乃木坂46 久保史緒里 評判記

「アンファン・テリブル」
久保史緒里、平成13年生、乃木坂46の第三期生であり、14代目センター。
アイドルとして抜きん出た実力、とくに透徹した歌声の所持、モノローグのフィクション化と乱舞、悲劇と喜劇を同時に手繰り寄せる境遇への握力から、グループの通史を書くにあたり間違いなくキーキャラクターと呼べる存在である。夢への献身に結ばれた少女たちの群像、その当事者でありながら、歴史学者的な視点と熱量で乃木坂46の人間劇を俯瞰する、夢に舞う少女たちと同時代に生きる物語の語り部を振る舞うという、独特な役割も担いつつあり、しりぞけることができない、きわめて個性的な魅力を発散している。いわゆる”物語性”を著しく欠如する第三期生のなかにあって久保が一頭抜く存在感、物語性を把持するのは、やはり内省に富んだ自己否定がアイドルの自意識、言わば自我の濫費を描き出すからだろう。
自分の殻を破りたい、と決意表明しアイドルの扉をひらいてから今日に至るまで、常に高い精神性をもってアイドルを編んできた。明日は今日なのかもしれない、という少女の内にこもった憂鬱とリグレットを深く透明に唄った『毎日がBrand new day』によってより明らかになったが、久保史緒里とは自己否定の洗練に注意を打ち込むペーソスなアイドルであり、アイドルを演じる毎日の屈託を焚き火の炎を囲むようにして包み込みあくまでも陽気に踊る、虚実に映され揺れる耽溺にまぶされた久保のその横顔は油断なく研ぎ澄まされている。
あるいはそれを自己啓発の彫琢と安易に表現するならば、久保は、第一期生ではないアイドルのなかで、はじめて”乃木坂らしさ”という形容辞に明確に到達した登場人物と呼べるかもしれない。『Sing Out!』の映像作品において身につけた、菖蒲を煎ったような小豆色のスカートが似合うのは久保史緒里だけだろうし、また、乃木坂46の主流ともなった「希望」の物語のひとつの結末を描いた『最後のTight Hug』のミュージックビデオ、森の中で歌い舞い踊る妖精となり描き出した久保のソフィスティケートされた一連の所作にも、唯一、センターで踊る生田絵梨花のその大きな希望としての存在感にとどき得るメンバーではないか、途方もない、しかし現実味を帯びた憧憬を抱かせるまでの凛とした魅力、つまり”乃木坂らしさ”が備わっていた。
久保史緒里と生田絵梨花。このふたりの関係性、グループアイドルの構図には深く尽きない感興がある。そこに描かれる稚気はとびきりに好感を誘う。日常の先にある、夢への献身、を見る。
乃木坂46・生田絵梨花、この大器への遠望を持ち、生田絵梨花のようになりたい、と高らかに呼号することで、生田絵梨花を目標として掲げる少女はけして生田絵梨花のようにはなれない、という矛盾に陥るアイドルは多い。久保もまた、そうした憧憬を繊細きわまる情熱をもって生田本人の前で明かしてからは、凡百のアイドルと同様の憂慮に囚われつつあったが、生田との最後の共演作となった『最後のTight Hug』を演じた後は、生田絵梨花の背中を見つめる、ではなく、生田絵梨花と対峙する、でもなく、作詞家・秋元康の詩的世界よろしく表現するならば、「僕」と「君(希望)」の関係にあらたな視点・解釈を生むことで、その憂慮を一気に払拭した。
『最後のTight Hug』においてセンターを務めた生田絵梨花が演じたのは、主人公の「僕」ではない。彼女が演じたのは、「僕」に結婚を告げた後、「僕」に強く抱きしめられる「君」である。つまり楽曲のセンター=主人公に選ばれながらも、その詩的世界に限って云えば主人公ではなくヒロインの役を演じるという、言わば主人公の不在という倒錯が引き起こされたわけである。生田絵梨花と同じ側の「君」を演じていては『最後のTight Hug』の主人公にはなれない。主人公を演じるならば「僕」でなければならないし、当然、「僕」でなければ「君」を抱きしめることはできない。つまり生田絵梨花の喪失を想うとき、アイドルたちは必然的に「僕」を演じているはずであり、その「僕」を演じている、あるいは、「僕」を演じることができる稀有な存在としてまず久保史緒里の横顔が想起され、なによりも、生田絵梨花の喪失を想いそれを表現しようと試みる久保史緒里を眺めることで、この「僕」と「君(希望)」という構図への想像が叶うわけである。
