乃木坂46 久保史緒里 評価

乃木坂46

久保史緒里 (C) 『週刊少年マガジン』49号/講談社

「耽溺」

久保史緒里、平成13年生、乃木坂46の第三期生。
アイドルとしての実力、とくに透徹した歌声の所持、モノローグのフィクション化と乱舞、悲劇と喜劇を同時に手繰り寄せる境遇への握力からグループの通史を書くにあたり、間違いなくキーキャラクターと呼べる存在である。歴史学者的な視点と熱量で乃木坂46の群像劇を俯瞰する、豊穣な登場人物たちと同時代を生きる物語の語り部的な役割も担いつつあり、きわめて独特な魅力を発散している。いわゆる”物語性”を著しく欠如する第三期生のなかにあって、内省に富んだ自己否定によって描かれるアイドルの自意識、その有り様は自我の濫費を抽出し、すでに豊穣な物語の獲得に成功している。唯一、生田絵梨花の達成に届き得るアイドルではないか、憧憬を抱かせる。しかし、今日、久保史緒里を取り巻き、独り歩きする、同時代のアイドルたちを圧倒し打ちのめす”本格”への評価と過褒、つまり”天才”という呼称とアイドル本人の抱える資質がこれ程までに乖離し、憂鬱を抱える人物は外にいないのではないか。もちろん、この大仰な呼称は久保史緒里本人の虚飾が作り上げた幻想ではない。彼女を耽溺する人間の所業である。

恋愛というものは、個人の主体性を越えて運動する、計算外のことが次々と起きる、賢明さを越えたところにしか現れないものです。だからこそ面白いものであり厄介なのです。自分とはこういうものだと思っていた枠からはみ出てくるものがある。それも多くは、嫉妬といった見たくない、認めたくないといった愚劣な部分が出てくるのではないでしょうか。

福田和也「福田和也の文章教室」

恋愛における「嫉妬」の厄介さとは、衝動的に出現する「愚劣な部分」、それが自己の内に芽生えた妬みが原動力である事実を受け入れるのがむずかしい点だろうか。目の前に立ち現れる、愚行をくり返す醜い自分、それが生来の、本当の自分にみえてしまう、だからなおさら受け入れることができない。当然、アイドルとの仮想恋愛においても嫉妬は生じる。仮想恋愛がアイドルの存在理由に設定されること自体は、現代のアイドルシーンのなかにあって特別な現象とは云えない。耽溺をメインコンテンツと定められたアイドルが「個人の主体性を越えて運動する」ファンの妄執に囲繞される、これは当然の成り行きである。ファンは”彼女”の物語を読み、”彼女”に恋をし、空扉を開き架空の世界の住人となる。彼らは妄想の翼を広げ、現実世界では遭遇しなかった願望、「愚劣な部分」を表出させる。しかし、久保史緒里の場合、彼女のファンが滲み出す願望とは、多くのアイドルファンが少女たちに向ける、”彼女はこうであってほしい”、”こうあるべきだ”という主人公の抱える不完全さ故の希求=欲、そこに芽生える身勝手な期待が裏切られた際の妬み、口撃とは異なる。久保の物語を読むファンは、”彼女は、こうだ”という既成、義務的で瑕疵のない偶像を置くからだ。因って久保は、アイドルとファンの成長共有、その要件を満たさない。いや、満たせない。ファンにとって久保史緒里とは、その姿形が画面に映し出された瞬間から努力やポテンシャルという範囲の余白部分を埋め尽くした天才であるのだから。そして、完結した筐体を前に”彼ら”は悶え苦しむのだ。この悶えは鈴木絢音的な処女性の尊重、”かけることのできる徴”ではなく、深川麻衣的なアモールと呼べるだろうか。興味深いのは、ファンは自身の抱える拙く邪な感情や悔悟、日常の不安や不幸を払拭するために用意した”主人公”を『久保史緒里』という虚構の中から、架空の世界で暮らす久保史緒里にではなく虚構の外側に立つ”現実世界”の久保史緒里に投射する点にある。久保史緒里がどれだけ真剣に演技をしても、フィクションを作っても、ファンが眺め、批評対象とするのは彼女の演じる役ではなく、あくまでも久保史緒里本人なのだ。だから、フィクションと現実が混ざり合う。イメイジと実像の乖離したアイドルがステージ上でライトに照らされ、浮かびあがる。天才が堆く積み上げられていく。なによりもおもしろく、やっかいなことは、彼女に耽溺を向けるのは、ファンだけにとどまらず、作り手、同業者、そして親近者までもそこに含まれるという点である。彼女は格好の投射素材なのだろう。”アイドルに憧れてしまった”天才少女という物語から生まれる乖離は、彼女がグループアイドルとして呼吸している、ただそれだけの事実が奇跡との遭遇を叶えてくれる。久保史緒里とは、収斂の訪れを告げつつあるシーンを彷徨い歩くファンが(あるいは作り手や同業者が)やっと発見できた”逸材”なのだ。自己主張しない垂れ目、溌剌する清楚、フラジャイルな日常の仕草など、彼女のビジュアルが投影への入り口として機能しているのかもしれない。この受動的な求心力を特別な資質による発揮と評価するならば、自身を”天才”と他者に妄執させる天与の才を持つ者、つまり天才と呼べる訳だから、久保はパラドクスなアイドルと云えるかもしれない。

