乃木坂46 深川麻衣 評価

深川麻衣 (C)何度も諦めようと思ったけど、やっぱり好きなんだ/カフカ

「アモール」

恋とはプラトニックなつながりだけで自己完結をして行くものではないが、現代アイドルの存在理由の大部分を占める「仮想恋愛」という空間においては、そのかたちは変わる。仮想恋愛を演じる際は、プラトニックを描くことが暗黙であり、常識的な理想とされる。では、現代アイドルたちとファンの仮想恋愛がプラトニックな関係として機能しているのか?と問うならば、残念ながら、ファンと穢れのない恋愛を、物語を書いているアイドルは探してもなかなか見つからない。アイドルを演じる少女と読者の距離感は想像力とバランス感覚の欠如によって「イノセント」を描いている。現代では、ファンから発せられる「声」に対してアイドルが真正面から反論できる。ファンはアイドルと当たり前のように痴話喧嘩ができる。牙さえ向けるのは、情報の雨に曝される現代人にとって当然の成り行きと云えるかもしれない。彼女ら、彼らがみせる仮想恋愛の多くは幼稚で未熟な精神交流であり、プラトニックではなく、やはり、イノセントと表現したほうがおさまりが良い。

恋はラテン語ではアモールという。そこで恋からモール(死)が生まれる。そして、その前には心のもだえ、深い憂い、涙、わな、大それた罪、悔恨。

スタンダール「赤と黒」

2016年にアイドルを「卒業」した深川麻衣。平成と令和の境界線を踏み越えたアイドルたちと同世代人だが、彼女の作り上げた仮想空間ならばプラトニックと呼べるだろう。彼女との「仮想恋愛」は、アモールという言葉に含まれる要素を、ほぼすべて満たしていた、と想う。虚構、フィクション、架空の世界。深川麻衣が作りあげた「完全」な虚構。夜行バスが目的の駅に到着し、窓の外、コンクリートの上に朝の新しい光が行き場もなく留まっているのを眺める時のような空間。その空間=あたらしい世界はどのように作られたのか。

私は、文章のカギは「虚構(うそ)のつき方」にあると思っています。(略)人にものごとを、ひいては真実を伝えたいと思えば、そこにはどうしても嘘=虚構を混じらざるをえません。(略)あるところを強調したり、あるところを省いたり、稚拙な写真より、うまい似顔絵のほうが、より真実に近い形で描かれた人物を端的に表せることにそれは似ています。ここでの嘘とは、いうまでもなく道徳的に責められるべき嘘、人をあざむき、事実を自分の都合のいい方向にねじ曲げるための嘘ではありません。(略)かつて、戯作者近松門左衛門は「真実は虚実皮膜にあり」といいました。真実は、現実と虚構との微妙なはざまにあるということですが、「嘘」を通過しない限り「実」にはいけないという、物語を創るうえでの肝がこの言葉にあります。どんな真実も嘘=虚構の助けを借りなければ、真実として輝くことはありません。

福田和也「福田和也の文章教室」

物語を作るのは作家だけではない。文芸の世界に身を置くアイドルも同じである。彼女たちも、この隔絶された世界で輝くために虚構の助けが必要になるのだ。アイドルにとっての嘘とは、ここ(現実世界)とは別のもう一つの世界の創造である。彫刻家が彫刻をつくりあげるように、もう一つの「自分」をつくりあげる行為。そのもう一つの世界だけで完結するアイドルもいれば、架空の世界の中でファンと交流することによって、本来の自分(真実)の輝きを手に入れるアイドルもいる。あるいは、虚構(うそ)をつく行為自体を放棄してしまうアイドルも前者と同じ数だけ存在するだろう。

彼女たちは虚構と現実の狭間を行き来しながら、揺れ動きながら、アイドルを演じるのである。虚構と現実の交錯はアイドルにとってアイデンティティの確立過程でもある。深川麻衣は個性について「一番悩んだ時期」を、デビュー初期に出演した舞台公演「16人のプリンシパル」と述懐している。この科白から、彼女のアイデンティティの確立は同グループ内において、比較的早い段階で到達していたと判断できる。もう一つの世界、もう一人の自分の創造と維持はアイドルを卒業するその日まで(あるいは、卒業をした後でも)続けられたが、その着手は外のだれよりも早かったのではないか、とおもう。