久保が「僕」の視点をもつ以上、もし今後、久保史緒里が『最後のTight Hug』をステージの中央で踊る機会があるならば、そこに表現される世界は生田絵梨花が表現しなかった、いや、生田絵梨花では表現することができなかった世界観をそなえる、と云えるはずだ。
こうした感慨をにぎり締め、より追究し気づくのは、生田絵梨花の裸の自己肯定の相対として映し出される、久保史緒里の、自己肯定を表現するために準備された自己否定である。
生田絵梨花と久保を有機的に、いや、宿命的に結び付けてしまうのは演技力だとか歌唱力だとかそういった分析的評価によるのではなく、久保を眺めれば眺めるほど、日々ソフィスティケートされる自己否定の裏側に強烈な自己肯定感が置かれている事実を発見するからである。この、彼女の積み上げる「自己否定」が、生来もつ強烈な自己肯定の裏返しとして描出されたものだと発見した鑑賞者の狼狽、たとえば、久保史緒里の「アイドル」へ向けた過剰な熱誠すらもその偽りの自己否定の内に還元されるのではないか、という不気味さ、紙一重の不安、俗に言うヌエ的なイメージにこそ、ひとりの未完成な少女を前にした鑑賞者が、少女の「現在」を誤り、本格への評価、つまり天才という呼称を準備する動機・原動力があり、それはつまり久保が生田絵梨花の作り出したパラダイムに立つ”しるし”と言えようか。久保史緒里と生田絵梨花を、グループアイドルとして有機的に結びつけるもの、それは”天才”という形容辞である。デビュー以来、久保史緒里という少女は並外れた天分の持ち主だ、とファンのみならず同業者からも惜しみない歪んだ称賛が作られてきたことはあらためて説明するまでもないのだが、生田絵梨花もまた、アイドルの扉をひらいて以来、凡庸なひとりの少女でありながら”天才”の称賛を浴び続け、それを「アイドル」の成長の糧にしてきた登場人物なのだ。
そのような意味では、やはり久保は生田絵梨花という強大な枠組みに与するアイドルであり、「生田絵梨花」を受け継ぐ、次世代を生きる子供、とみなすべきかもしれない。たしかに、アイデンティティの否定と犠牲を茶番劇へと下落させるような久保の憂愁、それが自身とファンの情動を引き起こす格別なユーモアとして発揮されるところなどは、生田絵梨花の物語に上手に包括されている。
しかし、「成長」へ果敢に挑戦し、その未熟さをことごとく光栄に塗り替えてきた生田絵梨花とは別に、「成長」を印すため『羽根の記憶』の弾き語りに挑んだ久保のストーリー展開には、デビュー以来育んできた高い精神性、ある一定の水準に達しなければ表現したいものがあってもみずから表現しようと決意しないという、衝動の制御に、ついに脱臼が生じたようにおもわれる。ピアノ演奏につまずいてしまったことが、生田絵梨花を受け継ぐ者、に対する裏切りに映るのではない。演奏に、歌をうたうことにつまずきながらも勇敢に歌をうたいきったことが、こころの震えそのものが表現になる、つまり未成熟であることが代えがたい魅力になるという、生駒里奈を前にして生田絵梨花が断念したアイドルの王道さを演じきったことがアンファン・テリブルとして生田絵梨花というパラダイムから抜け出したことを確信させるのだ。つまりは、乃木坂46というアイドルグループの次世代を担うべき最初の子供として出現した第三期生のなかにあって、はじめて、久保史緒里は第一期生の枠組みから脱した登場人物と呼べるだろう。それは言葉の最良の意味で、乃木坂らしいアイドル、であり、「生田絵梨花」ともっとも距離の近いアイドルへと変貌を遂げたかにおもわれる。
総合評価 79点
アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物
(評価内訳)
ビジュアル 15点 ライブ表現 16点
演劇表現 17点 バラエティ 15点
情動感染 16点
乃木坂46 活動期間 2016年~
評価更新履歴
2019/05/12 ライブ表現 14→16
2021/03/31 再評価、加筆しました
2022/02/26 評価、本文を一新しました
2023/03/23 評価を一新しました