乃木坂46 帰り道は遠回りしたくなる 評判記

のぎざか, 楽曲

帰り道は遠回りしたくなる ジャケット写真 (C) 乃木坂46

「ここではないどこかへ」

ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけではなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる「かもしれなかった」ことにも支えられている。そして生きるとは、なしとげるかもしれないことのごく一部だけを現実になしとげたことに変え、残りすべてを、つぎからつぎへと容赦なく、仮定法過去のなしとげられる「かもしれなかった」ことのなかに押し込めいていく作業だ。そして、そのなしとげられる「かもしれなかった」ことの貯蔵庫は、じつに大きく重くなってしまう。つまり、過去よりも仮定法過去のほうが、存在した過去よりも存在しなかった過去のほうが大きく重くなってしまう。だからひとは憂鬱になる。そして、その憂鬱からは、わたしたちがひとつの人生のなかでどれだけ成功し、どれだけ幸せを掴んだとしても決して逃れることはできない

東浩紀 /クォンタム・ファミリーズ

ミュージックビデオについて、

乃木坂46の22枚目シングル。センターで踊るのは西野七瀬。
ついに横断歩道を渡りきった主人公、割れた眼鏡、描かれる過去の分岐点、「アイドル」との邂逅によって本来の夢を喪失し、当たり前の日常へのなごりを抱きしめ、やがてメランコリーへと傾倒して行くこの少女の横顔は、批評の映像化と呼べる域に踏み込んでおり、膨大な考察、検証の余地を提出している。なによりも、西野七瀬というアイドルの備える批評空間への原動力を再認識し、驚かされる。

アイドルを演じる少女を桜の花びらにたとえたあの日から、「アイドル」はあくまでも”本当の夢”を叶えるための通り道だと啓蒙する作詞家・秋元康の詩情に対し、今作品では、「帰り道」の解釈として、アイドルになっていなかったらなしとげられたかもしれなかった夢、つまり仮定法過去を置いている。
おもしろいのは、もし西野七瀬がアイドルになっていなかったら、とする仮定、アイドルを演じる少女の素顔に迫ろうとする命題を定めながらも、あくまでもこの映像世界においては、作り手が演者を間近に眺めた際に抱くであろう”リアル”が一切描写されていない点だ。バスに乗り遅れた西野七瀬、バスに乗り遅れなかった西野七瀬、そのどちらも作り手によるフィクションの登場人物に過ぎない。しかし一方では、この登場人物の横顔が、アイドルファンが日常的に眺め、慣れ親しんだ西野七瀬に映るのも事実だ。バスに乗り遅れなかった西野七瀬、つまりアイドルにならなかった西野七瀬が、まるで”本当”の、こちら側の世界で生きる西野七瀬の素顔(もし彼女がアイドルになっていなかったら、きっとこのような日常を送っていたのだろうといった仮定を成立する絵)に錯覚できるのはなぜだろうか。それは、私たちが生きる現実世界でアイドルになった西野七瀬からあたえられた日常風景、それを作家が鮮明に写実し、なおかつ、アイドル・西野七瀬の横顔を、あくまでもウソ=フィクションとして扱ったからだ。
現実とフィクションの交錯を、アイドルにとってのアイデンティティの確立過程と扱ったら、これは大げさに見えるだろうか。合格通知を手にして同時に咲ったふたり。日常の過去(存在するはずだった、存在しない過去の量)がアイドルとしての過去を上回り、”帰り道は遠回りしたくなる”、アイドルになった西野七瀬。そのメランコリックな佇まいに憧れを抱くアイドルにならなかった西野七瀬。両者はなしとげられるかもしれなかった人生を想う。やがて、ライブ空間という非日常の中でふたりは再会する。だが、そこで起きる交錯を自我の確立と呼ぶのはやはり安易かもしれない。なぜなら、ふたつのフィクションが交錯することによって、映像の中から、アイドルという虚構から、「西野七瀬」が現実の世界にはじき出されたのだから。

おそらく、この物語を眺めてもっとも感得しない人物、要は”ピンとこない”人物こそ、ほかでもない、物語の主人公を演じた西野七瀬なのだろう。あくまでも、彼女は作り手の、あるいはファンの妄執になりきっただけなのだから。もちろん、そのようななりきりによって、映像世界で動くふたりの西野七瀬を、現実世界のアイドル西野七瀬とアイドルを演じる少女の素顔に錯覚させる、作り手に自身の日常の濃やかさをいともたやすく写実させてしまえる点には、たじろがざるをえない、グループアイドルではなくアイドルとして冠絶した資質をみる。
アイドルと夢、という問題を、アイドルを演じる少女の横顔を写実しつつ物語化して語った、最高傑作。

歌詞、楽曲について、

語彙の再登場、サンプリングやブレイク、たとえば、デイヴィッド・ギャレットの『Viva La Vida』の引用から、グループアイドルの通史に対する作家の想い、希望を感じとることが可能。『ハルジオンが咲く頃』では写実を試みるも失敗、『サヨナラの意味』では普遍性に傾倒しセンターポジションで踊るアイドルを写実するといった試みはほとんどなされていないが、今作では、アイドルの卒業と次の夢=普遍を啓蒙しつつ、センターポジションで踊るアイドルの横顔をうまく写実できている。なによりも、タイトルが良い。タイトルを読んだだけで西野七瀬の横顔が想起される。センスがある、と云うほかない。
特筆すべきは、常にノブレス・オブリージュを示す作詞家・秋元康を、アイドルが迎え撃つといった構図が、おそらく、今作において”はじめて”達成された、という点だろう。たとえば、生田絵梨花にこの歌が演じられたとき、夢に対する作詞家の啓蒙、その憧憬を実現するアイドルがすでに存在していたという事実が立ち現れてしまった。これは、これまでに提出されたおびただしい数の楽曲において、けして手の届かなかった遠景を手繰り寄せたと云えるのではないか。
仮に、この歌詞が大多数のアイドルとアイドルファンのこころを打たないのであれば、その理由は、アイドルの卒業に対する想い、あるいはアイドルの成長つまりアイドルを演じる少女の持つ夢に対するファンの姿勢そのものが変化しつつある、ということなのだろう。アイドルの死=卒業に多くのアイドルファンが馴致されてしまったのだ。「アイドルとの成長共有」、このコンテンツを復活させた西野七瀬が、アイドルの物語の結末部分で、夢に対する誤解に囚われてしまったのは当然の結実と云えるのかもしれないが。

 

総合評価 84点

現代のアイドルシーンを象徴する作品

(評価内訳)

楽曲 17点 歌詞 17点

ボーカル 13点 ライブ・映像 19点

情動感染 18点

歌唱メンバー:斉藤優里、井上小百合、佐藤楓、大園桃子、伊藤理々杏、新内眞衣、高山一実、衛藤美彩、秋元真夏、堀未央奈、若月佑美、星野みなみ、桜井玲香、松村沙友理、梅澤美波、山下美月、齋藤飛鳥、西野七瀬、白石麻衣、生田絵梨花、与田祐希

作詞:秋元康 作曲:渡邉俊彦 編曲:渡邉俊彦、早川博隆

 

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