現実と虚構が交錯する瞬間。彼女の虚像に対するイデオロギーの露呈。不安の表出。アイドルの成長共有というコンテンツの観点で、虚構(うそ)をつく行為への葛藤や苦悩が、デビュー初期の段階でしっかりと物語として書かれた事実は高い評価につながる。もちろん、それは福田和也が述べたように、ファンをあざむき、事実をねじ曲げる嘘ではない。深川麻衣の虚構(うそ)とは、真実を伝えようとする嘘というよりは、観るものに安心感を与える嘘であるとおもう。他人をあざむき、事実をねじ曲げる嘘ではなく、物語を創るための虚構(うそ)とは具体的にどのようなものか。

玄関を入ってすぐのところにカウンターがあり、そこに座っていた青年が荷物を預かってくれる。(略)彼は長い削りたての鉛筆を指のあいだにはさんだまま、僕の顔をひとしきり興味深そうに眺める。消しゴムのついた鉛筆だ。小柄な整った顔だちの青年だった。ハンサムというよりは、美しいと言ったほうが近いかもしれない。白いコットンのボタンダウンの長袖のシャツを着て、オリーブ・グリーンのチノパンツをはいている。どちらにもしわひとつない。髪の毛は長めで、うつむくと前髪が額に落ちて、それをときどき思いだしたように手ですくいあげる。シャツの袖が肘のところまで折られていて、ほっそりとした白い手首が見える。細くて繊細なフレームの眼鏡が顔のかたちによく似合っている。胸に「大島」と書かれた小さなプラスチックの札をつけている。

村上春樹「海辺のカフカ・上」

このような人物描写は目新しいものではない。純文学小説において、これまでも、これからも、あたりまえのように繰り返される光景。読者が改めて違和感を覚える文章ではない。しかし、これは文学でありながら「リアル」とは云えない。私たちが生活をする、こちら側の世界では、初対面の人間に出会った時、この『海辺のカフカ』の主人公のように対象を隅から隅まで仔細に眺め、それについて思弁をする猶予など与えられない。「リアル」では、私たちを取り巻く状況はつぎからつぎへとめまぐるしく変化し、新しい展開が作られる。小説というもうひとつの世界で当たり前のように繰り広げられている行為を真似ることは不可能である。しかし、小説の世界=虚構では、それが出来る。そして、それ(人物描写)は嘘ではなく事実の説明である。つまり、虚構では、現実世界では伝えられない真実を、ありのままに描写し伝えることができる、ということだ。これが虚構(うそ)をつく、という意味である。

では、深川麻衣の虚構(うそ)のつき方とはどのようなものであったか。それは、筆者に、正岡子規の「写実」を想起させる。ファンが自身に求めているであろう姿をイメージしたのではなく、ファンが創り出した「深川麻衣」を、ありのままに写生したのである。似顔絵を書くことが得意だと話す彼女の性質は、これに起因しているのかもしれない。子規は、目の前にある林檎をそのとおりに描写すれば、それが文学になると言った。目の前に置かれた林檎と同じ林檎は他に存在しない。色、きず、大きさ、匂い。対象をあるがままに描き出せば、もうそれは文学なのだと。実物ではなく、頭のなかにある、イメージした林檎を描いた場合はどうなるだろうか?それは大衆が考えるような、ありふれた林檎になるだろう。赤くて丸い、存在理由を持たない林檎。これはもちろん、アイドルの虚構創りにもあてはまる。

「アイドル」と「聖母」という倒錯、矛盾、対立。「聖母」という偶像になろうと試みる。この際限のない自己模倣は、自縄自縛とよばれる隘路への入り口にしか見えない。それでもファンが(あるいは川後陽菜が)深川麻衣の家郷的な優しさに触れたことによって創りあげてしまった「深川麻衣」を彼女はそのまま描写したのである。驚くほど素直に受け入れて写実した。自身によってイメージできる安易な聖母像ではなく、ファンが(川後陽菜が)創造する「深川麻衣」という女性の姿形を素直に受け入れて、ありのままに描写することによって、もう一人の自分、もう一つの世界を創り上げたのである。現代アイドルシーンにおいてワンアンドオンリーと呼べる資質である。

深川麻衣は常に「聖母」であろうとした。性格とは生活で変わるものである。そして、生活は性格(志)ひとつで様変わりするものである。

生活をとことん質素にした。客が来れば、「御馳走だ」と云って蕎麦を振舞う。軍務についている時には、兵隊と同じものを食べた。特別な食事が供されると、食べずに返した。田舎親父が、好意で用意してくれたものは、喜んで食べた。宿で、畳に直接軍服で寝た。煙草は一番安い「朝日」だった。自動車には乗らなかった。雨でも、馬にのった。傘をささずに、豪雨の下を歩いた。負傷兵に会うと、どんなところでも馬を下りて、「ご苦労だったなあ」とねぎらった。(略)乃木は次第に、一つの詩のようなものになった。美しいが、人工的で、非現実的なもの。しかし、彼は紛れもない、生身の人間だった。

