乃木坂46 山崎怜奈 評価

山崎伶奈/(C)MARQUEEVol.128

 「虚栄心からは、誰一人逃れられない」

自己啓発型アイドルである。やや過剰ともいえるが、情報発信に対するモチベーションは非常にたかい。自分の需要がどこにあるのか、しっかりと分析し、行動に移せている。ファンに向ける「顔」と「科白」の仕掛けは用意周到で、なかなかに巧みである。「不遇」と揶揄される乃木坂46の第2期生のなかにあって、そういった風潮を意に介さない立場を意識的にとれる”ツワモノ”である。行動するものは悩まない、という格言があるが、まさにこの言葉の体現者と呼べる。また、見落とされがちだがライブステージの上で作る表情はシックであり、現代アイドルシーンにおいてトップクラスのライブ表現力を誇る。

歴女アイドル・山崎怜奈が知識と教養を武器にしても、未だファンからの尊敬を勝ちとれないのは、また、「歴史」に対する衒学的な立ち居振る舞いに不快感を抱かれてしまう理由は、彼女の歴史解釈と講釈がきわめて平板かつ通俗的なためだろう。彼女は歴史上の人物を自身の日常にかさね、手繰り寄せることが苦手なようである。例えば、彼女の坂本龍馬に対する想いとは、塩野七生のユリウス・カエサルに対する片想いのようなフィクションの構築を作さない。現実感覚がきわめて未熟であり、坂本龍馬が自身と同じように生臭い日常を描くという視点を欠く。平易に云えば、彼女にとって歴史上の人物とはあくまでも奇跡の登場人物であり、アイドル的な幻想である。だから山崎怜奈が描く偉人たちの性格(イデオロギー)はどれも紋切り型なのだろう。「歴史」への距離感や認識、想いとは、それを語る人間の資質を顕にしてしまう。つまり、自尊心から安易に人前でそれを披露することは、たかいリスクを孕むことになる。山崎は野心のある立ち居振る舞いをみせるが、その野心を上回る虚栄心の存在を隠し通せていない。理由の一端が、彼女の歴史解釈と講釈である。傷つきやすさや通俗といった地平を遊離しなければアイドルが作家的な見地に立つのはむずかしいと想像するが、アイドルとして、そのようなキャラクターがどこまで求められて行くのか、知らない。山崎怜奈というアイドルは、衒学によって冷笑や皮肉を作ることで、邪推を招き入れ、自縄自縛に陥り、秋元康的な「俗悪さ」をアイデンティティにせざるを得ない状況(期待)に追い込まれるが、しかし、決してそれに手が届かない矛盾を抱えてしまっている、と映る。

俗悪を発揮する人たちは、自己の姿や、自己の成したものに盲目なのだ。それが、どんなものであるかは彼の関心を呼ばない。ただ、彼の気にかかるのは、それが他者の歓心を買うか、ということだけなのだ。しかも、心弱い彼は、強力な称賛によって常に抱きしめられていなければならないのである。目も眩むほどの、歓声と感嘆によって包まれることが必要なのだ。

福田和也/ろくでなしの歌「チャールズ・ディケンズ」

「俗悪は、悪徳なのだろうか。 俗に交わり、俗に隠れることが、聖賢の理想であるとしても、俗悪というと、二の足を踏んでしまうものだ。 好んで悪趣味のグロテスクやしつこいまでの味の濃さになじんだとしても、それが媚び、諂いを強く含み、いずれかの下心を露にしだすと俗悪さの臭気がにじみだして、厚顔な粋人をも飛びのかせるものになってしまう。」アイドルが俗悪に成る、というのは純潔の放擲かもしれない。あるいは、群像劇の破綻を迎い入れる笑顔。「俗悪とは、俗心の一類型ではあるが、よりはしたなく、あられもないものだ。俗はその人の、逃れ難い欲求のあらわれであるが、俗悪は、他人に、公衆に、受け入れられようとする欲望、というよりも衝動によって引き起こされるものである。」情動によって自家撞着的な言動を、醜態をみせてしまうのは個性ではあるが、山崎怜奈のそれが島崎遥香や堀未央奈のような個性と映らないのは、やはり虚栄心が野心を凌ぐからである。グループに群集する才能に対する下心の一種として露出する妬心は、野心ではなく虚栄心に加算される。「虚栄心からは、誰一人逃れられないが、それが俗悪としてあらわれるには、虚栄の断念が必要になる。つまり、洗練とか、趣味といった、虚栄の本質をなすような資質を諦める、視野に入らなくなる、関心をよせなくなるといった事態があってはじめて人は、俗悪を作り出し、引き受けることが出来るのだ。 その点からするならば、俗悪は、悪徳ではない、と考えるべきかもしれない。それは病ですらないかもしれない。それはむしろ、心の弱さであり、他者の承認、称賛への耽溺であり、そして何が何でも受け入れられたいという強い願い、祈りである。 俗悪を発揮する人たちは、自己の姿や、自己の成したものに盲目なのだ。」”何が何でも受け入れられたいという強い願い”があるのにもかかわらず、山崎怜奈が俗悪に成りきれないのは、他のアイドルが描く物語への再登場を放擲し、自己が主人公として描かれた物語の達成を看過しない倨傲があるからだろう。秋元康が作詞行為において語彙の再利用、再登場を繰り返すのは、グループアイドルに具わる通史性へのメタファーではなく、己の姿形や達成に”盲目”だからである。ゆえに、氏は俗悪なのだ。俗悪に成りきれない、というキャラクター性の把持、物語性の獲得、批評空間への入り口を発見されてしまうことによって、彼女が浴びる邪推に因る揶揄は、ユニークの獲得につながるが、その資質とは、山下美月の”頼もしさ”の先駆けであり、ファンが甘えてもたれ掛かるアイドルと評価できるのだから、やはり、矛盾した存在と云える。(*1)

 

総合評価 59点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 10点 ライブ表現 15点

演劇表現 11点 バラエティ 9点

情動感染 14点

乃木坂46 活動期間 2013年~

引用:(*1)「」福田和也/ろくでなしの歌

2019/03/24  再評価しました
2019/05/27 演劇表現 8→11

評価点数の見方