欅坂46 平手友梨奈 評判記

「自我の喪失を描く」
平手友梨奈、平成13年生、欅坂46のオープニングメンバーであり、初代センター。
最も嘱望されるアイドル。『サイレントマジョリティー』発表後、常に話題の中心に置かれ、自我を獲得するまえに自我を喪失するという、パラドクスに満ちた、アイロニックによった偶像を編み大衆を虜にしている。シングル表題曲のセンターポジションにデビューから8作品連続で君臨する、これはAKB48から連なるグループアイドルの歴史において前人未到の快挙であり、きわめて突出した境遇の持ち主、時代の寵児と呼ぶべきだろう。
何者でもありえない、という、アイドルを通し日々育まれたであろうその佇まいには、すでに冠絶した孤独感が宿っており、平手友梨奈を継承するグループアイドルがシーンに登場することの予感、欅坂46が彼女以外の何者かの手によって伸展を果たすことへの想像、いずれも困難を極めている。
彼女は、作り手に純文学的な”役”を要求されたのならばそれに従うし、エンターテインメントを要求されたのならばそれを難なく演じるが、結局、どちらの境域に立とうとも、どちらからも逸れてしまう。この、アンビバレントを抱えふらふらと歩く平手友梨奈の存在感とは、まさしく、アイドルに憧れる少女を、あるいはアイドルにほとんど関心を持たない人間をアイドルシーンに引きずり込むカリスマにほかならず、平手によって表現された、夢見る少女の「屈託」と「不適切な行動」つまりひとりよがりな自己劇化を眺めた観客がこぼすため息、賛辞と揶揄には、今日のアイドルシーンが抱える病弊=クリティックが絡まっており、それは彼女がグループアイドルではなく、”グループから切り放された”アイドルであることの証明になっている。*1
枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないのである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。…またある者は、何らかの思想をそのまま鵜のみにするか、それとも手当たりしだいに本の一ページをちょっとのぞいてみさえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生まれたものだと、わけもなく信じこんでしまうのである。…この無邪気な厚かましさ、この自己とその才能を信じて疑わない愚かな人間の信念は、ゴーゴリによってピロゴフ中尉という驚嘆すべき典型のなかにみごとに描きだされている。ピロゴフは自分は天才である、いや、あらゆる天才の上に立っているということを、一度として疑ったことはないのである。
ドストエフスキー/白痴
「平手友梨奈」を囲繞する声量。大衆がアイドルを揶揄し、茶化した結果として、彼らの眼前に立ち現れるのは、この「ピロゴフ中尉」に外ならない。
純文学とエンターテイメントの境界線が曖昧になった昨今の文壇における倒錯と、現在のアイドル界あるいは現代でアイドルを演じる少女の抱える苦悩は似ている。純文学作家がエンターテインメント作家の領分で呼吸しようと試み、その純文学作家が本来作らなければならない構えをエンターテインメント作家が示しはじめたのとおなじように、アイドルもまた、エンターテインメント性=大衆向けの商品としての価値の追究と、純文学性(芸術性)、すなわち自己の可能性を探る姿勢、この両極を行き交いせざるを得ない情況に追い込まれている。その両極、つまりアンビバレントの中心線の上で踊るのが平手友梨奈、彼女であり、提示された架空の登場人物の物語の続きを、現実の世界において語らうその少女の横顔を目の当たりにした大人たちは、たじろがざるをえない。深刻な、底しれぬ不気味さをそこに見、動揺し、やがて興奮するわけである。この”平手友梨奈”の名を掲げることで、辛うじて、アイドルシーンはそのレーゾン・デートルを保とうと試みているのだ。だが、この、アイドルを囲繞する過剰な憧憬は、次第に少女から現実的な感覚をもぎ取ってしまう。妄想の翼が大きく羽ばたき、少女は詩的世界へとより没入して行く。
