だ」と意気込み激しく語ると、周囲から笑い声がきこえてくる。アイドルを「かわいい」と褒めることは喜ばれるけれど、アイドルをアーティストと呼ぶ行為は許容されない。一笑に付される。それはなぜだろうか。それはおそらく、グループアイドルというコンテンツに真剣になること自体、バカバカしくておかしいことだ、という風潮が今の日本に強まっているからだとおもう。厄介なのは、アイドルにまったく関心を示さない公衆だけでなく、ヲタクと呼ばれアイドルシーンに没頭する人間さえもまたその風潮にとらわれ乗じている点だろう。

大衆が「グループアイドル」に真剣になれない理由はいくらでも挙げることができる。
作詞家でありながらアイドルのプロデューサーを務める秋元康という人物に対するイメージ(黒スーツにメガネをかけた肥満体型の業界人といういかにもといった風貌)からはじまり、その秋元康が編み上げる幼稚な歌謡曲と、それにあわせて踊るアイドルの稚拙なパフォーマンス。俗に言う「握手会商法」への嫌悪感と、そこにはまりこむ人間への嘲笑。会いに行けるアイドル、と言えば聞こえは良いが、実際のところそれは、会おうと思えばいつでも簡単に会えるアイドル、でしかなく、芸能人でありながら、たとえば女優のような神秘的なイメージをもたない。むしろファンは、アイドルが一人前の芸能人へと成長していく過程を楽しむために「握手会」に足繁く通うのであり、少女が未熟であることが「アイドル」の前提となっている。その前提をより確かなものにするのが「アイドルグループ」を組み立てる構図、要するに「束売り」という、ホームセンターの片隅に積まれた、割安感を打ち出した商品としてのイメージである。
近年は、オーディションへの参加人数の多さ、合格者倍率の高さを喧伝しているけれど、それは裏を返せば、平凡な少女であっても「こんな自分でもグループアイドルにならなれるかもしれない」と希望を見出すことのできるシーンが出来上がり、彼女の手の届く範囲に広がっている証である。

つまり一種の未熟さがコンテンツの核心と言え、安っぽく親近感があり、幼稚であったり、未完成であったり、不完全さを支えにする少女の横顔に価値を見出し商品として扱うところに「グループアイドル」へ向けた大衆の好悪がある。

幼稚でありながらも決して少なくはない数のファンを魅了するアイドルに違和感と嫌悪感を示す存在を公衆とするのならば、反対に、アイドルが凡庸であることに強く引かれ、遠い未来への可能性に価値を見出す存在こそアイドルヲタクと言えるだろう。
未熟な少女、才能も何も持たない少女が芸能界へと羽ばたいていく……、こうした奇跡を感じさせるキャリア形成に「自分」も関与しているのだという自覚がファンに並みなみならぬ興奮を与えるのだ。とすれば、その興奮の原動力とも言える「平凡な少女」という設定を致命的に裏切る、「天才」なる呼称は絶対に許されるものではないし、無視できない。そしてこの「許せない」感覚に対しほとんどのファンが無自覚あるいは無関心を演じており、その無感動さのあらわれのひとつとして、かれら彼女らは、グループアイドルを演じる少女を天才などと呼び称賛する愚かな人間を前にすると、我慢できず本気で笑ってしまうのである。かれら彼女らにとっては、平凡なグループアイドルが天才であるはずがないのだから。

よってここに一つの明確な問いかけがうまれる。もしほんとうに天才がグループアイドルシーンの渦中に出現してしまったら、そしてそのアイドルがシーンにおける中心人物(乃木坂46の主人公=センター)になってしまったら、グループアイドルの存在理由が打ち砕かれてしまうのではないか、といった問いと予感が。こうした観点においても「天才」は絶対に認めてはならないのだ。

だが、大園桃子、このひとを他者に向けて語る際に「天才」や「異物」、あるいは「神秘」といった形容を避けつづけることができる人間など果たして存在するのだろうか。
たしかに、天才を言葉で説明するのはむずかしい。また、「大園桃子」が天才たる所以を言葉にしてあらわし説得するのも簡単ではない。しかし同時に、彼女を説明する際に天才という表現を避けるのもまた困難におもう。

