乃木坂46 山崎怜奈 評判記

乃木坂46

山崎伶奈 (C) MARQUEEVol.128

 「虚栄心からは、誰一人逃れられない」

山崎怜奈、平成9年生、乃木坂46の第二期生。
自己啓発型アイドル。やや過剰ともいえるが、情報発信に対するモチベーションは非常にたかい。自分の需要がどこにあるのか、しっかりと分析し、行動に移せている。ファンに向ける「顔」と「科白」の仕掛けは用意周到で、なかなかに巧み。とくに、ラジオから流れてくる音声はクリアに響き、なおかつ、抑揚もあり、心地良い。
デビュー以来、「不遇」と名づけられ揶揄される乃木坂46・第2期生のなかにあって、そういった風潮を意に介さない立場を意識的にとれる”ツワモノ”であり、行動するものは悩まない、という格言があるが、まさにアイドル・山崎怜奈はこの言葉の体現者と呼ぶべきだろう。
また、見落とされがちだが、ライブステージの上で作る表情にはきわめてシックな趣きがあり、かつ、身振り手振りの大げさな動作がアイドルの性格を素直に現しており、ダンスを眺めることでアイドルを知っていくという、憧憬を叶えている。今日のアイドルシーンにあってはトップクラスのライブ表現力を誇る。この人の踊りを眺めていると、踊りとは感情であり、つまり言語で形づくられるものだ、という事実を再認識させられる。

この山崎怜奈が、歴女アイドルを標榜し、知識と教養を武器に、果敢に行動をするも、未だファンからの尊敬を勝ちとれないのはなぜだろうか。また、「歴史」に対する衒学的な立ち居振る舞いにつよい不快感を抱かれ、アイドルの飛翔を妨げる理由はどこにあるのだろうか。
それはおそらく、山崎の歴史解釈と講釈の平板さ、に起因する、のではないか。
彼女の歴史講釈に触れ、想うのは、歴史上の登場人物をアイドルである自身の日常にかさね手繰り寄せるような姿勢、歴史に対する様々な知識つまり情報の蒐集を経て、それをみずからの想像力によってあたらしい価値へと塗り替えるような挑戦心を持たないことへの、落胆だろうか。
例えば、彼女の坂本龍馬に対する想いとは、塩野七生がユリウス・カエサルに対し抱く恋心のような甘美さ、高い教養と確かな知識、文明観を支えに妄想を飛躍させるようなスリリングさ、つまりフィクションの構築を作さない。換言すれば、歴史上の偉人でさえも自身の日常生活の機微=素顔に通いあわせ、その人を語るという、愚かさ、危うさ、リスクを、山崎はひとつも取っていないように見える。いわば現実感覚の希薄があり、坂本龍馬が自身と同じように生臭い日常を描くという視点を欠く。
彼女にとって歴史上の人物、偉人とは、あくまでも奇跡の登場人物であり、アイドル的幻想とその香気のなかに漂うことに終始している。ありていに云ってしまえば、モノクロ写真をそのまま描写しただけで、そこにあったはずの色彩が浮かんでこない。だから山崎怜奈が想い描く偉人たちの性格はどれも紋切り型で、あたらしい発見がどこにもないし、彼らを物語る彼女からも情動を貰えない。
「歴史」への距離感や認識、想いとは、それを語る人間の資質を顕にしてしまう。つまり、自尊心から安易に人前でそれを披露する行為は、たかいリスクを孕む結果になる。山崎は野心のある立ち居振る舞いをみせるが、その野心を上回る虚栄心の存在を隠し通せていないのだ。”空気の読めない人”、といった皮肉を彼女が買ってしまう原動力に虚栄心の発露があるのはまず間違いない。ここでもまたありていに云えば、おそろしいまでの「自覚」の持ち主に見えて、実は、あられもなく無自覚なのだ、このひとは。
傷つきやすさや通俗といった地平を遊離しなければアイドルが作家的な見地に立つのはむずかしいと想像するが、アイドルとして、そのようなキャラクターが果たしてファンにどこまで求められているのか、わからない。山崎怜奈というアイドルは、衒学的なふるまいによって冷笑や皮肉を作ることで、ファンから不要な邪推を招くといった、自縄自縛に陥っているようにも見える。もちろんそうしたアイドルは過去から現在まで、こころが挫けるほどシーンに溢れかえっている。だが山崎の場合、作詞家・秋元康的あるいはHKT・指原莉乃的ともいえる「俗悪さ」をアイデンティティにせざるを得ない状況、このアイドルはこれこれこういうアイドルだ、というファンからの邪な期待感に包まれるが、しかし、決してそれにタッチしない、あるいは手の届かない「矛盾」を作るアイドルに見える。この点に、このひとのアイドルとしての本領があるのかもしれない。

