乃木坂46 理想の「選抜」を考える 33rd シングル版

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「現状考え得るもっとも理想の『選抜』」

グループの骨格をなした1期生と2期生なきあとの、言わば新生・乃木坂46の最新シングルのタイトルには、”人は夢を二度見る”、と印された。新・乃木坂の門出とも言えるこの作品のセンターに選ばれたのは3期生の久保史緒里と山下美月のふたり。いわゆるダブルセンターの布陣を敷いた。
あたらしいチームの発足ということだけあって、いたるところに”穴”があり、正直、鑑賞に堪えない作品になっている。特にライブパフォーマンスに関しては多くのメンバーがその表現を壊滅させており、あらためてグループの弱点が浮き彫りになった。演技はできるけれど、踊れない。だから踊りを演劇の範疇に持ち込んで誤魔化そうとする、自己を韜晦(とうかい)するグループに綻びが生じたようにおもう。
踊れないから演技で誤魔化す、のではなく、踊りと演劇を有機的に結びつけることでこれまでのアイドルシーンにはない表現=アートを生み、多くのファンを魅了したのが乃木坂であり齋藤飛鳥なのだが、その齋藤の卒業を機にして、こうした弱点が暴かれたのはあるいは退けることを許さない帰結と云えるかもしれない。
とはいえ、シングル発売に先立って配信された『僕たちのサヨナラ』はまず間違いなく2023年のアイドルソングを代表する、乃木坂の回廊を描き出した名作と呼べるだろうし、池田瑛紗をセンターに配した5期生楽曲『心にもないこと』にしても『絶望の一秒前』に次ぐ傑作が早くも誕生したことを確信させる。この2曲が収録された円盤であることを踏まえれば、32枚目シングル『人は夢を二度見る』は必聴の一枚と云えるだろう。

乃木坂が思っていた以上に踊れないアイドル集団になってしまったことの理由を探れば、それはトップアイドルグループであることに起因する、過熱するエンターテインメント化にある、と考えるべきだろうか。
現在の乃木坂46を眺めるに、ファンの期待に応えるメンバー、ファンが理想とするアイドル像を積極的に演じるメンバー、つまりファンに媚びへつらうメンバーがしっかりと人気・知名度を獲得するという、きわめて健全な、しかし過熱したエンターテインメント空間が確立されているように見える。
星の数ほどあるアイドルグループの頂点に君臨するとなれば、当然、その序列闘争も熾烈な場となる。そこで、多くのファンに見初められより多くの握手券(ミーグリ・チケット)を売りさばくためのもっとも手軽で最も有効的な手段として用いられるのが”媚び”であり、よって乃木坂のアイドルの多くはほかのどんなアイドルよりもファンに媚びへつらう羽目に陥る。そうしたアイドル作りの一端に現れるのが、歌や踊りの弱さ、であり、ファンからほとんど要求されることがない歌や踊りを訓練するくらいならば、その時間をファンサービスにあてたほうがアイドルとして人気者になれる、銭金を稼げる、というエンターテインメントに適う姿勢への帰結である。

ここで一度、アイドル・コンテンツにおけるエンターテインメントという言葉、ジャンルの意味を考えておく必要がある。アイドルの作り方、アイドルの物語の作り方、この視点におけるエンターテインメントの意味を考えれば、それはファンの期待に可能な限り応え、ファンの心を裏切らないように行動する意志、となるだろうか。
エンタメ・アイドルの魅力とは、自分の思い通りに動いてくれる、自分の理想に逸れないそのアイドルを眺める際の、アイドルへの感情移入に対する障壁の低さにもたらされる、情動の発露にある。ファンは彼女が笑えば自分も笑うし、彼女が泣けば自分も貰い泣く、忘れられない快感を得る。
このエンターテインメントと彼岸にあるのがアートすなわち芸術であり、アイドルにおけるアートがなにを意味するのか、問えば、それは「アイドル」を自己表現の手段として用いる、つまりは、自分のやりたいようにやる、自分だけの世界に閉じこもる、という姿勢を指すのだろう。当然、作品をつくるにあたっては”彼女”はファンのことなど歯牙にも掛けない。ファンにしても、差し出された作品に対してそれぞれが、個々に反応するしかない。ファンの声量に応じてその性質を柔軟に変えるエンタメ・アイドルの作品に対し、アートはいつ如何なる時も孤独であり、鑑賞者の声に左右されることがない。
このアート・アイドルの魅力を一言で統括すれば、おなじ感情移入でも、そのアイドルを眺め語ることが自分を語ることにつなげられるなかで、知らない自分の素顔、言わば本性に気付かされる、ような、逆説的に、未知の自分を発見してしまうことでアイドルの成長を知る、という、成長共有の経験にある。

