乃木坂46 Sing Out! 評判記

のぎざか, 楽曲

sing out ジャケット写真 (C) 乃木坂46

「存在に気づくように踏み鳴らせ」

人から見れば、それはチョウたちが演じる美しい円舞。扇子も紙吹雪もない、自然が織りなす「胡蝶の舞」。仲間どうしで仲よくじゃれあっているふうなその光景は、微笑ましくもあり、心をなごませて、楽園の夢想に導いてさえくれる。けれどもチョウたちにとっては、これはあくまで熾烈ななわばり争い。とるかとられるかの、貴重な資源の奪いあい。それが人間の目には、優美な舞姿に映る。

阿部和重/ピストルズ

歌詞、楽曲、ミュージックビデオについて、

以前、どこかで聴いたことがあるはずなのに、思い出せない。前に一度だけ、眺めたことがある、だから、次の瞬間に映し出される”彼女”の表情を知っている。クラップが聴こえる度に、何の変哲もないデジャヴュ、ノスタルジック、共時、クリシェがグループアイドルの通史(集大成)にすり替わって行く。菖蒲色のスカートはシーンを牽引する、意味のある徴になった。すでに彼女たちは同業者の憧れに、偶像に成っている。これまでの物語と、これからの物語。風致に組まれたギニョールの舞台装置。木の枠組みの上でアイドルたちはそれぞれに咲き、舞う。夢を抱かずにはいられなかった少女たちが、妄執の矛先に選ばれ幻想になった少女たちが、心を握りしめて、陽気に唄う。「知らない誰かのために」、”抱え込んだ憂鬱”を売らずに「前を向いて」唄う。だからこそ、アイドルは儚く、生命感に満ち、鮮明に光り輝いてみえる。*1

創造とは「存在に気付く」ことであり、永遠に続くことである。連綿を夢に描き、置かれた科白。「ここにいない誰かもいつか大声で歌う日が来る、知らない誰かのために」。おそらく、詩的責任は果たされるだろう。「ここにいない」君も『sing out!』に登場する日が来る。歌詞のなかに、すでに、”君”の横顔が記されているのだから。君はいつか”彼女たち”と『sing out!』を「大声で歌う」だろう、と。*2
とくに、グループの群像から離れ、あるいは逸れ、楽曲のなかでも常に独りで物語を作ってきた齋藤飛鳥が、その楽曲世界の内側で「孤独は辛いよ」と云えた意味はおおきい。独りで踊りつづけた彼女が、やっと、仲間に凭れ掛かることができた。それは台本に書かれ、彼女のために用意された台詞への”なりきり”ではなく、作られた役を代弁しているだけなのかもしれない。演劇の一部に過ぎないのかもしれない。しかし、芝居を偽装するように、きっと、本音を溢すことが出来た。だから、彼女は”こちら”をみて照れくさそうに笑ったのだとおもう。隔たりが消え、架空の世界がスピンオフではなく、”はじめて”本編として屹立した瞬間であり、齋藤飛鳥の物語にあたらしい境地が、あたらしい世界がひらいた。不揃い、未成熟、未完成が持つ求心力に引き寄せられたファンを没入させる群像劇を、風雅を、彼女は描いてみせた。それは、西野七瀬の物語の続編ではなく、記憶として、西野七瀬が再登場する物語である。そのような通史の観点に立てば、”齋藤飛鳥センター”は見事に成功を収めたと云えるだろう。『sing out!』はグループにとってのマスターピースになるだろう。*3

…音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。

村上春樹/意味がなければスイングはない

乃木坂46の特色として、ファンの批評空間の広さがある。それは、彼ら、彼女らが”自分なり”の名曲や作曲家、映像作家を持つからである。表題曲に作曲家の杉山勝彦が選ばれなければ議論が展開されるし、ミュージックビデオの映像作家には伊藤衆人や湯浅弘章の才能を希求し、楽曲の深化を期待する。あるいは、どうしようもない、救いようもない楽曲をなんとか”かたち”にしてくれと丸山健志の手腕に祈る日もある。彼ら、彼女らは、”自分だけの引き出し”をたしかに持っている。
『sing out!』の映像作家は池田一真だが、氏は『シンクロニシティ』のミュージックビデオも手がけている。『シンクロニシティ』は退屈だった。ただ美しいだけで、酷く退屈だった。しかし、『sing out!』においては、前作で描いた退屈さは打倒されている。それはやはり、アイドルが闘争と対峙し舞踏するからだろう。つまり、演じることへのつよい要求がある。切迫がある。ライブパフォーマンスの置き換えに終始した前作に対し、今作は演劇である。ゆえに、そこに物語が作られる。主人公として描かれる齋藤飛鳥、彼女は踊りながら物語を叙述して行く。そのしなやかで強かな踊りの内に、緑色の「扇風機に向かって、あああ」と言った頃の、彼女がまだ少女だった頃の面影を探り当てようとする人間のなかには、ファンだけでなく、作家自身もまた含まれる。アイドルの成長共有というコンテンツ、その魅力に作り手もまた囚われているのだ。だからこそ、アイドルを演じる少女が内に秘めた可能性を、映像世界の上で実現させるようなスリリングな映像がトレーに載せて差し出されるのだ。*4

普遍性の振りかざしによって共感の獲得に失敗したのが『シンクロニシティ』だが、『sing out!』は無理解や無感動に囲繞された「”不意に気づいたら泣いていること”」から、そのさきの閾に踏み込んでいる*5。「ただじっと風に吹かれて、同じ空を見上げる」とき、眼に涙がにじんでいることに気がつく*6。無意識にした欠伸によるものなのか、わからない。だが自分の眼に涙がある、という自覚によって感傷があとから訪れる。涙の理由を探る行為が感傷を、孤独を引きずり出すのだ。つまり「不意に気づいたら泣いている」という共時には避けられない理由の後付けが”あった”。アイドルにとっての不意の涙がダンスや演劇(日常の演技)であり、その虚構から真実=素顔を発見しようと試みる行為こそ”理由の後付け”=批評(フィクション)である。陽気に手を叩き、床を踏み鳴らし、感情のかたまりに気づき、そのかたまりの理由を探し始めたときに、はじめて、”世間の評価とは合致しない”真価を理解し、『sing out!』を自分だけの引き出しに放り込み、あなたの”音楽世界”とアイドルへの幻想は”独自の広がり”を持ち、深まるのだ。 

 

総合評価 93点

アイドル史に銘記されるべき作品

(評価内訳)

楽曲 19点 歌詞 18点

ボーカル 17点 ライブ・映像 19点

情動感染 20点

引用:見出し、*1~*3 *6 秋元康/sing out!
*4  秋元康/扇風機
*5 秋元康/シンクロニシティ

歌唱メンバー:井上小百合、佐藤楓、鈴木絢音、岩本蓮加、阪口珠美、渡辺みり愛、伊藤理々杏、新内眞衣、梅澤美波、北野日奈子、秋元真夏、久保史緒里、松村沙友理、星野みなみ、桜井玲香、大園桃子、堀未央奈、生田絵梨花、齋藤飛鳥、白石麻衣、高山一実、与田祐希

作詞: 秋元康  作曲:Ryota Saito、TETTA  編曲:野中“まさ”雄一

 

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