俗悪を発揮する人たちは、自己の姿や、自己の成したものに盲目なのだ。それが、どんなものであるかは彼の関心を呼ばない。ただ、彼の気にかかるのは、それが他者の歓心を買うか、ということだけなのだ。しかも、心弱い彼は、強力な称賛によって常に抱きしめられていなければならないのである。目も眩むほどの、歓声と感嘆によって包まれることが必要なのだ。

福田和也/ろくでなしの歌「チャールズ・ディケンズ」

「俗悪は、悪徳なのだろうか。 俗に交わり、俗に隠れることが、聖賢の理想であるとしても、俗悪というと、二の足を踏んでしまうものだ。 好んで悪趣味のグロテスクやしつこいまでの味の濃さになじんだとしても、それが媚び、諂いを強く含み、いずれかの下心を露にしだすと俗悪さの臭気がにじみだして、厚顔な粋人をも飛びのかせるものになってしまう。」アイドルが俗悪に成る、というのは純潔の放擲かもしれない。あるいは、群像劇の破綻を迎え入れる笑顔の提示。「俗悪とは、俗心の一類型ではあるが、よりはしたなく、あられもないものだ。俗はその人の、逃れ難い欲求のあらわれであるが、俗悪は、他人に、公衆に、受け入れられようとする欲望、というよりも衝動によって引き起こされるものである。」情動によって自家撞着的な言動を、醜態をみせてしまうのは個性ではあるが、山崎怜奈のそれが島崎遥香堀未央奈のような個性と映らないのは、やはり虚栄心が野心を凌ぐからである。グループに群集する才能に対する下心の一種として露出する妬心は、野心ではなく虚栄心に加算される。「虚栄心からは、誰一人逃れられないが、それが俗悪としてあらわれるには、虚栄の断念が必要になる。つまり、洗練とか、趣味といった、虚栄の本質をなすような資質を諦める、視野に入らなくなる、関心をよせなくなるといった事態があってはじめて人は、俗悪を作り出し、引き受けることが出来るのだ。 その点からするならば、俗悪は、悪徳ではない、と考えるべきかもしれない。それは病ですらないかもしれない。それはむしろ、心の弱さであり、他者の承認、称賛への耽溺であり、そして何が何でも受け入れられたいという強い願い、祈りである。 俗悪を発揮する人たちは、自己の姿や、自己の成したものに盲目なのだ」。
”何が何でも受け入れられたいという強い願い”があるのにもかかわらず、山崎怜奈が俗悪に成りきれないのは、他のアイドルが描く物語への再登場を放擲し、自己が主人公として描かれた物語の達成を看過しない倨傲があるからだろう。秋元康が作詞行為において語彙の再利用、再登場を繰り返すのは、グループアイドルに具わる通史性へのメタファーではなく、己の姿形や達成に”盲目”だからである。ゆえに、氏は俗悪なのだ。
俗悪に成りきれない、というキャラクター性の把持、物語性の獲得、批評空間への入り口を発見されてしまうことによって、山崎怜奈が浴びる邪推に因る揶揄は、ユニークの獲得につながるが、その資質とは、たとえば次世代の主人公としての存在感をいや増す山下美月のその”頼もしさ”の先駆けであり、ファンが甘えてもたれ掛かるアイドルと評価できるのだから、やはり、答えのみつからない、矛盾した存在と云える。*1

 

総合評価 59点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 12点 ライブ表現 14点

演劇表現 11点 バラエティ 8点

情動感染 14点

乃木坂46 活動期間 2013年~2022年

引用:*1「」福田和也/ろくでなしの歌

2019/03/24  再評価しました
2020/05/27 演劇表現 8→11

  関連記事

 

乃木坂46の『人は夢を二度見る』を聴いた感想

「アイドルの可能性を考える 第二十一回 人は夢を二度見る 編」 メンバー 楠木: ...

乃木坂46 心にもないこと 評判記

「心にもないことを」 ミュージックビデオについて、 『人は夢を二度見る』のカップ ...

「アイドルの値打ち」の使い方 ライブ表現力 編

「アイドルの可能性を考える 第二十回 「アイドルの値打ち」の使い方 ライブ表現力 ...