勘違いしてはならないが、エンタメとアートを語る際には、そのふたつを対決させてはならない。どちらが優位にあるのか、とか、どちらが優れているのか、とか、対峙させてはならない。求めるべきは、画然。
たとえばエンターテインメントの枠組みに生きる人間は、基本的には、生涯、その枠から抜け出ることはない。それはおそらくアートも変わらない。エンタメとアート、これは生まれ持った性(さが)である場合がほとんどで、その壁を乗り越え鞍替えすることは容易ではない。ゆえに両者を並べ比較することは意味をなさない。
純文学すなわちアートに魅力を見出すことは、あくまでも私の個人的趣向にすぎず、アイドルはエンタメであるべきだ、という、今日のアイドルをもっとも飛翔させる原動力が”媚び”であると確信するその童心に異議を唱えたいわけではない。また、アイドルはアートなどではない、アートなどになり得ないと笑う、アートという言葉の意味を知らない幼稚な大人たち、つまりエンタメに鎖された大衆がいるからこそ、乃木坂はこれだけ売れているのであり、そこに疑問を差し挟む余地はない。そう、古今東西、エンタメとは大衆文化なのだ。
アートに鎖された私が現在の乃木坂に抱く興味、好奇心は、エンターテインメントという、ファンに媚びを売らなければほとんど人気を獲得することができないグループの現状にあってもなお、自己のプライドを守り、ファンに一歩も譲ることなく、ファンの思い通りにはけして動くまいと決意する行動の文学をもったアイドルを探し出すこと、またその少女を語ること、にあるだろうか。あるいは、そうした行動を私に取らせた少女をあらためて意識することで、アイドルに発想を得られるのか、という問いをつめる。

よって、今回の理想の「選抜」のテーマは、はっきりとしている。
今回は、いや、これはあるいは、これまでも、なのかもしれないが、とにかく今回はより意識的に、グループアイドルは、エンタメ・アイドルと、アート・アイドルに分類されるはずだから、その中からアート・アイドルだけを選び「理想」を形づくることにした。

とは言ったものの、現実には、エンタメとアートのどちらにも与せず、その両極のあいだに引かれた一本の線の上をふらふらと歩き揺れ動くアイドルも存在する。アイドルとは、自分ではないもうひとりの自分のことを言うのだから、あたりまえだ。あるいはこの点が今日のアイドルのおもしろさ、魅力の核心なのかもしれない。
自分のやりたいことをやる、自分のほんとうの夢を知る、ほんとうの自分を発見したい、けれどアイドルを名乗った以上、売れなければ意味がない、売れなければアイドルであり続けることに困難が生じる、というアンビバレント。そうした解消されることのないわだかまりを自己の内に作っているアイドルもまた、私の理想に顔を出す場面があるだろう。

もちろん、アイドルがアートたり得るのか見極めようと試みるのならば、こちらも純文学然とした思考をもたなければならない。言葉を、芸術に変えなければならないだろう。
最近、『天才・秋元康に教えたい、天才・奥田いろはの魅力と影響力』と題した記事を書くにあたって十数年ぶりにヤコブソンの著作と、ヤコブソンへの批評をいくつか読み返したのだけれど、そのなかで『言語学と詩学』を語った柄谷行人の文章に触れ驚いたのは、これまでに私が、理想の「選抜」を考える、と題した記事のなかで何度も繰り返し語ってきた、妄想こそ芸術すなわちアートになり得る、というその考えがヤコブソンひいては柄谷行人を源泉としていた点で、過去に読んだ文学テクストが無意識の内に自分の言葉、思考にかえられていたこと、つまり言葉が芸術にかえられることを実践していた自分の無自覚さに驚愕した。
アイドルがエンターテインメントにその性質の大部分を侵された現実がある以上、作り手連中はどうやっても現実的な問題、生活の問題、つまり銭金への欲求から逃れ出ない。しかしファンは違う。ファンは各々が自由に理想の選抜を妄想し、組むことができる。語ることができる。ファンが編み出した無数の妄想の内のどれかが、作り手が断念した理想つまり芸術と否応なく重なりあってしまうことはフィクションと現実の偶会と呼べるかもしれない。ゆえに、そこではファンの妄想が芸術にかわっている。