欅坂46・平手友梨奈と作詞家・秋元康、この構図にみる特質さとは、それは、作詞家が記した歌詞の詩的責任を、作詞家が負うのではなくアイドルが負う点にある。作詞家から差し出された詩情をまえに、彼女は、当たり前の日常を見失い、自身の歩む道に、自ら”歪曲”を選択するのだ。アイデンティティを獲得する前段階にあった少女は、”アイドル”を演る時間の流れのなかで、現実世界に生きる自分と楽曲に書かれた登場人物を完全に融和してしまったようだ。だから詩の上を歩く主人公が叫ぶなら、彼女も叫ぶし、孤独を抱きしめ、廃墟になったビルの屋上でもだえ苦しむのなら、彼女もそうする。大衆が賛辞する、あるいは揶揄する平手友梨奈の性格は、ほとんどの場合、詩的世界に置かれた主人公の姿形そのものであり、彼らは無意識の内にアイドルを、平手友梨奈を、彼女が演じる役と重ねあわせ、同一視してしまっている。この無意識の表出こそ、彼女が詩的世界に没入することの”しるし”である。つまり、あたらしく楽曲に書かれる主人公の姿形に少女がつよいオブセッションを抱え、一切の妥協を許さず、深刻な批評を向けざるを得ない状況に追い込まれたのは当然の成り行きと云えるだろうし、作詞家の代弁者として演じ作ってきたフィクションが、そのまま次の新しいフィクションとして作詞家から差し出された際にいだく、彼女の内奥の慟哭には計り知れないものがある。彼女にとって楽曲の世界に提示される主人公とは、自分の分身(影)などではなく、まぎれもなく生身の自分になってしまったのだから。
そして平手友梨奈は、こうした鑑賞者の危惧を、退屈な想像力によって作られた常識を毀損するかのように、自身を虚構の中に創り上げたアイドルに投射し、そこに立ち現れた”架空の登場人物”を確立させようと、あるいは自我そのものを不成立にしてしまおうと企み、抗っているのである。皮肉にも、周囲にとっては、その果てしもない空虚の底に落ち込んだようなもだえが神秘となって映しだされる。しかし、大衆とは神秘という奇跡に対し、身勝手に身をゆだねた光りに対し不要な猜疑心を抱くのが常である。そこに芽生えた疑念が「平手友梨奈」を「ピロゴフ中尉」へと塗りかえる動機なのかもしれない。だが、むしろ、私は平手友梨奈に神秘を感じたことは一度もない。彼女からにじみ出るのは、リアリティーを孕んだ逼迫性である。
『貧しき人々』を発表したドストエフスキーは時代の寵児として文壇デビューを果たす。彼は、「生活に行きづまり、自殺を思いながら書いた処女作で、一躍文壇の寵児となった。だが常に自分が話題の中心でなければ満足せず、賛辞に飢え、自らの才能を誇り、自意識過剰で、会話も立ち居振る舞いも不細工だったために、ペテルブルクの知的サークルの笑い者、嫌われ者になった。微温的な革命グループと交際をし、そのために警察に逮捕され、死刑判決を受け処刑台に立たされた。」銃殺刑である。彼は練兵場で待機列に並ばされるが、刑の執行直前に、一人の使者の登場によって銃殺を免れる。刑の執行まで残り数分であったという。*2
文学史に名を刻む資質をもった作家がこのような個人的体験に遭遇した意味は、計り知れない。この経験は、彼の作品に色濃く反映される。『白痴』においては、その情景がきわめてリアルに描写されている。「『もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だってむだに費やしやしないだろうに!』」。平手友梨奈も”彼”と同じような個人的体験に遭遇している。いや、遭遇してしまった。ドストエフスキーの境遇を彼女の体験に引用するのはあまりにも大仰で安易だが、しかしこの個人的体験により、アイドルが、傘もささずに雨空を見上げるような本物の無垢を手に入れたのはまず間違いないだろう。自意識に束縛された自由の獲得によって、彼女が提示する”平手友梨奈”の立ち居振る舞いや仕草、つまり表現力が他のアイドルの追随を許さない領域に到達したことは、やはり、アイロニー(宿命)と云うべきだろうか。そして、そのアイロニーは、思考の経験を与えるフィクティブな批評を作らせる原動力にもなっている。*3
自意識ばかりが鋭敏になり、自分が何者なのか、何が欲しいのか、何をやるべきなのか一切分からず、自分を持て余しながら、どうしようもない衝動だけはふんだんに抱えている厄介者たちの、無益だが深刻な苦闘の劇…彼らの屈託を、不適切な行動を、笑えばいいのだ。それは、あなた方の姿そのものなのだから。
福田和也/ろくでなしの歌「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」
総合評価 83点
現代のアイドルを象徴する人物
(評価内訳)
ビジュアル 16点 ライブ表現 20点
演劇表現 17点 バラエティ 13点
情動感染 17点
欅坂46 活動期間 2015年~2020年
引用:*1 *2 福田和也/ろくでなしの歌
*3 ドストエフスキー/白痴