深川麻衣 × ハルジオンが咲く頃

「アモール」
恋はラテン語ではアモールという。そこで恋からモール(死)が生まれる。そして、その前には心のもだえ、深い憂い、涙、わな、大それた罪、悔恨。
スタンダール「赤と黒」
今日のアイドルシーンを眺めた大衆が、その特質の一つとして、仮想恋愛やら疑似恋愛やら、盛んに唱えているけれど、しかし本当に、そうしたプラトニックな恋愛がシーンの内に描き出されているのだろうか。問いつつ、眺めれば、そんなものは、どこにも見つからない。アイドルにたいしてアモールを抱きしめる、などということが、果たして起こり得るのだろうか。笑ったり、泣いたり、恨んだり、後悔したり、することが。
しかしあるいは、ある人に限って云えば、あるアイドルに限って云えば、あり得るかもしれない。
仲間のアイドルに「聖母」と呼ばれたその日からアイドルを卒業する日まで、言葉どおり「聖母」を演じきった人がいる。乃木坂46の深川麻衣。常に聖母であろうと心がける生活によってほんとうに聖母のような雰囲気を身にまとってしまったアイドルなのだが、当然、その彼女を前に、作り手、同業者、ファンの多くが、敬愛の情を抱いた。その敬虔な横顔に衝き動かされるようにして企画・制作されたのが『きっかけ』のミュージックビデオであり、今日においてその『きっかけ』は乃木坂46というアイドルグループのバイブルにすらなっている。
まるで宗教の教祖と信者のようなその愛着性は、深川の個人PV作品のなかでパロディにされたこともある。しかし、そうやって「教祖」となったアイドルが、卒業後に自身のアイドル時代の発言の全てを否定し、嘲笑うことも、よくある。きっと、日常を演じることの滑稽さからの解放や反動が導く、ある種のカタルシスの誘惑に勝てないのだろう。その誘惑は、アイドル時代に隠蔽した素顔の数が多ければ多いほど強くなる。
深川に驚かされるのは、ほかの誰よりも偶像を演じることに徹底した人でありながら、アイドルの世界から解き放たれた後も、一切「転向」を描いていない、という点である。彼女が創りあげた偶像=虚構は、現在でも、入り口の空扉が開放され、ファンの出入りが許可されている。ファンはいつでも自由に自分の愛したアイドルと再会できる。彼らは、アイドルが卒業をしたあとも、その横顔、後ろ姿をまぶたの裏に描き、湖面にボートを浮かべ、ノスタルジーのなかで昼寝している。坂道の途中でこちらに振り返り笑う彼女に、いつでも再会できる。
もちろん、深川麻衣と同等のノスタルジーを提示することに成功したアイドルは、ほかにも幾人かは存在する。たとえば向田茉夏、橋本奈々未。彼女たちのファンもまた、アイドル卒業後の喪失感を慰めるようにして、アイドルの残した虚構の世界を漂い続けている。向田茉夏や橋本奈々未に比して、深川が特徴的なのは、やはり「転向」を描いていない点にある。向田茉夏や橋本奈々未のファンが抱くノスタルジーの原動にあるのは、アイドルとの再会が絶対に許可されないことへの嫉妬にほかならない。それに対し、ファンとの再会を約束し続け、なおかつノスタルジーの世界の扉をひらき続けるのが深川麻衣である。
アイドル時代の”彼女”の横顔、思い出として止まったまま、記憶のなかで何一つ変わらない横顔を求め彷徨い歩く向田茉夏や橋本奈々未のファンが抱くのは、文字どおり、死を迎えることのない恋、であるから、アモールになりえない。アイドル卒業後も”彼女”と歩調を合わせるようにして生きていくことができる深川麻衣のファンの、その現実感、いつかかならず恋に死が訪れるという予感の内にこそ、アモールは宿るのだ。