換言すれば、芸術をなにか高尚なもの、身近でないものと無意識に捉える人間、たとえば”会えるアイドル”がアーティスティックに振る舞うことがどうしても許容できない大衆にこの言語の力が永遠に理解されない点こそ、ヤコブソンが教える、妄想が芸術たり得る”しるし”と言えようか。
ファンの妄想が芸術たり得るならば、アート・アイドルを探し出すことに不都合は一切生じない。

これまで同様に、ここに記す走り書きが、現在の乃木坂46に在籍する各メンバーに向けた最新の評価、となる。


伊藤理々杏
アンダー楽曲『さざ波は戻らない』において林瑠奈と共にセンターを務めた。彼女らしい不敵さに鎖した情熱が、ステージ上での踊り、映像作品における表情、そのどちらも筆端によく現れていた。

岩本蓮加
レゾン・デートル、と言うのだろうか。存在感に乏しい。選抜メンバーだが、作品を眺めるに何一つ役割を担っていない。高山一実、新内眞衣のような伴食メンバーになりつつある。

梅澤美波
秋元真夏の後を継ぎ、3代目キャプテンに就任した。とはいえ引き継いだのは意力に溢れ出るその立場だけではないようで、秋元真夏よろしく稚拙なライブパフォーマンスもしっかりと継承している。とくに、難解な振り付けを準備した『人は夢を二度見る』における梅澤美波の雨氷の上を歩くような踊りは目も当てられない。作品に深い傷をつけている。

久保史緒里
はじめて表題曲のセンターに立ったが、鴟尾(しび)でしかなかった。山下美月という、純文学然とした性格の持ち主がファンからエンタメの申し子として称賛される一方で、久保史緒里の場合、生来のエンターテイナーであるのに、その久保史緒里のことを眺めるファンの視点の持ちようは常にアートであるという、このふたりが作り出す倒錯を考えれば、鴟尾であることはむしろバランス感覚・美意識に優れた采配なのかもしれないが。
久保史緒里本人を眺めれば、これまでのヌエ的イメージが剥がれ落ち、良くも悪くも、本性が出てきたようだ。たとえば『人は夢を二度見る』のミュージックビデオにおける久保の表情はどこか間延びしていて緊張感に欠ける。口内で弾けるシュトゥルムではなく、ラベルを貼ったワインになったことで、これまでは夢見る少女特有の妄想の爆発、想像力の瑞々しさ、精神性の高さとして受容されてきた言葉の数々が鈍磨した、ということなのだろうか。

佐藤楓
変わらず、アイドルの末枯れという宿命に囚われた、エボナイト。

中村麗乃
ビジュアル、ライブパフォーマンス、演技力、すべて一流。ステージ上でおどろにふり乱すそのアイドルの表情には凡庸をはるかに凌ぐものがある。しかるに表題作のセンターに立つどころか「選抜」にすら抜擢されない。アートがエンタメと対決し負けてしまったことの、もっともわかりやすい例。

向井葉月
幼少期、次に、星野みなみのタオルを掲げた学生時代、そしてアイドルになり現在に至るまでの「成長の記録」を編集した動画がファンのあいだで話題になった。メディアにも取り上げられたようで、「成長」を魅力の大部分とする「アイドル」を広く伝えている点は感心する。成長・変化への渇仰がようやく実を結んだ、と称えるべきだろう。

