乃木坂46 久保史緒里 評価

久保史緒里 (C) 『週刊少年マガジン』49号/講談社

「耽溺」

アイドルとしての実力、特に透徹した歌声の所持、モノローグのフィクション化、悲劇と喜劇を同時に手繰り寄せる境遇への握力からグループの通史を書くにあたり、間違いなくキーキャラクターと呼べる存在である。しかし、今日、久保史緒里を取り巻き、独り歩きする、同世代のアイドルたちを圧倒する”本格”への評価と過褒、つまり”天才”という呼称とアイドル本人の抱える資質がこれ程までに乖離し、憂鬱を抱える人物は外にいないのではないか。もちろん、この大仰な呼称は久保史緒里本人の虚飾が作り上げた幻想ではない。彼女を耽溺する人間の所業である。

恋愛というものは、個人の主体性を越えて運動する、計算外のことが次々と起きる、賢明さを越えたところにしか現れないものです。だからこそ面白いものであり厄介なのです。自分とはこういうものだと思っていた枠からはみ出てくるものがある。それも多くは、嫉妬といった見たくない、認めたくないといった愚劣な部分が出てくるのではないでしょうか。

福田和也「福田和也の文章教室」

仮想恋愛そのものがアイドルの存在理由に設定されることは、現代のアイドルシーンのなかにあっては特別な現象ではない。耽溺がメインコンテンツとなったアイドルが「個人の主体性を越えて運動する」ファンの妄執に囲繞されるのも当然の成り行きである。ファンは”彼女”の物語を読み、”彼女”に恋をし、空扉を開き架空の世界の住人となる。彼らは妄想の翼を広げ、現実世界では遭遇しなかった願望、「愚劣な部分」を表出させる。しかし、久保史緒里の場合、彼女のファンが滲み出す願望とは多くのアイドルファンが少女たちに向ける”彼女はこうであってほしい”、”こうあるべきだ”という主人公が不完全さを抱えるが故の希求=欲や嫉妬とは異なる。久保の物語を読むファンは”彼女は、こうなのだ”という既成、瑕疵のない偶像を置く。因って久保は生田絵梨花や西野七瀬が達成した成長共有の要件を満たさない。満たせない。ファンにとって久保史緒里とは、その姿形が画面に映し出された瞬間から努力やポテンシャルという範囲の余白部分を埋め尽くした天才であるのだから。そして、その完結した筐体を前に”彼ら”は悶え苦しむのだ。この悶えは鈴木絢音的な処女性の尊重、”かけることのできる徴”ではなく、深川麻衣的なアモールと呼べるだろうか。なによりも面白く、厄介なのは、ファンは自身の抱える拙く邪な感情や悔悟、日常の不安や不幸を払拭するために用意した”主人公”を『久保史緒里』という虚構の中から、架空の世界で暮らす久保史緒里にではなく虚構の外側に立つ”現実世界”の久保史緒里に投射する点にある。久保史緒里がどれだけ真剣に演技をしても、フィクションを作っても、ファンが眺め、批評対象とするのは彼女の演じる役ではなく、あくまでも久保史緒里本人なのだ。だから、フィクションと現実が混ざり合う。イメイジと実像が乖離したアイドルがステージ上でライトに照らされ、浮かびあがる。天才が堆く積み上げられて行く。彼女は格好の投射素材なのだろう。”アイドルに憧れてしまった”天才少女という物語が作る乖離は、彼女がグループアイドルとして呼吸している、ただそれだけの事実が奇跡との遭遇を叶えてくれる。久保史緒里とは、収斂が訪れつつあるシーンを彷徨い歩くファンがやっと発見できた”逸材”なのだ。自己主張しない垂れ目、溌剌する清楚、フラジャイルな日常の仕草など、彼女のビジュアルが投影への入り口として機能しているのかもしれない。この受動的な求心力を特別な資質による発揮と評価するならば、自身を”天才”とファンに妄執させる天与の才を持つ者、つまり天才と呼べる訳だから、久保はパラドクスなアイドルと云えるかもしれない。

