乃木坂46 西野七瀬 評価

乃木坂46

 

「圧倒的な人気と表裏一体の脇の甘さ」


大変な人気者である。前代未聞と云ってもよいのではないか。現代アイドルとして、最高の実力者であり、
きわめて恵まれた境遇の持ち主、幸運児と云えるだろう。あらゆる場面で素顔をみせてしまう彼女のスタイルは、時代と共に失われ眠っていた、アイドルの「成長共有」というコンテンツを覚醒させ、希望の光を描いた。アイドル界にとっての功労者と云える。

ライブ表現力(センターポジションへの宿命)の観点で、西野七瀬は現代アイドルの最高到達点に位置する。非日常というカタルシスへの期待感が満ちるライブ空間において、その空間の中央に立ち、真っ白なスポットライトに投射される西野七瀬自身も、日常の衣服を脱ぎ捨てる。まるで、白熱灯の明かりに導かれた蛾のように、くるくると弧を描きながら、鱗粉を宙に舞い落としながら、その喪失を、英姿を観衆の前で曝すのである。そのステージ上での姿こそ西野七瀬の生来の姿なのではないか、と観者に覚らせる。

(アイドルとして過ごす)日常の仕草の中に「儚さ」と「お転婆姫」が同居する倒錯した素顔に、違和感を覚えるファンも多いだろう。例えば、爬虫類を鷲掴みにしながら微笑む彼女の仕草に、日常との乖離に困惑をするのではないか。だが、そういった隙きをみせる仕草や立ち居振る舞い、脇の甘さこそ、西野七瀬が他者を魅了し、多くのファンを獲得してきた要因である。この未成熟さ、つまり「性格の矛盾」は、常にウィークポイントとして顕在し、しばしば批判対象になっているようである。しかし、そもそも人の性格とは、立場がもたらす生活によって変化するもである。

調布市の北の隅、野川のそばに、永観寺というお寺がある。そこには阿修羅像が納められている。小山嘉崇とかいう名前の仏像職人…(略)が作ったものらしい。
小山嘉崇はその辺でも有名な悪ガキだったらしくて、親がぶちキレてその永観寺に放り込んだらしかった。そこでまあ色々あってか、小山嘉崇は真人間になって、仏像を作り出したというお話。
でも私が思うに、仏像作りへの興味の方が、真人間になるよりも先行してたんじゃないかな。仏像綺麗。仏像作ってみたい。作ってみたら楽しい。一生懸命やる。なんか真人間みたいに見える。実際に真人間っぽくなる。皆自分が真人間だと言うし、なんかそっちの方が暮らしやすいから、そういう風に生きる。本物の真人間かどうかなんて疑問が意味を失う。

(舞城王太郎「阿修羅ガール」)

西野七瀬も同じだったのではないか。人として未成熟であっても、アイドルとしては成熟している。この「(アイドルに)なりきること」という点においても、西野七瀬は現代アイドルの最高到達点と云えるだろう。

「アイドルを囲繞する闇・無頓着」

おそらく、西野七瀬本人は、自身が周りに及ぼす影響力と、現代のアイドルを囲繞する巨大なかたまりのようなモノ(堆く作り上げられた強大な存在感と価値、産業)の全体像がまるでつかめていないのだろう。
「素顔」をみせる西野七瀬だが、ある閾に達してからは、ファンは(あるいは西野七瀬本人ですら)もはや、どれが本物の「素顔」なのか、まったくわからなくなってしまったのではないか。どこからがアイドル『西野七瀬』で、どこまでが西野七瀬なのか。アイドル(文芸)という虚構。作りあげたもうひとつの世界。その虚構と現実の境界線が不分明になってしまった。「素顔」をみせる立ち居振る舞いは、彼女への声量が増すにつれて、「無頓着」という矛盾を孕むことになった。しかし、無頓着という状態には、もちろん、そこに自覚など存在はしない。アイドル本人に自覚がないのであれば、やはり責任も生じないのである。

この部屋の外で、あの窓の向こうで、黒い巨大な鳥が飛んでいるのかも知れない。黒い夜そのもののような巨大な鳥、いつも見る灰色でパン屑を啄む鳥と同じように空を舞っている黒い鳥、ただあまり巨大なため、嘴にあいた穴が洞窟のように窓の向こう側で見えるだけで、その全体を見ることはできないのだろう。僕に殺された蛾は僕の全体に気付くことなく死んでいったに違いない。

(村上龍「限りなく透明に近いブルー」)

 

総合評価 92点

アイドル史に銘記されるべき人物

(評価内訳)
ビジュアル 18点 ライブ表現 20点

演劇表現 17点 バラエティ 17点

情動感染 20点

 

 乃木坂46 活動期間 2011年~

評価点数の見方