吉田綾乃クリスティー
とくに表立った変化なし。こころの深い場所でアイドルが口を緘している、ように見える。

与田祐希
奢侈に流れているであろう生活が、むしろアイドルを色っぽく見せている。これだけ美しければ、卒業までにもう一つ、ブレイクを起こすのではないだろうか。新作に限って云えば、ダンスもそこまで悪くない。

山下美月
表題曲においてセンターに立った。しかしカメラの前で披露した彼女の踊りはあまりにも粗雑・未熟であり、「作品」と呼べる水準にはなかった。杜撰な仕事、と云うしかない。
もちろん素晴らしかった点もある。それはやはり演技。映像を編むことの職能は随一で、たとえばアイドルとアイドルではない自分を同時に生きてしまうことの個人的屈託が演技によくあらわれており、人は夢を二度見る、と歌ったその音楽の魅力をしっかりと教えてくれる。
ただ、演技へのたしかな手応えが、音楽のなかでも演技してしまうという行動力につながってしまっているようにも見える。『君の名は希望』を歌った際に彼女が滲ませた涙は、正直、ウソにしか見えない。

阪口珠美
『ここにはないもの』において「選抜」に返り咲いたが、そのイスを守ることはできなかった。「アイドル」に対しては常に真率な人である、というイメージがあまりファンにウケていないようだ。いずれにしても、ダンスに重きを置いた作品をつくるにあたって、ダンスの上手とされるメンバーをあえて「選抜」から外すという作り手の意志もまたエンターテインメントにほかならない。この人もまた勝負すべきではないエンタメに負けたアート・アイドルと呼べるだろう。

遠藤さくら
スポットライトの下に立てば言葉よりも雄弁に踊り、演技を作れば踊りよりも雄弁に言葉を吐く。踊りや演技によって自己を闡明するところにこの人の尽きない魅力がある。

田村真佑
躍りがアイドルの弱点であることを暴かれてしまった多くのメンバーに比して、この人は変わらずその魅力を保っており、質の高い踊りを披露している。高い演技力とライブ表現力をあわせもつ田村真佑の特性が演劇とダンスの折衷に挑んだ『人は夢を二度見る』において存分に活かされたかに見える。それなのに多くのファンにとっての田村真佑の魅力はまったく別のところにあるようで、田村は屯田兵のごとく足踏みしている。

賀喜遥香
なにをやっても、なにを話しても、どのように笑っても、どのように言葉に詰まっても、アイドルが魅力的に感じられるという、向かうところ敵なしのフェーズに入った。表題作のミュージックビデオにおいては素晴らしい演技・ダンスを披露した。名実ともに乃木坂の主人公。

掛橋沙耶香
療養中のため、選考外。

金川紗耶
現在の乃木坂で一番ダンスが上手い。どれだけ緊張感に包まれても、意気揚々として見える。アイドルのシルエットに気品が漂い、別格に美しい。踊りを編むことによって「アイドル」が芸術にされている。

北川悠理
歌、ダンス、どちらも成長している。文章も、予覚に満ちた空想から離れて、自分の言葉を読者=ファンに理解してもらいたい、という意識=欲が出てきたようで、平易になってきた。その欲がアイドルとしての、また人としての成長に貢献している、ということなのだろう。

清宮レイ
ホメオスターシスを打ち破ったのか、佇まいに貫禄が出てきた。ファンの前で本然の姿であることを自己の内で許しはじめたのかもしれない。興味深いのは、選抜メンバーとして活動していた頃よりも今の清宮レイのほうがはるかに魅力的に映るのに、こと人気に関して云えばまったくの逆であるという点で、あるいはここにもエンタメであることとアートであることの差異が発見できるかもしれない。

矢久保美緒
カメラの前で、ファンの眼前でメンバーの魅力を引き出し伝えることが自分自身の魅力につながらない、という状況を前にして、ひどく憤っているように見える。言葉の端々に女性特有の皮肉がこもっている。
皮肉というものは、相手にその意味を悟られぬよう工夫した言葉であるべきだ、というのは大きな間違いで、むしろ相手にかならず気づかれる言葉にしなければ意味がない。とはいえ、言葉を発した瞬間にそれが皮肉であることを勘付かれてしまうような安易な表現は避けるべきだろう。
皮肉とは、まず相手にそれを褒め言葉だと確信させなければならない。喜びを噛み締めたその人が、その日の夜、眠りにつく際にその言葉を思い返すなかで、実はそれが自分をバカにしていたものだと気づき、自らの浅慮を恥じ入り歯ぎしりするような、効力をもった言葉を指す。
要するに、順位闘争を生き抜くには頭を使わなければならない、ということだ。

