乃木坂46 与田祐希 評価

乃木坂46

与田祐希 (C)FLASHスペシャル グラビアBEST2018

「とても眩しい瞬間に、とても大事なものを見失う」

与田祐希、2000年生、乃木坂46の第三期生。
きわめて境遇に恵まれた人物であり、将来を嘱望される次世代アイドルの一人である。
これまでに獲得した人気は凄まじく、アイドルとして彼女が放つ輝きは、他のアイドルグループに所属する同世代のライバルたちをたじろがせ、闘う前に敗北を悟らせるのではないか。現代アイドル史においてトップクラスのビジュアルと処女性のたかさ、自分を構ってくれる人物に好意を抱いてしまうという共感性のある仕草から作り出されるストーリーは、ファンを自身の眠りを入り口に濃密な夢=イノセントワールドへ招待し没入させることに成功している。異物感や信頼感という観点では弱さを隠しきれないが、そのヴァルネラブルは小畑優奈のようにアイドルとして古典的な魅力を湛えている。継承の意で、西野七瀬の正統な後継者として第一候補に挙げられる機会も多く、まさに将来を、未来を嘱望されるアイドルと云える。

しかし、人間とは『とても眩しい瞬間に、とても大事なものを見失う』のが常である。

鏡が見たいって言ってたよ その鏡子って言ったっけ、彼女さ
目が見えたら最初に、恋人のコオロギじゃなくて自分の顔が見たいってな
人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを見失う
はじめにこうしたやつがいる こっからこっちは俺の土地だと
おそらく、何千万年前の原始人の内の一人が
所有欲の始まりだ 金銭欲、名誉欲、欲と名のつくほとんどすべてが見える物だ
彼女はそれを見ずに済んでいたんだ だからおそろしく透明だった
人間の欲には際限がない とくに、あれだけの美貌を持ってることを知ればな

日本テレビ「世紀末の詩」

平凡な女の子がシンデレラストーリーを叶え、自身の美貌の価値の意味を知ったとき、欲に取り憑かれ、生来の輝きを消失させてしまうのは当然の成り行きなのかもしれない。普遍的で陳腐な物語というのは陳腐であるがゆえに通俗に囚われ、凡人であればあるほど、外郭の硬い通念の枠組から脱出できないものである。デビュー2年にしてすでに与田祐希の”おそろしく透明だった”素朴でナチュラルな魅力が彼女の内側から少しずつ、しかし確実に欠落していく光景にどれだけのファンが気付いているだろうか。また、与田祐希自身は、足音を立てずにしのび寄るクライシスにどこまでの自覚を持てているだろうか。2年という短い時間のなかで、その人間がもつ生来の輝き、資質が身悶えする光景すら見せることなく、ひっそりと喪失していく。ある意味では、与田祐希というアイドルは斜陽化する乃木坂46の無残な映し鏡と云えるかもしれない。

本来的には、未来の可能性として、現れたはずのみずからの娘を、過去の本質性の証として愛することは倒錯でしかないだろう。少なくとも、『エミール』以来、子供を未来へと開かれた、可能性として見ることに私たちは慣れてきた。だが、この母娘の関係を見ていると、その確信は少しく、揺さぶられる。これが、このような姿が、本当なのかもしれない。子供は親にとって、未来ではなく、過去の、しかも自らの過去と、そこを通じて生じたすべての肯定としてしか存在していないのかもしれない。封建時代の、芝居じみた、仇討ちだけのために育てられてきた子供の凛々しさのようなものこそが、本当の親であり、子であるものの関わり方であるのかもしれない。

福田和也「現代人は救われ得るか」

乃木坂46・第三期生の悲劇、それはグループにとっての「子供」である彼女たちがエミール的な未来であると同時に、グループにとっての「過去の本質性の証」として扱われてしまった点にある。グループの通史=イデオロギー、つまり過去を証明するためのギニョールとして機能することで”はじめて”ファンは彼女たちを認め、少女の演じるアイドルの日常(青春犠牲)を、存在理由を満たしてやるのである。それは”個”と決定的に切り離された行為である。彼女たちは個性を求め彷徨うことを禁じられている。彼女たちが本篇とは隔たったまったく別のあたらしい物語を描こうとしても、それは過去の否定とされ、致命的な裏切り行為として、ファンは怒るのである。『それは、乃木坂らしさではない』と。つまり第三期生はファンの想像力の枠組みの範囲内でしか活動を許されないのである。唯一、大園桃子がそのような事象の外側で独り嗤うが、ファンは彼女を異端児と見做し、意識的看過をする。(*1)

