平手友梨奈 × 秋元康

欅坂46, 特集

平手友梨奈(C)欅坂46

「自我の喪失を描く」

枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないのである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。…またある者は、何らかの思想をそのまま鵜のみにするか、それとも手当たりしだいに本の一ページをちょっとのぞいてみさえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生まれたものだと、わけもなく信じこんでしまうのである。…この無邪気な厚かましさ、この自己とその才能を信じて疑わない愚かな人間の信念は、ゴーゴリによってピロゴフ中尉という驚嘆すべき典型のなかにみごとに描きだされている。ピロゴフは自分は天才である、いや、あらゆる天才の上に立っているということを、一度として疑ったことはないのである。

ドストエフスキー/白痴

平手友梨奈というアイドルが大衆に茶化され、称賛され、また揶揄されるとき、その大衆の眼に映し出され、かれら彼女らを衝き動かすものこそ、この「ピロゴフ中尉」の横顔にほかならない。
純文学とエンターテイメントの境界線が曖昧になった昨今の文壇における倒錯と、現在のアイドルシーンあるいは現代でアイドルを演じる少女の抱える苦悩はよく似ている。純文学作家がエンターテインメント作家の領分で呼吸しようと試み、その純文学作家が本来作らなければならない構えをエンターテインメント作家が示し始めたのとおなじように、アイドルもまた、エンタメ性=大衆向けの商品としての価値の追究と、純文学性すなわち自己の可能性を探るという芸術性の両極を行き交いせざるを得ない情況に追い込まれている。
この両極、つまりアンビバレントの中心線の上で踊るが平手友梨奈である。ゆえに、蹌蹌踉踉(そうそうろうろう)とアイドルを演じるその少女を前にして、大衆はため息を隠せないし、自己劇化の末に現実とフィクションのあいだを歩こうとするその純粋さ、自ら矛盾に引き裂かれようとするその行動力を目の当たりにした作り手、同業者たちは、天才の出現、という奇跡を前に、興奮を抑えきれなくなる。その影響力はアイドルに憧れる多くの少女にとっても、いや、これまでアイドルにほとんど関心を示さなかった多くの夢見る少女にとっても変わらない。アンビバレントを抱え込み、ふらふらと歩き不敵に笑う平手友梨奈こそまさしく夢見る少女たちにとってのカリスマにほかならず、その横顔に感化され、アイドルの扉をひらいた少女は数知れない。
もちろん、平手友梨奈という存在を前に、ほかの誰よりも興奮し、刺激を受けた人間を挙げるならば、それはまず間違いなく、作詞家でありながらアイドルのプロデューサーとしても働く、アイドルを自身の詩情のなかで物語る、アイドルに命を吹き込む、秋元康その人だろう。

自由になると云っても、制度とか法律とか、権力から解放されるということではない。もちろんそういう自由も大事だけれど、もっともっと根本的な、絶え間なく、僕たちを捉えこんでいる何物か、つまり僕たちが、別に選んだ訳でもないのにこの世界に投げだされ、名前と体と顔貌を与えられ、生きていかなければならないということ自体からの自由、解放。もちろんそんな自由が実現する訳がない。訳がないからこそ、僕たちは、身もだえをし、苦闘をする。そして、この足掻きは、縛しめを何とか振り解こうとする絶望的なもだえは、僕たちが響かせる最初の歌なのだ。

福田和也/ろくでなしの歌「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」

欅坂46・平手友梨奈と作詞家・秋元康、この構図にみる特質さとは、作詞家が記した歌詞の詩的責任を、作詞家自身が背負うのではなく、それを演じるアイドルが負う点にある。
たとえば『サイレントマジョリティー』に触れたなら、大人への反抗を歌ったその詩を前に、彼女はそのとおり、曲がりくねった道を選び、自由を、夢を得るために、歩みはじめる。詩の上を歩く主人公が叫ぶなら、彼女も同じように叫ぶし、孤独を抱きしめ、廃墟になったビルの屋上でもだえ苦しむのなら、彼女もそうすることになる。10月の青空の下、冷たくなったプールが目の前に広がるのならば、躊躇なくそこに飛び込む。現実世界に生きる自分と、楽曲に書かれた登場人物を完全に一致させること、融和させることが、アイドルのアイデンティティの成立・確立を意味するのだ、とでも言うように。
ゆえに大衆が賛辞する、あるいは揶揄する平手友梨奈とは、ほとんどの場合、秋元康によって記された詩的世界の主人公の姿形そのものであり、大衆は無意識の内にアイドルを、平手友梨奈を、彼女が演じる役と重ねあわせ、同一視し、語る羽目に陥る。ここに平手友梨奈の才能、言わば、特質、がある。一つは、その「無意識」の表出が、彼女が詩的世界に没入することを証し立てる点。一つは、アイドルの作品化、つまり芸術化。自分ではない何者かを演じる彼女に対しなにがしかの感情を抱いてしまうならば、それは芸術作品に触れ、感化されたからだ、と云うしかない。その特質から、作り手やファンの妄想になりきる西野七瀬の横顔と通い合うものがあるが、西野が作り手からアイドルとしての儚さへの希求を贈られるのに対し、平手に贈られるのは、一貫して、大人への反抗、つまり、大衆と対峙することで夢を叶えるという幼稚な歌、である点は看過できない。
あたらしく楽曲に書かれる主人公の姿形に少女がつよいオブセッションを抱き、一切の妥協を許さず、深刻な批評を向けざるを得ない状況に追い込まれたのは当然の成り行きと云えるのだろうし、なによりも、作詞家・秋元康の代弁者として、どれだけフィクションを演じ作っても、どれだけ自己の成長を確信しても、次に作詞家から差し出されるフィクションはあいも変わらず、大人への反抗、であるというその無頓着さに向ける辟易、慟哭は計り知れないものである。もはや彼女にとって、楽曲の世界に提示される主人公とは、自分とはまったくの別人であり、また自分自身であり、しかしその自分は受け入れることのできない自分であるからだ。