天才とは一体なにを指すのだろうか。
公衆的な「天才」とは、能力に優れた人間、技術に長けた人間であり、たとえばそれは、だれよりも速く走る、だれよりも遠くにボールを投げる、だれよりも売れる絵売れる本を書き、だれよりも銭金を稼ぐことで証される、数値化の可能な、確証を備えるものが天才と名付けられ称賛を浴びるのではないか。もちろんそれは「天才」である可能性が高いだろうし、また、天才とは安易に数値化できる類のものではない、と主張する人間も同じ数だけいるだろう。
天才とは知性と情熱の合致した人間である、と叙述する作家もいれば、天才とは、異端を王道にすり替える人間だ、と歌うラップ歌手もいる。文豪バルザックを前にして、天才を決定づけるのは書き続けることのできる意志だ、と言う批評家もいる。いずれにせよ、そこに通底するのは、天才とは新しい枠組みを作ってしまう存在だ、と唱える呼号である。
この「枠組み」とは、ようするに、新しい「共通認識」と換言できるだろう。
文芸に話題を絞るならば、近代演劇のあり方を決定づけたゲーテは説明するまでもなく、たとえば、日本の文学に深刻な影響を与えた村上春樹もまた抜け出すことのできない枠組みを作った天才と言えるだろう。村上春樹デビュー以降、日本の若手作家、コラムニスト、果てはブロガーまで、氏の強い影響下に置かれ、その文体は書き手たちの意識の有無に左右されず圧倒的な浸透力をみせている。またなによりも小説やブログを読む読者にとって、眼の前に置かれた読み物のすべてが「村上春樹」につき動かされた文章のように錯覚されるといった事態が引き起こされ、彼らの多くは「これは村上春樹のマネごとにすぎない」と斬り捨てることを一向にやめない。村上春樹への好悪にかかわらず、その存在にひれ伏している。
スケールの違いは無視できないものの、ここでアイドルシーンに話題を戻すと、平成が終わり、令和がはじまった現在、(日本の芸能界における)「アイドル」とは?、と問いかけられた公衆が、そのアンケート用紙の解答欄に書き込む名称はまず間違いなくAKB48、ひいては秋元康プロデュース・アイドルであり、つまりアイドルとは、大勢の夢見る少女が一堂に会する、グループアイドルのことだ、と大衆に想起させる共通認識=新しい枠組みを作った秋元康は、文句なしに天才と呼べるだろう。もちろん、AKB48以前にもグループアイドルは数多く存在する。それはたとえば、オーヴァーグラウンドでは「モーニング娘。」がまず挙げられるだろうし、アンダーグラウンドならば「制服向上委員会」を挙げるべきだろう。だがそのいずれも、アイドル=グループアイドルとする共通認識を作るまでには至っていない。それはやはり彼女たちが大衆に対する強い働きかけを持たない点、つまり大衆による好悪がない、というところに落ち着くのではないか。

「変わらないもの、変わるもの」

新しい枠組みを作る。新しい枠組みに立つ。これは当然、既存の枠組みから完全に抜け出る行為を意味し、自分たちが住んでいる心地の良い世界から逸れた場所に立って笑うその人物を眺める大衆は、そこに激しい違和感を覚えることになる。何かが違うぞ、と不安になる。これはどう受け入れるべきなのか、戸惑う。大げさに言えば、平穏な日常が脅かされてしまう。
この、大衆に「不安」を与える、居心地の悪さを伝え苛立たせる存在、より砕いて言えば、この人に常識を求めても意味がない、と諦めさせる神秘的な存在こそひとつの「天才」であり、それをアイドルシーンに持ち込み探るのならば、ほかのどのアイドルよりもはやく想起される人物こそ乃木坂46の大園桃子である。

舞台やテレビドラマ、ライブステージやミュージックビデオの中だけでなく、普段の日常生活においても、常に自分ではない何者かを演じつづけることを使命とし、ファンからのチャントを獲得し銭金を稼ぐ職業が「グループアイドル」なのだけれど、秋元康が平成年間を通して作り上げたこの共通認識に反抗するアイドルが、令和の開始が告げられた現在、シーンの上にぽつぽつと出現しはじめている。そのもっとも明確な”しるし”が大園桃子であり、彼女は、アイドルの魅力とは日常の仮装のなかに拾うのではなく、雑多な現実のなかに落ちているのだ、と勇敢に抗議している。他者に対して、ではなく、自分に対してウソをつかない場所、日常のとなりにあるのだ、と。つまり、純粋であり邪悪であるという、ある意味ではうまれたままの状態で独り異なる空間に漂い、自分ではない何者かになることを徹底的に拒み、ファンの声量によってアイドルの物語が左右されるといった場所から遠く離れ、自我を護りつつ「グループアイドル」の欺瞞をあばきたて、しかもアイドルとして燦然たる輝きを放つことを可能とするのが大園桃子であり、それが彼女の魅力、いや、迫力であり、異端児と扱われる所以である。

