乃木坂46 清宮レイ 評判記

「強烈なスピリットの持ち主」
清宮レイ、平成15年生、乃木坂46の第四期生。
活気と才気にみなぎる、二面性あらたかなアイドル。西野七瀬、齋藤飛鳥という主流を受け継ぐ遠藤さくら、金川紗耶に対し、清宮は秋元真夏や中田花奈といった、グループに多様性をあたえ得るもう一方の主流を引き受ける、「選抜」に欠落しつつある役割を十全に担う、ドラマツルギーを満たす存在として注目を集めている。
エモーショナルであると同時にラショナルでもあるという、形容の矛盾をふりすてたそのスタイルは、さまざまなシーンで話題を集め、力強い飛翔を描いている。
山下美月を新センターに迎え、未来を作る、と高らかに呼号した作品『僕は僕を好きになる』において表題曲の歌唱メンバーにはじめて選抜されると、以降、すべての表題作の選抜メンバーに名を連ね、また舞台にラジオと活動の幅を広げ、次世代アイドルとしてその存在感を確かなものとしている。アイドルを演じるにあたって提示される、少女の傲岸なまでの活気と才気が作る高揚感は、一種のフレネミーとして、自身のファンを興奮させるだけでなく、グループのファンにも大きな驚きと動揺を与えている。
金川紗耶が「グループ」に対するフレネミーを携えるのならば、清宮レイのフレネミーは「人」に対し向けられる。とげとげした精気、向上心に燃える若者特有のスピリットを笑顔にあらわせる人物であり、他のアイドルに対し、友であり敵である、という立ち居振る舞いを作り、若者の稚気の交歓を描くと同時に、それがアイドルの順位闘争の場で活かされ、ファンと力強い信頼関係を結ぶのに役立てられている。なおかつ、彼女はその笑顔の裏に忍ばせた素顔をアイドルの物語として語る大胆さも有しているようだ。
まず笑顔がある。そしてその笑顔の背後には複雑な日常の香気が控えており、それがアイドルの物語となって姿を現す。こうした”夜明け”に向けた静かな感興=自己啓発感とは、やはり今日のアイドルとして、つまり乃木坂46として、ひとつの主流と捉えるべきだろう。このひとは、いつも笑っているから、笑顔のひと、なのではなく、人生の様々な局面を笑顔で凌いできたその日常の痕跡が表情に記憶・記録されているから、笑顔のひと、なのであり、はばかることのないイデアルティプスを抱きしめるからこそ、どこか素通りできないもの、をファンに投げつけ、結果、アイドルの順位闘争をもその「笑顔」によって凌ぐのである。すでに、若手でありながら「アイドル」にそなわるシリアスを「笑顔」で形作ることに成功している。やはり、鉄壁な、強かなひとに見える。
だが、そうした二面性あらたかなアイドルというイメージによって、アイドルの表情が淡泊に見えなくもない。彼女は、ただ明るくて、ただ暗い、それだけのように見える。常に意気軒昂に振る舞い、かつ冴え渡った精神を宿している。たしかにグループアイドルにとってのエクレシア・ピューラをもっている。新鋳硬貨のように輝かしく、また繊細であり、笑顔とその裏側にある素顔との交換の繰り返しによって生来の瑞々しさ純粋さが徐々に失われアイドルの成長が記されていくのだろう、という憧憬においては、ほかの多くの若手アイドルと一線を画しているかもしれない。だが、それだけのように感じる。
「全部 夢のまま 編」
夢と現を行き交いする様子を表現することと、夢と現のふたつを表現することでは、意味がまったく異なる。
夢の世界から現実へと倒れ込み覚醒する主人公を通して、現実と仮想の境界線を不分明化するアイドルの横顔をなぞった『全部 夢のまま』において、楽曲を演じ舞う少女たちのパフォーマンス、そのクオリティは大きく明暗を分けている。「夢」をテーマにした楽曲を前にして現実感覚としての「泡沫」を描いた賀喜遥香、小走りする際に表情を変え日常の再現を映す筒井あやめ、つまり文字どおり夢と現を行き交う妖精のように見える少女たちに対し、清宮レイが準備したものは、ただ笑顔をふり撒くだけの、あるいは歌詞にあわせて表情を切り替えるだけの、夢と現のふたつを表現しようとする踊りである。
アイドルとは活力=夢を与える存在だ、と唱えるとき、ではそれはどのようにして叶えられるのか、と問うならば、アイドルから直接投げつけられる場合と、ファン自身がアイドルを眺め妄想し手繰り寄せる場合のふたつに大別することができるだろう。肝心なのは、どちらがより良いのか、ではなく、どちらでもあり得る、という点である。豊穣な物語を記すアイドルは、どちらでもあり得る、のだ。清宮レイはどうであろうか。おそらく、彼女は、どちらか一方でしかあり得ない、とおもう。彼女の笑顔に触れるだけで元気が貰える、と話すファンがいる一方で、彼女の笑顔の裏側に置かれた物語を読みその屈託を拾い上げることこそが、活力を得るための唯一の方法である、と確信するファンがいる。しかしそのいずれも解釈を移動することがない。
彼女にあるのは「鑑賞」だけであり、たとえば、齋藤飛鳥や小坂菜緒、同期ならば筒井あやめといった優雅・風雅なアイドルを前にしてファンが試みる行為、つまりアイドル観の彫琢が清宮レイにはない。あるアイドルを眺め、そこに書かれていないもの、を見出し、妄想し活力を得る、これは鑑賞を抜け出た行為、要するに批評であり、純粋な鑑賞とは呼べない。しかしファンが自己の内でアイドルを物語化し特別な存在へと押し上げる際に、絶対に避けて通れない行為が「批評」なのだ。清宮の場合、キャンバスに書かれた横顔が活力そのものである、というたしかなスタイルを片方の手で握りしめているため、「清宮レイ」を眺め活力を得る瞬間こそ「鑑賞」にほかならず、つまりフィクションを育むまでもなく、満たされてしまうわけである。この点に、このアイドルの物足りなさをどうしても見出してしまう。自分だけがこのアイドルの素顔を知っている、と妄執させるような、ヌエ的イメージが欠けている。
このひとには「情動」がある。そしてその情動をファンに感染させることにも成功している。つぼに嵌った際の爆発力がある。しかしそういった興奮を維持させる力に弱いところがあるように感じる。二面性=表裏の盤踞、これは一見すると、なにかただならぬ気配、複雑さや深みを感じてしまうが、裏に描かれるべき顔が表側に書かれていたり、裏側に表の絵が入り混じっていたりと、そういった奇妙さ、不作為な一面を持ち得ない。
こうしたアイドルのビジュアルに向けた感慨を集約させ「清宮レイ」を語るならば、彼女のビジュアルには、グループアイドルとしての、というよりも、アイドルとしての、公衆をねじ伏せるだけのエロクエンティアが欠如している、となるだろうか。
後日、現在の「飛翔」が、作り手による気まぐれだった、とファンを落胆させるのか、今におもえばあれは当然の措置だった、と納得させるのか、ポジティブというキャラクターさえも人気獲得のために詐称しなければならない行きづまり、深い落とし穴を前にしてどのような行動力を見せるのか、はやくも岐路に立たされている、と言い換えても良い。他者と相対する際にフレネミーを振る舞う以上、彼女にとっての不倶戴天の敵とは、まさしく、アイドルを演じる自分自身にほかならないのだから。
総合評価 60点
アイドルとして活力を与える人物
(評価内訳)
ビジュアル 9点 ライブ表現 12点
演劇表現 12点 バラエティ 13点
情動感染 14点
乃木坂46 活動期間 2018年~
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