久保史緒里の演劇について。
彼女に対する批評(フィクション)を作るとき、やはり、彼女を囲繞する過褒、耽溺と対峙する姿勢を貫かなければならない必要に迫られる。久保史緒里の演じる”アイドルを端的に言い表すならば、”何でも出来るけど、何も出来ない”物語と云えるだろう。例えば、久保の同期でもある乃木坂46の第三期生、大園桃子、中村麗乃が作る物語のタイトルと並べたとき、久保の虚構には不安定な官能性こそ内在するが大園の観者の心を握り潰すような迫力や中村の季節の記憶になるような儚さなど、アンダーグラウンドを虜にする異物感の伏在を読むことは叶わない。彼女がみせる映像作品や舞台での演技は、バランス感覚の良い仕草を残すが、伊藤純奈や秋元才加と同じく日常が不在している。あるいは日常を自壊している。彼女たちがどれだけ虚構のなかで咆哮しても、それは闖入者の存在に怯える飼犬の威嚇にしか見えない。一方で、大園桃子の”嗤い”や中村麗乃の”俯き”は、その視線のさきに何が映っているのか、想像もつかない、底気味悪さが”神秘”へと変質する古典がある。両者の隔たりを端的に表現するのならば、大園桃子が非日常の境域で日常を溢し現実世界では伝えられなかった素顔を提出しているのに対し、久保史緒里は仮構という非日常のなかで”非日常”を演じてしまっているのだ。例えば、『劇団桟敷童子』の東憲司が作り出す仮構のように時代の距離感を無視したエンターテイメント的な優等生感の押し付け。観者にスリルや感涙を与える快適な刺激。この”刺激”への依存が今日の久保史緒里を囲繞する、異常な賛辞が生みだされているのかもしれない。快適な刺激を与えられた人間は情動を引き起こし冷静な判断を下せなくなるものだ。
我々がほんとうに観たいものとは、非日常のなかで演じられる”日常”である。仮構のなかでアイドルが自身の日常を千切り取って捨てて行く光景は、救いがなく正視するに耐えないひどく不快なものになる。しかし、同時にアイドルが身を置く世界の残酷さや煌やかさを描くことができるのは、アナザーストーリーの発見を叶えるのは”彼女たち”の物語だけだと覚らされる。儚さ、つまり喪失を描く行為のみが成長共有の成立にタッチする、という現実にファンは直面させられるのである。

”耽溺”という見世物小屋、虚実の道のり、未曾有、根底とよばれるモノすべてを覆してしまうような資質。ファンの通俗的な欲と呼ばれるもの全てを吸い込む筐体として屹立するアイドル。皮肉な逆転現象と云えるかもしれないが、日常ではなく、喜劇の一場面で溢す彼女の受動的な立ち居振る舞い、仕草には自身とファンの情動を本当の意味で引き起こす格別なユーモアを感じる。中元日芽香が観せたようなアイデンティティの否定と犠牲、塗り替えが巻き起こるが、しかしそれが茶番に映ってしまう”憂愁”がある。アイドル・久保史緒里にっとての希望や新境地への活路は、そのような場面の中に巡っているのではないか、とおもう。

しかしながら、かように”天才アイドル”を作りあげるファンの声量、ギニョールはアイドルの自己超克を妨げ、ともすればグループ全体の衰退につながる一つの前兆ではないか、という感慨さえある。

イメージが先行すること自体は、悪いことではない。
悪いのは、具体的なことは何一つともわなず、イメージのみが独り歩きする場合である。

塩野七生「ローマ人の物語」

 

総合評価 75点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 14点 ライブ表現 17点

演劇表現 14点 バラエティ 15点

情動感染 15点

乃木坂46 活動期間 2016年~

評価更新履歴
2019/05/12  ライブ表現 14→17

評価点数の見方

乃木坂46