この大園桃子が「アイドル」になり変わる場面を探り当てるとき、彼女の描く幻想がかたちあるものとして現れるのは、ライブステージの上、ミュージックビデオといった映像作品の内側になる。それをもっとも簡明に教えてくれたのが乃木坂46時間TV アベマ独占放送「はなれてたって、ぼくらはいっしょ!」において、彼女が奥華子の『変わらないもの』をカヴァーした瞬間であり、そのフラジャイルな歌声に触れたファンは、大園桃子というアイドルの集大成が唐突に眼前に立ち現れたような、瑞々しい廃墟とも言える幻影をそれぞれが見つめる羽目になった。『変わらないもの』のストーリーを追いかけていくと、ドキッとさせる暗示が置かれていたり、その悪戯はアイドルが本心を隠すために用意した照れ隠しでもあったのだと想到させもする。まさしく歌をうたうことによって自身のこころを代弁しており、結果的に歌ひとつでアイドルの物語化に成功している。想像するに、このストーリー展開に着想を得て作られたのが『友情ピアス』なのだろう。
なによりも、大園桃子は、言葉が、文章がとびきりにうつくしいアイドルである。たとえば、アイドルとして過ごし感受した日々の飛翔を記した彼女の文章には、少女の内面の機微、暗さや陽気さが生々しく描かれ、うつくしく澄み切った手記に触れたような感慨を抱かせる。物書きではない人間が、しかし読者を感嘆させる透明でうつくしい、レトロスペクティブな文章を書けるのは、彼女が普段から虚栄のない澄んだ言語のなかで生きているからだろう。日常生活のなかで大衆が見落としてしまう重要な出来事に気づける人間を天才と呼ぶのではなく、大衆と同じ日常生活をおくるなかで、大衆が見つつもその重要さに気づけないものに気づいてしまう人間こそ天才と呼ぶのだ、と云った歴史小説家が居たが、大園桃子の言葉に心を揺さぶられる人間が多いのは、やはり、日常生活のなかで見つつも見逃していた大切ななにかを、彼女から不意に突きつけられるからである。
つまり、大園桃子が「大園桃子」の日常を語るだけで、それが物語として成立してしまうのも、これはもう当然の結実と言うほかないわけである。アイドルとして暮らす日常において、多くの人間が見過ごしてしまうものを拾い上げる、要するに自分にウソをつく経験を一切もたない、あるいはもてない以上、心の内に発生した言語に偽装がない以上、それは当然、ほかのどこにもない、うつくしく澄んだアイドル=物語を生むことになる。
しかもそうした日常の香気をライブステージの上や映像作品の内側で完全に再現しなおかつ飛翔させる手腕を彼女は有しているのだから、それを眺めるファンは否応なくアイドルの物語に没入してしまうわけである。つまりこれは、ファンがアイドルを自己の内で物語化するのに必要な素材がライブステージ、もしくは映像作品の内にすべて揃えられている、という状況を指す。

もし、大園桃子の立ち居振る舞い、アイドルの作り方が、シーンの主流へと置き換わるような事態が訪れるとするならば、もはや説明するまでもなく、それは「グループアイドル」の死を意味し、アイドル=ソロアイドルの時代の到来、開始を告げる鐘の音が響いた、と言えるだろう。
グループアイドルの流行が終わり、アイドル=ソロアイドルと扱う公衆認識がひろがりをみせたとき、それをもたらしたのは誰か、シーンの歴史に向けた興味が引き起こるのは必然だろう。もちろんそこで大衆やコラムニストに持ち上げられるのは、かれら彼女らの眼前で踊る、もっとも人気の高いアイドルになるのだろうが、大衆の想像力から逃れ、批評の立場を持つならば、もっとも大きい存在として挙げられるのはまず間違いなく大園桃子だろう。次の、新しい枠組みを作った、という意味においてやはり大園は天才であり、その胎動なのだ。

ただ、この言わば「天才」という孤島に漂着してしまうと、いかほどか救われてしまったような、安堵したような、闘うべき相手を見失ったような、自然の無害さ奔放さについ甘え弛緩し、アイドルへ向ける思惟を低いところへと引き下ろしているのもまた事実である。
その最たるものが、アイドルが序列闘争における屈託と離れた場所に立っていることを、つまり「センター」への憧れを語らうといった前時代的な場面を望まないことを最良とし、むしろそれが大園桃子の魅力だと確信してしまっている点である。彼女が「センター」に選ばれることで、少女固有の繊細なこころが壊れてしまうのではないか、衝動的に卒業を選択してしまうのではないか、という不安がファン感情のいたるところに伏在している。そのファン感情の表れをデータとして汲んでいるであろう作り手のはからいなのか、現存するアイドルのなかでセンターポジションに対しもっとも抜きんでた資質を備えているのにもかかわらず、大園桃子は18枚目シングル『逃げ水』においてセンターポジション(与田祐希とのダブルセンター)に立ったのを最後に、きわめて穏やかなアイドル生活を満喫する、出会いや別れといった感動を素直に感受しうつくしい思い出にひたる甘美なアイドル、自我が極端に肥大した人物というところに収まっている。
乱暴に言えば、「天才」の働きかけによって起きたこの価値観の変化、つまり人気や知名度、序列闘争といった話題から徹底的に無縁をつらぬく場所に立つアイドルを眺め、これまで代えがたい価値をもつと信じていたものがどうしようもなく下らないものに成り下がってしまうという情況は、その当事者としての大園桃子を、アイドルシーンの中心、つまり乃木坂46の「センター」に希求することをきわめて困難な話題へと陥らせている。
さらには、すでに述べたとおり、大園桃子がシーンの主流となるストーリー展開とは、グループアイドルの終わりを予告するわけだから、大園桃子「センター」とは、まさしく禁断の果実と言えるだろう。
だがそれでもなお不利を承知で言うならば、商業的な、戦略的な意味における人気や知名度の一切を無視し、これは絶対に大園桃子でなければ表現できない、という楽曲に、宿命的に変わるものとして彼女を「センター」に配した、しりぞけることができない魅力を湛えた作品に、私は出会いたい。


2021/05/17 楠木

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