福田和也「乃木希典」

乃木希典は武士であろうとした。聖人であろうとした。彼は武士の生まれではない。生まれながれの聖人ではない。生身の人間が聖人になろうとする姿は戯画で滑稽に映っただろう。しかし、彼は聖人を志した。常に聖人であろうとした。
スケールの違いこそあるが、深川麻衣も「聖母」でありつづけるために、アイドルとしての立ち居振る舞いを意識した。どんな場面でも機嫌の良さを失わなかった。グループにとっての「良心」であり続けた。最年少の後輩に逢えば必ず抱きしめて不安を取り除いた。自身がライバル(仲間)の誰かと止揚し、高みにのぼるのではなく、自分以外のほかのメンバー2人が止揚できるように導いた。それはキャラクターなどではなく、愛称と表現できるものになった。彼女も生身の人間であったが、卒業を発表し、その「時」が近づくに連れて、ファンにとって、仲間にとって、グループにとって、ひとつの詩のようなものになっていった。その詩はグループにとってのバイブルとして、求心力を発揮した。

ファンだけではなく、メンバーも彼女の「聖母」としてあろうと試みる姿勢に対し、それぞれが洞察し、答えを導き出した。ある者は、遠征先のホテルで、枕元の明かりを消し、目を閉じても、なかなか眠りにつけない彼女を想像した。自分が本当に正しいことをしているのか、胸をしめつけるような不安におそわれているのではないかと心配をしたかもしれない。現実と虚構の境界線がきわめて曖昧になったときに引き起こされる情動を彼女がどのように飼いならしたのか。虚構を創り上げるために求められる、孤立感をどのように丸め込んだのか。(橋本奈々未が顕著であったが)そのような洞察によって各人が深川麻衣というアイドルを、他人とは異なる視点から深く理解できていると自覚、錯覚をした。それぞれが、彼女の特別な理解者という立場をとった。彼女が「深川麻衣」というアイドルを、「聖母」を演じざるを得ない境遇に対し悔恨を抱きさえした。近しいメンバーですらこのような有様なのだから、ファンひとりひとりの想い、妄執はさらにおおきいのではないか。そして、この批評の囲繞こそ、「嘘」を通り抜けて「実」にたどり着こうとする瞬間なのである。もう一人の自分を創りあげることに成功した深川麻衣が、他のアイドルたちを客観的に捉えることは容易であったはずだ。それはきっと、彼女たちの抱え込む悩みを先回りして迎え撃つことを可能にしただろう。

生田絵梨花の存在によって暴き出された深川麻衣への疑問、罠。サバイバルや終末的な世界観(視点)の先にある共闘関係。この共闘の面で頼りなさが露見するのは、深川麻衣の虚構があまりにも「完璧」すぎた為だろう。アイドル・深川麻衣から多様性の貧弱さを感じるのも、虚構を創り上げていく作業に彼女が一意専心してきた弊害なのかもしれない。

大江健三郎の『宙返り』に描かれた教祖による「転向」。アイドルファンにとっての「教祖」となったアイドルが卒業後に、アイドル時代の発言や英姿の全てを否定し、嘲笑うことはめずらしい現象ではない。解放や反動が導くカタルシスの誘惑に勝てないのだろう。深川麻衣はこの「宙返り」「転向」をしていない。深川麻衣が創りあげた虚構には、現在でも、入り口の「空扉」を押し開け、出入りを繰り返すファンがいる。生温い思い出の湖面にボートを浮かべて寝そべっている。彼らは、「アイドル」が卒業をしたあとも、その後ろ姿を追い求め、ある種のオブセッションを抱えながら悶えている。ノスタルジーの世界を漂流しつづけている。アモール。現代アイドル史において、このような虚構を完成させたのは向田茉夏、橋本奈々未、深川麻衣の3名のみである。向田茉夏や橋本奈々未の系譜に与する深川麻衣が前者と一線を画する理由は、やはり彼女が「宙返り」「転向」をしていない点だろう。
アイドルファンを「喪失」という個人的体験に遭遇させる、その現象の「象徴」が深川麻衣である。アイドル史に大書されるべき偉業と云える。

 

総合評価 75点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 13点

演劇表現 16点 バラエティ 14点

情動感染 17点

乃木坂46 活動期間 2011年~2016年

評価点数の見方

乃木坂46