自意識ばかりが鋭敏になり、自分が何者なのか、何が欲しいのか、何をやるべきなのか一切分からず、自分を持て余しながら、どうしようもない衝動だけはふんだんに抱えている厄介者たちの、無益だが深刻な苦闘の劇…彼らの屈託を、不適切な行動を、笑えばいいのだ。それは、あなた方の姿そのものなのだから。

福田和也/ろくでなしの歌「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」

平手が一貫して壮絶であり得るのは、アイドルへの投影の末に現れるファンの危惧を、彼女にとって退屈な想像力の産物でしかないアイドルへの感慨を、あざ笑うかのごとく、自分が、アイドルが、何者でもありえないことを、ステージの上で、カメラの前で表現しつづけるからである。皮肉にも、周囲にとっては、その果てしもない空虚の底に落ち込んだようなもだえが神秘となって映しだされる。しかし大衆とは、神秘という現象に対し、自らがつくり上げたその光りに対し不要な猜疑心を抱く、身勝手な生き物である。その矛盾した疑念の内に「平手友梨奈」を「ピロゴフ中尉」へと取り替える真の動機があるのかもしれない。だが、むしろ私は平手友梨奈に神秘を感じたことは一度もない。彼女からにじみ出ているのは、他のアイドルたちと、いや、一般生活者となんら変わらない、本当の夢を探そうとする、ほんとうの自分とは何なのか、もだえる、屈託であり、ただその屈託が、その屈託の握りしめ方が他の多くの人間とは異なる様相を呈する、というだけの話である。

『貧しき人々』を発表したドストエフスキーは時代の寵児として文壇デビューを果たす。彼は、「生活に行きづまり、自殺を思いながら書いた処女作で、一躍文壇の寵児となった。だが常に自分が話題の中心でなければ満足せず、賛辞に飢え、自らの才能を誇り、自意識過剰で、会話も立ち居振る舞いも不細工だったために、ペテルブルクの知的サークルの笑い者、嫌われ者になった。微温的な革命グループと交際をし、そのために警察に逮捕され、死刑判決を受け処刑台に立たされた。」銃殺刑である。彼は練兵場で待機列に並ばされるが、刑の執行直前に、一人の使者の登場によって銃殺を免れる。刑の執行まで残り数分であったという。*1
文学史に名を刻む資質をもった作家がこのような個人的体験に遭遇した意味は、計り知れない。この経験は、彼の作品に色濃く反映される。『白痴』においては、その情景がきわめてリアルに描写されている。「『もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何ひとつ失わないようにする。いや、どんな物だってむだに費やしやしないだろうに!』」。平手友梨奈も”彼”と同じような個人的体験に遭遇している。いや、遭遇してしまった。自己の死の可能性を、目の当たりにしてしまった。
ドストエフスキーの境遇を彼女の体験に引用するのはあまりにも大仰で、あまりにも安易だが、しかしその個人的体験により、アイドルが、少女が、傘もささずに雨空を見上げるような本物の無垢を手に入れたことはまず間違いない。自意識に束縛された自由の獲得、という皮肉に鎖されたことは、否定しようがない。ゆえに平手友梨奈の表現力が他のアイドルの追随を許さない領域に達したこともまた、退けることのできない帰結と云えるだろう。なによりも、そのアイロニーに満ちた表現、踊り、横顔が、鑑賞者に思考の経験を与える、フィクティブな音楽、批評を作らせる原動力となっている点に平手友梨奈の本領がある。*2


引用:*1 福田和也/ろくでなしの歌

*2 ドストエフスキー/白痴
2023/06/11  本文を編集しました(初出 2019/07/18)