乃木坂46 夜明けまで強がらなくてもいい 評価

のぎざか, 楽曲

夜明けまで強がらなくてもいい ジャケット写真/乃木坂46公式サイト

「夜明けまで強がらなくてもいい」

楽曲、歌詞について、

24枚目シングル。センターポジションには遠藤さくらが立つ。
自己啓発=自我の模索劇というグループの物語の作り方、アイドルの作り方あるいは有り様を強く意識して書かれた楽曲に見える。「夜明け」をアイドルの世界への入り口として歌っているのだろうか。「希望」という表現が用いられたのは、表題作においては『君の名は希望』以来になるはずだが、「希望」=アイドルとして語った前作の物語に鑑みれば、また「蛇口」や「命」「太陽」といったグループのメモリーの多用を見るに、今作『夜明けまで強がらなくてもいい』で登場する「希望」とは、より明確な輪郭をもったアイドル、つまり乃木坂46のことを具体的に指しているのだろう。そうした意味では、屈託を抱える少女が希望をつかむようにグループアイドルになる、乃木坂46と出遭う、という物語=アイデンティティの探求を簡明に記した、センターに立った少女の、アイドルになる前の、前日譚と読み、想像を膨らませることが可能。
ただ、この詩情を読み、まず見いだすのは、あたらしくグループに登場したアイドルを意識することで未来に踏み込もうとする活力ではなく、過去と未来の間隙を埋めるような、物語を結末へと導く際に発見した欠落部分を埋めようとする散文へのこわだわりである。クリシェをアイデンティティにする作詞家・秋元康が、しかしこれまで「希望」の再利用だけは頑なに行わなかったことにどのような意味があったのか、『君の名は希望』の達成の保存を破った点にどれほどの価値が見いだせるのか、検証の余地が尽きない歌詞となっている。これまでに、とにかく書き尽くした絶対に移動しない”僕”を、次世代アイドルの群像を描くために安直に移動させるのではなく、移動をしない理由、移動できないのは何故か、この自縄自縛を穿っており、作詞家が従来の殻を破ろうとする姿勢がうかがえる。
おそらく、『夜明けまで強がらなくてもいい』は、「君」を喪失したあとの「僕」が、孤独ではなく絶望に戻った物語である。もちろん、この「僕」とは、校庭でボールが転がってくるまで、そこでじっと座っていた、あの「僕」である。「希望」の存在に気づいた「僕」の後日の話が『何度目の青空か?』であるならば、「君」を喪失して校庭に再び座り込み、水道の蛇口から水がこぼれるのを眺める「僕」が、その胎動から移動するための衝動や動機を掴み、『何度目の青空か?』を『君の名は希望』の続編として成立させた理由を、欠落を語ったのが『夜明けまで強がらなくてもいい』である。成長を続けるグループを前に、作詞家は一度過去に戻ったのだ。そして二つの過去=『君の名は希望』と『何度目の青空か?』の間合いに踏み込み、結末への欠落を埋めた。ここに散文への憧憬を見るわけである。
こうした詩作に対するある種の逆走を前に、論を急ぎ、飛躍させるのならば、つまりアイドルの成長共有とは決して不可逆的なものではない、ということを教えているのだろう。この、作詞家がアイドルへあてるメッセージが輪廻している点は、救済がある、と云えるかもしれない。なによりも、今作は、散文への憧憬を溢しつつも、しかし詩情そのものは詩的表現に満ちているところが良い。

ミュージックビデオについて、

グループの物語にあたらしい主人公を迎えたなか、サンプリング的な再登場=過去の再利用に頼った音楽のなか、不安定な秤のような人間喜劇を映像で描くも、構成そのものは作り手の安易な想像力の強さを露呈している。個の拡散、家郷の再構築といった筐体の抱える不安の輪郭は追えているものの、アイドルを演じる少女の写実には関心が持たれておらず、新鮮なアイドルから湧き出ているはずの鮮烈さが降りてこない。結果的に、楽曲に定めたであろう命題を裏切っている。
たとえば、今作品に散見する、演劇要求の余白部分に書かれる演者による”語り”とは、作り手の写実や批評ではない。それはあくまでもアイドル自身の仮装である。作り手自らがアイドルの現在(いま)を写実しないのであれば、完成した作品を、どこにでも転がっているリンゴの絵=模倣品と揶揄されても、甘んじて受けいれるほかにないだろう。あるいは西野七瀬のような、作り手にフィクティブな批評と呼べる水準の行為を強いる原動力=豊穣な物語性を具えるアイドルが現在の乃木坂46に伏在しない事実への皮肉の結晶として、この”写実の欠如”があるのかもしれない。これはまず間違いなく今後のグループの課題になるはずだ。

桜井玲香を端境の登場人物として強く描いている点、グループアイドルの連なりを真剣に扱っている点は良い。この世に生を受けたときに泣くのなら、物語が、アイドルが生まれ変わる瞬間にも、やはり涙は流されるのだろう。だが、その要(かなめ)の”涙”によって感興を殺がれるのだから外連がうまくいっていない。目まぐるしく変わる映像、それが場面展開の豊富さや個性の発揮に映らず、ただの継ぎ接ぎにしかおもえないのは、ほとんどの演者が仮構のなかで呼吸する住人、つまり架空の世界を右へ左へと動く、物語の登場人物としての個人の内面を表出する構図を作れていないからだろう。乱暴に云ってしまえば、アイドルたちのほとんどが楽曲に対し個々にその存在理由を把持していない。だからか、この映像を眺めるファンは、そこで流される涙の理由を探ってしまう。”彼女”は何故そこで泣いているのか、必要のない動機を求めてしまう。
そのような嘆きの裏で、松村沙友理の笑いは、本物の嘲笑いである。間違いなくキャリアハイにあり、いたずらに鮮やかで、いたずらに咲いている。つまりそれは彼女の日常であり、日常を演じる人間の、その「過ぎ去った一日」の再現である。また、与田祐希も俗物として振り切れたのか、翳りを作っており、立ち居振る舞いや仕草ではなく姿形のみで満足されるアイドルを脱し、都会のひかりに囲繞され欲に染まっていく人間の証しを握りしめるように、秘めた憤りによってグループの過去の証しであると同時に未来の希望でもあるという束縛に持ち込まれる苦悩が一気に壺にはまり、濃密な物語性を獲得した感がある。楽曲が抱える瑕疵と彼女の瑕疵が遠く響きあっている点も興味深い。つまりこの与田祐希の表情・転向こそ今作品の魅力の核心なのだろう。この映像はアイドルへの写実こそ欠如するが、作家の想像力によって編み上げられたアイドルの顔=ファンがこれまでに見知ったアイドルの表情とは異なるもの、を描けており、再視聴へのたしかな希求をもっている。

 

 総合評価 73点

現在のアイドル楽曲として優れた作品

(評価内訳)

楽曲 15点 歌詞 15点

ボーカル 16点 ライブ・映像 14点

情動感染 12点

歌唱メンバー:生田絵梨花、白石麻衣、松村沙友理、桜井玲香、梅澤美波、山下美月、与田祐希、北野日奈子、秋元真夏、久保史緒里、高山一実、星野みなみ、新内眞衣、遠藤さくら、筒井あやめ、齋藤飛鳥、堀未央奈、賀喜遥香

作詞:秋元康 作曲:山田裕介 編曲: APAZZI

   

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