久保史緒里の演劇について。
彼女に対する批評(フィクション)を作るとき、やはり、彼女を囲繞する過褒、耽溺と対峙する姿勢を貫かなければならない必要に迫られる。久保史緒里の演じる”アイドルを端的に言い表すならば、”何でも出来るけど、何も出来ない”物語と云えるだろう。例えば、久保の同期でもある乃木坂46の第三期生、大園桃子の吐き出す物語のタイトルと並べたとき、久保の虚構には不安定な官能性こそ内在するものの、大園の観者の心を握り潰すような迫力や儚さなど、アンダーグラウンドを虜にする異物感の伏在を読むことは叶わない。映像作品や舞台の上で見せる久保史緒里の演技は、バランス感覚の良い仕草を残すが、伊藤純奈や秋元才加と同じく日常の不在を提示している。あるいは日常を自壊している。彼女たちがどれだけ虚構のなかで咆哮しても、それは闖入者の存在に怯える飼犬の威嚇にしか見えない。一方で、大園桃子の”嗤い”は、その視線のさきに何が映っているのか、想像もつかない、底気味悪さを”神秘”へと変質する古典がある。両者の隔たりを端的に表現するのならば、大園桃子が非日常の境域で日常を溢し現実世界では伝えられなかった素顔を提出しているのに対し、久保史緒里は仮構という非日常のなかで”非日常”を演じてしまっているのだ。例えば、『劇団桟敷童子』の東憲司の作り出す仮構のように時代の距離感を無視したエンターテイメント的な優等生感の押し付け。観者にスリルや感涙を与える快適な刺激。この”刺激”への依存が今日の久保史緒里を囲繞する異常な賛辞を生みだしているのかもしれない。快適な刺激を与えられた人間は情動を引き起こし冷静な判断を下せなくなるものだ。
我々がほんとうに観たいものとは、非日常のなかで演じられる”日常”である。仮構のなかでアイドルが自身の日常を千切り取って捨てて行く光景は、救いがなく正視するに耐えないひどく不快な物語になる。しかし、同時にアイドルが身を置く世界の残酷さや、煌やかさを描くことができるのは、アナザーストーリーの発見を叶えるのは”彼女たち”の物語だけだと覚らされる。儚さ、つまり喪失を描く行為のみが、グループアイドルとの成長共有の成立にタッチする、という現実にファンは直面させられるのである。

”耽溺”という見世物小屋、虚実の道のり、未曾有、根底とよばれるモノすべてを覆してしまうような資質。ファンの通俗的な欲と呼ばれるもの全てを吸い込む筐体として屹立するアイドル。皮肉な逆転現象と云えるかもしれないが、日常ではなく、喜劇の一場面で溢す彼女の受動的な立ち居振る舞い、仕草には自身とファンの情動を本当の意味で引き起こす格別なユーモアを感じる。中元日芽香が観せたようなアイデンティティの否定と犠牲、塗り替えが巻き起こる、しかしそれを茶番に映してしまう”憂愁”がある。アイドル・久保史緒里にっとての希望や新境地への活路は、そのような場面の中に巡っているのではないか、とおもう。

しかしながら、かように”天才アイドル”を作りあげるファンの声量、ギニョールはアイドルの自己超克を妨げ、ともすればグループ全体の衰退につながる一つの前兆ではないか、という感慨さえある。

イメージが先行すること自体は、悪いことではない。
悪いのは、具体的なことは何一つともわなず、イメージのみが独り歩きする場合である。

塩野七生「ローマ人の物語」

 

総合評価 78点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 17点

演劇表現 16点 バラエティ 15点

情動感染 15点

乃木坂46 活動期間 2016年~

評価更新履歴
2019/05/12  ライブ表現 14→17

 

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