『逃げ水』において架空の世界への扉を大園桃子と同時に開けた与田祐希だが、彼女からは大園桃子的な異物感や豊穣な物語性を投げつけられる場面は一度もない。それはやはり、彼女が、与田祐希というアイドルの虚構が「過去の本質性の証」として完全に成立してしまった所為だろう。グループの過去の証であると同時にグループの未来を担う存在としてアイドル・与田祐希が作り上げられてしまった。この浮遊感と束縛が彼女から個性を感じ取れない要因と云えるだろう。フィクションを作り物語ることに意識的である一方で、どうやってもそれが空回りして見えてしまうのは、彼女の背負う浮遊と束縛が真実(素顔)を伝えるための嘘の準備を阻むからだ。少女のちいさな躰から感情が溢れ、涙がつくられても、もらい泣くことがないのはそこに素顔を発見する余地がのこされていないからである。情動の感染に理由付けなど必要ないが、彼女のみせる情動を前にすると観者はとりあえずの過程を探ってしまう。そのような洞察によって生まれる光景は、自ら逃げ場のない道を選択して行き止まりに打つかる実験マウスを眺めるような虚しさを観察者に抱かせる。乱暴に云ってしまえば、与田祐希は、乃木坂46の第三期生のほとんどは、その知名度や獲得した人気の証明を裏切るように、アイデンティティを提示する物語を把持していない。読者は彼女たちが書く物語の主人公の性格を知っているつもりで実はまったく知らないのだ。アイドルと成長を共有しているように見えるが呼応していない。この穏やかな絶望が示す結実とは、物語への興味を失われた際の反動、つまり失望だろう。(*2)

「生まれ変わる瞬間(夜明けまで強がらなくてもいい 編)」

西野七瀬の後継者(逸材)と目されるほどの人物が、デビューしてから西野七瀬と共に過ごした時間に与えられた財産を少しずつ切り崩しながら今後のアイドル人生をおくることになるのではないか、と危惧の念を抱かずにいられないのは、なんとも殺風景な話であるが、平成が終わり、令和が始まり『夜明けまで強がらなくてもいい』を演じ、身も心もぐったりとくずれ落ちるように「希望はどこにある?」という問いが発せられた「瞬間」、昨日まで「当たり前のように」存在した輝きを喪失する、アイドルの儚い「命」を「無駄遣い」する与田祐希の物語がこれまでになかった楽曲との融和を達成し、「眠れなくなるほど不安になる」虚構と響き合うことによって立ち居振る舞いではなく姿形のみを賛美されるアイドルから脱却し、都会のひかりに囲繞され欲に染まっていく人間の証しを握りしめるように「ヨロヨロと立ち上が」り、秘めた憤りによってグループの過去の証しであると同時に未来の希望でもあるという束縛に持ち込まれる苦悩が一気に壺にはまり、きわめて濃密な物語性を獲得した感がある。日常で獲得したアイドルとしての輝きを楽曲の世界で零す貧弱さによって打ち消してしまう過去の物語の展開を転向するように、『夜明けまで強がらなくてもいい』においては豊かに感情をひそめながら日常の輝きを上回る醒めた強さを描いている。それを西野七瀬的な幻想への”成り切り”と捉えるのならば、与田祐希にあたらしい境地がひらき、これまでに展開された批評空間のすべてを転覆する、グループにおいて唯一強い主人公感を持つアイドルへと、孤閨をそなえた人物へと成長したと云えるだろう。成長共有の観点から、目が離せないアイドルに「生まれ変わ」った、と云えるだろう。(*3)

 

総合評価 67点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 17点 ライブ表現 9点

演劇表現 14点 バラエティ 12点

情動感染 15点

乃木坂46 活動期間 2016年~

引用:(*1)(*2) 福田和也「現代人は救われ得るか」
(*3)、見出し3 秋元康「夜明けまで強がらなくてもいい」

2018/11/01  ビジュアル 18→16
2019/08/09 演劇表現 12→14 ビジュアル 16→17
2019/09/06 加筆しました 情動感染 8→13
2019/10/18 加筆しました ライブ表現 7→9 情動感染 13→15

評価点数の見方