乃木坂46 松村沙友理 評判記

「目に見えるものが、ほんとうのものとは限らない」
松村沙友理、平成4年生、乃木坂46の第一期生。
きわめて独創性の豊かなアイドル。ユニークの称号を授けるアイドルを1人選べと問われたら、私は迷わず彼女を選ぶだろう。乃木坂46の第一期生としてデビューし、すでに7年以上経過するが、ビジュアル、モチベーション、ともにまったく衰えを知らないのは、アイドルを演じることの気分に、きわどい充実感があるからだろう。
このひとは、アイドルを眺める者をして、その価値観を根底から覆されるような、想像力を先回りする、ひどく不安定な、緊張感を孕んだ笑顔と言葉を編む。強烈な自意識のもと発揮されるそのウィットの針は、眼前にどのような自家撞着の壁が現れようとも、いとも容易く貫通し、多事多難を発生させる。作家性に優れ、白痴のような偏執を描くアイドルだが、その非日常化に成功した日常風景を、映像作品という仮構の内でも躊躇なく再現してしまう力量をもつ。”日常を演じる”という行為に対し、非凡の才をもっている。
「…我々の人生においては、現実と非現実との境目がうまくつかめなくなってしまうことが往々にしてある、ということです。その境目はどうやら常に行ったり来たりしているように見えます。その日の気分次第で勝手に移動する国境線のように。その動きによほど注意していなくてはいけない。そうしないと自分が今どちら側にいるのかがわからなくなってしまいます。私がさきほど、これ以上この穴の中に留まっているのは危険かもしれないと言ったのは、そういう意味です」
村上春樹 「騎士団長殺し 第一部」
アイドル・松村沙友理を語る際には、その横顔をなぞる際には、おそらく誰もが、あの「突然に鳴り響いた雷」について、月の裏側に独り取り残された孤独と憂鬱、「居場所」を完全に失ってしまった彼女の屈託について、どのようにして触れるべきか、逡巡するのではないか。
現在(いま)、松村沙友理を前にして、我々が眺め、闖入できるのは、彼女が作り上げる眩暈のするフィクションのみである。我々は、彼女の本来の日常、つまり素顔に触れることはできない。
目に見えるものが、ほんとうのものとは限らない。あの日、仲間の呼ぶ声を、「探す声を聞いて道に戻った」のは、”アイドル”の松村沙友理だけであった、ようだ。日常を演じ、少女が作り出すアイドルの住む世界=虚構、ここではないどこか、その架空の世界と現実世界を行き交う少女の横顔をなぞる行為こそ、アイドルの物語化、なのだが、あの雷鳴が響いた瞬間から、松村沙友理は虚構の内側から一歩も足を踏み出ない。空扉は、閉じられたままだ。今、我々ファンの目に映るのは、アイドルの松村沙友理、のみである。
清楚、純潔、なるものをアイドルの魅力の大部分として打ち出し、見事にシーンの主流となった乃木坂46にあって恋愛スキャンダルにまみれるという、事態によって、恐ろしい不安に苛まれ、あらゆる希望を失い膝を抱えていた時間があまりにも永かったためか、彼女は”現実と非現実との境目”を不分明にしてしまった、ようだ。
彼女の狂態とは、虚構(うそ)を付くという行為によって映し出されるのではない。フィクションの世界を現実の世界だと妄執するしかなくなった人間が、その仮想の窓からこちら側に向けて笑うから、その姿が狂態となって我々の前に立ち現れるのだ。”こちら側”の松村沙友理は、今、どこに居るのだろうか。未だ、月の裏側で独り、宇宙(そら)を見上げ茫然自失しているのかもしれない。*1
キャリアの途中で挫折を経験し、めぐまれた資質を持つにもかかわらず、訪れるはずだった黄金期を見失ってしまうタイプの人間は様々な分野で存在する。けしてめずらしい話ではない。
しかしその挫折がより通俗的後悔をまとう類いの出来事だったとき、取り返しがつかないほど汚れてしまった自己を前に、アイドルというジャンルに身を置く少女は果たしてそこから立ち直れるのだろうか?これまでと同じ場所で以前と同じように笑えるのだろうか?きっと、何かに依存しないかぎりは自我を保てないのではないか。虚構とは、そこに留まったままの人間をどのような場所に導き、どのように成熟させるのか。未成熟な果実のまま腐らせてしまうのか。これは当然、これまでも、これからも、アイドルシーンに頻出する問いであり、その問いに直面するアイドルでありながら常にシーンのもっとも眩しい場所に立ち続ける松村沙友理は、ひとつの明確な答え(物語)を提供してくれるはずだ。そう、このひとは、アイドルを眺めることでなにか考えさせる、思考させる、という希求力をそなえているのだ。つまり皮肉にも、あの雷は、あの憂鬱は、彼女の存在そのものをある種の純文学性を宿したものへと伸展させてしまったのだ。
妄執を現実にすり替え、その姿を画面に映し出してしまった映画の主人公の目線を、かれら彼女らの語る言葉を、その物語を最後まで信じられないのと同じように、松村沙友理の作る物語・笑顔はけして少なくはない数のファンを苛立たせ、不安と不信で支配する。
それはきっと、我々が覚えている”本来の彼女”を、外でもない、アイドル自身が忘却しているから、なのかもしれない。あるいは、彼女の一貫した姿勢、恋愛スキャンダルという通俗的リグレットをアイドルの物語化に還元することを頑なに拒むその姿勢を、過去に対する反動のすり替えだと錯覚してしまうのか。しかしおそらくは、この錯覚(妄執)の提示こそアイドルが文学と通い合うことへのもっとも明確な徴になるのだ。
「松村沙友理」は今日も現実の枠組みと虚構の枠組みが激しくぶつかりあうような、危ういダンスを、融けてなくなった氷の上で踊りつづけている。
「みっちゃん」
「うん?」
「みっちゃん、あたし狂ってる?」
「そんなんいったら、この街の女はみんな狂ってる。あたしらずっと世間さまの注文してきた女をやってきたんよ。これからはすきにさせてもらお」
西原理恵子 「パーマネント野ばら」
総合評価 78点
アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物
(評価内訳)
ビジュアル 15点 ライブ表現 12点
演劇表現 16点 バラエティ 19点
情動感染 16点
乃木坂46 活動期間 2011年~2021年
引用:*1 秋元康/悲しみの忘れ方
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