林瑠奈
アンダーセンターを務めた。また、大舞台で久保史緒里に代わって表題作のセンターに立ち、歌い踊ったが、いずれも禿筆をふるっている。前作における飛翔は敵失での得点にすぎなかったのか、ファンのあいだで話題になった。この人の特性は、自分のことは上手く語れないけれど仲間のアイドルのことは上手に語れる、自分の夢よりも他人の夢を語るときのほうが生き生きとする、というクリティックにあり、それが功を奏した前作に対し、今作においては完全に裏目に出てしまったようだ。しかしそれは純文学畑に生きる人間特有の気質でもある。

早川聖来
未だ馬脚を露わしたことの余波から抜け出ない。ただ、あるひとつのできごとをきっかけにしてここまで顔つきが変わってしまったアイドルをほかに知らないから、そうした意味ではなにがしかの思考経験を生んでいるし、アイドルという幼稚なコンテンツには似つかわしくない、哀れを誘うような香気が漂っている。

筒井あやめ
もうはまだなり、まだはもうなり、とはよく言ったもので、過去に思い描いた理想の未来像がエスペラントになりつつある。自己を律することができる彼女のその情動が作り手にも感染してしまうのだろうか。とはいえアイドル本人を眺めれば、様々な場面で働く自己制御の能力がアイドルの魅力の発散を妨げている、と考え戸惑っているように見える。たとえば、齋藤飛鳥との再会に際し衝動的に手を握れないことの、その自己制御には、少女自身、もどかしさを感じているように見えた。しかしその自己を制御することで表されるアイドルの姿勢の良さこそこの人の乃木坂らしさ=魅力だと思うのだけれど。

柴田柚菜
一貫して、エクレシア・ピューラの念頭に撚りをかけている。

黒見明香
5期生との交流が話題になった。普通、才能豊かな新人の出現を目の当たりにすれば、それを受け入れることがどうしたってできず反動を宿してしまうものだが、この人はだれよりもさきにその輪の中に飛び込んだようだ。その意味ではやはり黒見明香には平凡ではないなにかが備わっているのだろう。俗に言う、グレートマザーのような存在感が。

佐藤璃果
「選抜」のイスを手にした。しかしその「選抜になる」という目的そのものがアイドルの物語になってしまった感がある。肝心の作品を眺めても彼女の魅力は那辺にあるか明確でない。

松尾美佑
ようやく「選抜」に入った。ステージの上においてはその存在感を鳴り渡した。アイドルの柔弱な日常を、踊りのなかで活力にかえている。今後の活躍に非常に期待がもてるメンバー。

弓木奈於
とりわけ演技ができてしまうことの弊害なのか、踊りの最中に不必要な表現を多用しており、楽曲の魅力を削いでいる。

井上和
彼女のことをどうしても主役として描きたい作り手の思惟と対決する、自己の内奥の魅力を未だ見つけることができない「私」を置き去りにして「アイドル」が注目されることの葛藤、どんな場面でも主役になってしまう少女の不安のなかで、羊質虎皮であることをファンにいずれ見抜かれ飽きられてしまうのではないか、慄えている様子は微笑ましい。そうした屈託は、たとえば『シンクロニシティ』や『僕のこと、知っている?』のような詩を与え演じさせれば解決しさらなる飛翔を描くだろうから、やはり成功を決定づけられたアイドルに思う。独走体勢をかためつつある。

