乃木坂46 吉田綾乃クリスティー 評価

乃木坂46

吉田綾乃クリスティー (C)ORICON NewS inc.

「日常の写実」

吉田綾乃クリスティー、1995年生、乃木坂46の第三期生。
一見穏やかで、海辺で焚き火を眺めるときのようなうっとりとした瞳をしているが、その奥に居心地の悪さを伝える固陋な反動が宿っている。猜疑心が、このまま彼女の物語に深入りして行くべきか決断を躊躇させる。きっと多くの読者が、意識的にしろ、無意識にしろ、彼女の作る虚構の扉に手をかけ、逡巡し、黙って立ち去ったのではないか。「自分次第でどうにでもなる」という自己啓発的展望が巌しい隘路を歩くとき、どのような自己矛盾に陥ったのか。

ご機嫌で家路を急ぐ途中、河原の土手を歩いていると、どこからか焼き芋屋のラッパの音が聞こえてきた。食べたいにきまってる。私は焼き芋屋の居所を探ろうと目を閉じ聴覚を研ぎ澄ました。しかし、すぐ下のグラウンドで行われている少年野球の活気立つ声援やバットの金属音に邪魔されてしまう。でもなんかいい。じっと神経を深く潜らせるほど、少年たちが懸命に走りながら土を蹴り上げる音だって聞こえてきそうだ。巻き上がる砂埃だってアーモンドパウダーに見えてくる。

グルメな女と優しい男/望月あんね

この描写が女性特有のニュアンスに富んだ日常の再現であると同時に、以前にもどこかで目にしたことがあるような平易な想像力によって形づくられた風景にも感じられるのは、実際に作家が河原の土手を散歩しながら遭遇した光景にフィクション=嘘を足したからである。あるいは、焼きあがったフィクションに素顔を味付けした。つまり日常を写実するために真実の中に嘘を置く行為は、嘘の中に真実を置くことにつながって行き、パラドクス的に循環する。この日常の写実こそ「現代アイドル」の命題と云えるはずだ。

カメラやスポットライトに映し出され、仮構の登場人物となったとき、日々の生彩を損なうアイドル(役者)の数は決して少なくはないが、吉田綾乃クリスティーの場合、むしろ彼女は仮構のなかで呼吸をしているときのほうが、アイドルを演じる一昼夜よりも彩りが豊かに映る。さらに云えば、おなじ非日常でも、より仮構の深い場所、例えば、ライブ舞台装置の上で見せる踊りよりも、楽曲に保存された「声」のほうが存在感を把持しているようにおもう。おそらく、仮構の底に潜れば潜るほど、”あるがままの自分”を頑なに維持しようと務める毎日の圧迫から解放されるのだろう。そして皮肉にも、そのような状態でのみ、彼女は”あるがままの自分”を表現することに成功するのである。
『一ヶ月前、春のうた』において、恋人のケンジを捨てた彼女だが、プラトニックの境域から赤いマフラーと共にカゴに詰められて追い出されたのは吉田自身である。日常感に溢れた世界観が吐き出す錯行、ありがちな恋愛によって遭遇する自己矛盾は吉田綾乃クリスティーが抱える、グループアイドルとしての物語性を、日常を見事に再現したと云えるだろう。2階のベランダから落とされるマフラーを受け止める前に荷物を地面に置いて、両手を広げて準備する、この彼女の動作、冷静さこそ、吉田綾乃クリスティーの作るアイドルへ力強く踏み込む決断を抱かさせないしたたかさを覗いた作り手に思わずそれを写実させた証しではないか。

アイドルは文章力を話題にされることもめずらしくない。特にブログというコンテンツは日常を写実するひとつの手法と呼べるだろう。寺田蘭世の読者の気を重たくするつよがりや久保史緒里のモノローグのフィクション化、北川悠理の奇を衒うファンタジーもすべて日常の写実への試みである。乃木坂46に所属するアイドルのなかでは、北野日奈子の文章がもっとも読みやすく、自身が描くアイドルと生身の「北野日奈子」の間合いに切迫をつくるような写実ができている。彼女の文章は常に、書いたあとに心を打ち明けて”しまった”気恥ずかしさと後悔におそわれるような悲喜劇的な描写に溢れている。では吉田綾乃クリスティーの文章からはどのような素顔が読みとれるのか。

ツチノコと蓮加のおかげで
しばらく何が面白いのか分かんないくらい
笑いすぎて泣いてた(笑)
それまでずっと静かだったのに
急に笑い出したから
隣にいたれのに
何かに取り憑かれたみたいで怖い。
って言われた(笑)

吉田綾乃クリスティー公式ブログ/吉田綾乃クリスティー

状況説明が一切なく、唐突に置かれた描写である。だがその情景にみとれることは容易だろう。前後の状況説明を省くことで「何が面白いのか分かんない」の説得になっている。面白い話題と前置きすることで肝心の面白さが損なわれるのを回避している。「れの」の台詞にだけ「。」を置いた仕草から文章で物語ることに意識的な人間だと気付く。この日常風景に登場する「蓮加」と「れの」を読むにはある程度の前提知識、一定の共通了解を求められるが、吉田綾乃クリスティーを主人公とする物語のなかに再登場した二人の表情とは、「蓮加」と「れの」のそれぞれが書く物語のなかでは見られない”顔”をしているかもしれない。もちろん、「蓮加」はいつもとかわらない岩本蓮加かもしれないし、「れの」の科白は中村麗乃のイメージを裏切る意外な一面に映るかもしれない。つまり興味深いのは、「笑いすぎて泣」く吉田綾乃クリスティーが主人公の文章でありながら、この描写からファンが注目するのは「蓮加」と「れの」の二人である、という点だ。文体とは作家が示す一つの結晶とも云えるが、彼女が書く文体にも吉田綾乃クリスティーというアイドルが抱える皮肉、自己矛盾の結晶が現れているのではないか。また、彼女のブログが毎回魅力的な文章であふれているかといえば、そうとも云えず、洞察を希求する文章は数えるほどしかなく当たりはすくない。この点からも彼女が作るアイドルの瑕疵が見えるのではないか。自身のストーリーを語る文章には生彩が欠如し、他者を語る文章にのみ彩りが添えられる…、循環せずに行き違う性格の所持にアイドルとしての嘆きが集約されているのではないか、とおもう。その心の声を観者に届けることが可能になれば、物語があたらしい局面を迎えるのは云うまでもないが。

 

総合評価 53点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 10点

演劇表現 12点 バラエティ 11点

情動感染 7点

乃木坂46 活動期間 2016年~

評価点数の見方