STU48 小島愛子 評判記
「日常のひかり」
小島愛子、平成9年生、STU48の第二期生。
はじめてファンの前に姿を現したとき、すでに21歳、大人だった。尾崎世里花と並び、2期生のなかでは最年長者となる。1期では、グループのエースでもある瀧野由美子と同年輩。当然、アイドルを青春そのものと扱う少女たちと一線を引いた立場を取る登場人物となる。小島の特徴は、同カテゴリーに分類されるアイドルとはまた別の場所に立ち、大人になってしまった人間がアイドルになることでもう一度青春の書をめくる、という、青春の延伸の道から外れる、青春を謳歌した者の先に待つ日常をアイドルとしての日常として描き出す、ある種の未来への憧憬としての日常の香気にある。その佇まい、雰囲気は比べるものがない。
公開オーディション当時、ファンの視線を最も集めたのがこの小島愛子であり、鳴り物入りでSTUの門をくぐった。しかし蓋を開けてみれば、立仙百佳、原田清花等の存在感に圧されてしまったのか、成果は今ひとつ。だが『暗闇』から続いたひとつの物語の集大成を描いた『ヘタレたちよ』を機に、ようやくその才能が花開き、表題作の歌唱メンバーに実質初めて選抜された。今、大きく飛翔を描きつつある。
この人にまず見出す魅力は、アイドルという幻想の生活を手に入れた人間をその歓喜の内に不意におそう、自らの意思、行動選択にかかわらず身勝手にこれまでの自分とはまったく別の「自分」が作られていく、アイドルという存在の特権かつ宿命に対する「情動」と云えるだろうか。
青春の消化をある程度終えた段階でアイドル業に就く女性のおもしろさとは、やはり、意識的にしろ無意識的にしろ、自分とはこういうものだとする、漠然とつかみつつあったアイデンティティへの感覚が、いちど薄れる、あるいは消失しつつあるなかで、眼前には今までの自分とはまったく別の自分が作られていくことの不思議さと奇妙さ、その実感であり、小島愛子はその「実感」をファンの前で仔細に大胆に描いてしまう。
この人は、ある日突然アイドルになった人間が、その世界の不気味さ、常識の不通用、ある種の幼児さ幼稚さを目の当たりにし、しかしそれを受け止めなければならないという不条理に対する疑問と理解を、しっかりと言葉にできる。たとえば、アイドルとは無条件に称賛されるべき存在だと唱える同業者、また多くのファンによる無垢なチャントに対し、アイドルを演じる当事者でありながらそこに疑問を向け考える姿勢を、当たり前のように作る。賢明な、勇敢な人、という印象を受ける。歌唱力の高さに引かれ見落とされがちだが、ダンスも文句なしに踊れる。センターポジションに対する憧憬もしっかりと語っている。この点も頼もしく思う。
この人を眺めていると、やさしい気持ちになれる。実りある時間を過ごせる。それはなぜだろうか。たとえばそれは、耽溺し盲目になる、という意味ではないようだ。それはおそらく、小島愛子が描くアイドルとしての日常風景が、嘘偽りのない、誤魔化しのない現実の厚みをもった日常の光景に感じられるからだろう。その「日常」は、私たちが日々の暮らしのなかで、現実感覚のなかで抱く憧れ、遠い未来としての、ありふれた、しかしほとんどの人間が手に入れることのできない”ひかり”である。
髪を結んだ恋人がキッチンに立ち、歌を口ずさみながら料理をしたり食器を洗ったりする、その当たり前の日常風景こそ今日ではけして完成しない日常、つまりフィクションであり、小島はその日常のひかりを違和感なく描き出す。ゆえにファンは彼女のとりこになる。
アイドルを演じる少女からすれば、ファンに向け、空想や幻想に支えられた非日常の誘惑を、つまり夢への活力を笑顔をもってあたえることこそがアイドルの使命だと決意するに違いない。けれど、ファンがアイドルを通し非日常の幻想を求める動機の多くは、ファンの人生のなかにある幻想=夢の部分に向けた活力ではなく、自身の日常をより幸福なものにしたいから、ではないか。自分の人生をより豊かにするための、実りあるものにするための、その些細な手段としてファンは「アイドル」の物語を読みはじめるのではないか。小島愛子がおもしろいのは、この、ファンにとっての幸福な日常を、その未来の匂いを細やかにアイドル自身が提示する点である。
ファンが恋い焦がれる未来=自身の人生の物語のつづきとして期待しているもの、を小島は画面に映し出す。小島の魅力とは、日常から遠く離れた世界つまり幻想を映し出しそこに漂っているあいだは退屈な現実を忘れることができる、といったありふれたフィクションの提供ではなく、アイドル=フィクションを作ることでファン自身の現実生活の先にあるかもしれない幸福な日常風景を差し出す点にある。仮想に独特のリアリティがある、ということだから、これはもう非凡と云うしかない。
もちろん、こうした感慨は、スマートフォンカメラによって撮された仮想空間を眺めた際の思惟に過ぎず、つまりはアイドルによる、アイドルを演じる自身の濃やかな日常の再現、そのような試みが実行されていると捉えるしかない。よって、彼女を眺める人間は、この日常感は一体何なのだろうか、困惑し、より彼女の物語に没入する羽目になる。換言すれば、アイドルというフィクションが、現実と同等かあるいは現実よりも現実的に見えはじめ、ファンの心に溶かし込まれる……。
特筆すべきは、ファンが目撃し心を揺さぶられる小島愛子の日常風景、モデレートに編みあげられまとめあげられた日常こそ、おそらく、非日常を生きるアイドルがもっとも欲する暮らし、しあわせであるという点だろう。ファンの側から見れば、アイドルを演じる人間が最終的に求めるであろうほんとうの夢がすでにそこにあり、もうアイドル自身がつかんでいるように見えるのに、しかしそれはアイドルを演じる小島があくまでも「アイドル」として語ったもの、演劇の一部にすぎないのであり、つまりアイドルを演じ幻想に生きているつもりの小島にとっては、その日常風景はある意味で自己と最も隔てられたものである、という倒錯が立ち現れる。
シーンの消長を問う上で、小島愛子のこの横顔は画期的に見える。
アイドルを鏡にしたファンが、現実における自身の夢、銭金を稼ぎたいとか有名になりたいとか、そういった短い距離感における話柄ではなく、より本質的な夢、日常における最終到達点のようなものを抉り出さられる、という意味においては、AKBグループひいては坂道シリーズの通史のなかにあって、アイドルが間断なく誕生し、また矢継ぎ早に卒業していく現在のシーンにあって、ありそうで実はなかったアイドルの物語、アイドルの有り様であり、暗闇に覆われた部分を貫く光を目撃する。こういうアイドルが出てくるうちはまだまだアイドルシーンも大丈夫だな、という心地に小島は浸らせてくれる。
総合評価 64点
アイドルとして活力を与える人物
(評価内訳)
ビジュアル 11点 ライブ表現 14点
演劇表現 11点 バラエティ 13点
情動感染 15点
STU48 活動期間 2019年~
2023/03/09 再評価、加筆しました