一ノ瀬美空
5期生のなかで一番ダンスが上手い。前評判どおり、『人は夢を二度見る』においてはその振り付けを難なくこなした。この、難なくこなしているように見える、という点が肝要で、たとえば小川彩とジェスチャーゲームをして遊んだ際に、お題「アイドル」に対してアイドルらしいジェスチャーを作る一ノ瀬を眺め、小川は「一ノ瀬美空」と即答した。小川のなかでアイドルとは一ノ瀬美空のような存在だという意識があるのだろう。難解な振り付けを用意されたとき、そのとおり難解に踊っているようでは「アイドル」とは呼べないのだ。

菅原咲月
日々、そのうつくしさを増している。苦み走った表情のもとに編まれるダンスも魅了的。

小川彩
ビジュアル、歌、ダンス、演技、いずれも才能豊か。驚くのはそれがデビュー以来、日々、成長しているという点で、ビルドゥングスロマンとは成長することでその価値を変えていく、という意味だが、この少女は、希望的観測のすべてを乗り越えて、未知なるものとつながっているように見える。

冨里奈央
とくにこれといって粗がない。ビジュアル良し、歌声良し、ダンス良し。早咲きのアイドルにも見えるし、遅咲きのアイドルにも見える。不思議な存在。笑顔は飛びきりにメルシー。

奥田いろは
現在のシーンにあって冠絶した歌唱表現力を備えている。歌を唄うことで自己を伸展させていくその姿を、「アイドル」であることを通してファンに教えている。歌を唄うことで「アイドル」を芸術にかえている。詩に触れることでアイドルのビジュアルが華咲き、踊りに精彩が出てきた。演技も抜群に上手い。
ただ才能がある、とは迂闊には言えない、ただ才能がある人とはかけ離れたその天意をして、再び「アイドル」を定義づける存在かもしれない。

中西アルノ
アイドルであることに伴う痛みがひき、あたたかな、安堵感が広がりつつあるようで、ファンを、優しくからかう。小気味良いエスプリの効いた言葉をもって、関心を引き続けている。

五百城茉央
目線のつくり方、指の動かし方、美意識が細部に行き渡り宿っている。アイドルが高貴に見える。5期生楽曲『心にもないこと』においては素晴らしいパフォーマンスを発揮した。

池田瑛紗
『心にもないこと』においてセンターに選ばれた。披露されたその楽曲を眺めるに、池田瑛紗は作詞家・秋元康の詩作における与件として文句なしの存在感を示している。彼女がアイドルを演じるにあたって準備したエクリチュールが減衰することなく音楽のなかで活かされている。たとえば彼女が日常的に見せる身振り手振りの奇妙な所作がそのまま幼稚な踊りとなって音楽のなかに現れているけれど、それが音楽の魅力を損なっているようには感じない。むしろアイドルが音楽のなかで生き生きとしているようにさえ感じられる。
然しながらそれは彼女がセンターに立った際に見出す感慨でしかなく、他の楽曲においてはその特質は生かされず、ただただ未熟な踊り手でしかあり得ないし、音楽を毀している。
アイドルに歌や踊りの技術を過剰に求めるのはたしかにバカげた話だが、しかし、ものには限度がある。もう少し、あと少しだけ、踊りを鍛えるべきだろう。人気があればいい、というのはエンタメにすがった詭弁でしかないのだから。

岡本姫奈
活動休止中のため、選考外。

川﨑桜
キラ星のごとく集まった少女のなかにあってもなお一際目を引くそのビジュアルの働きかけだろうか。ファンに媚びへつらうことの虚しさが踊りのなかに唐突にあらわれる。その意味では、エンタメとアートのあいだで揺れるアイドルを象っていると言えるかもしれない。

よって、私が考える理想の「選抜」は以下のようになった。33rdシングルのセンターには遠藤さくらを選んだ。

(C)乃木坂46公式サイト

4列目:五百城茉央、一ノ瀬美空、小川彩、林瑠奈、中西アルノ、金川紗耶、中村麗乃
3列目:田村真佑、奥田いろは、筒井あやめ、与田祐希、川﨑桜
2列目:菅原咲月、賀喜遥香、井上和
1列目:遠藤さくら


2023/04/20  楠木かなえ
2023/04/22 加筆、誤字・脱字の修正を行いました


・参考文献
福田和也/作家の値うち(飛鳥新社)
ロマン・ヤコブソン/一般言語学(みすず書房)