乃木坂46 しあわせの保護色 評判記

「Someday We’ll Be Together」
歌詞、楽曲について、
【またいつの日にか】
デビュー50周年(2012年時)を迎えたガールズ・グループ、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス。ダイアナ・ロスの脱退によりダイアナ・ロス&シュープリームス名義の最後の作品となった1969年発表のアルバム。 (C)RS
「乃木坂46 8th YEAR BIRTHDAY LIVE ナゴヤドーム公演」、最終日、余韻と期待が交錯するライブ会場に「しあわせの保護色」が降った瞬間、ドラッグストアのシャンプーコーナーのような香りが鼻をかすめた。あるいは、それは私の隣りに居るライターらしき女性から流れてきた香りかもしれない。いずれにせよ、それが季節の記憶へのトリガーと機能するのは防ぎきれないだろう。
今日、あらためてダイアナ・ロスの自伝を読んだ際に、順位闘争に付随するディールのクールさや、夢に対する通俗や耽美を抽出し、彼女をグループアイドルへと無意識に重ねあわせてしまうのは、私がアイドルを演じる少女たちに没入しすぎた所為か。ダイアナ・ロスの姿形からアナイス・ニンのような痛みや過ちに満ちた、残された時間を大切に抱きしめるような刹那の寂寥を描出せざるをえない点も、アイドルへの投影があるのかもしれない。もちろん、そこにまず意識されシンクロニシティの二文字を刻み込むアイドルとは、アイドルの世界において文句なしの成功をつかむが、しかし同時に、当たり前の日常を、星空に手を伸ばしてつかもうとするみたいに渇望する、深い喪失感をうつし出す白石麻衣である。
わたしはあらゆる強烈な瞬間、あらゆる楽しげな瞬間、生のあらゆる瞬間に参加したいと願ってやまなかった。泣いたり笑ったりする女になりたかった。みんなの眼の前で色っぽく接吻される女に、胸に花をもらう女に、男の手を借りてバスに乗る女に、窓から身をのり出す女に、結婚する女に、子供を産む女になりたかった。
アナイス・ニン / アナイス・ニンの日記
「ダイアナ・ロス」の「プライメッツ」からの脱退、ソロ活動までのサクセスを、「しあわせの保護色」と「白石麻衣」の卒業へ引用したのならば、なんとも大胆な行為だ。ただ、この「大胆さ」をまえに受け取る、アイドルの物語をなにがしかの文芸作品や偉人の引用をもって語る場合に抱く気恥ずかしさとは、アイドルシーンにどこか真面目になれない、真剣に接触できない躊躇の現れだと自覚せねばなるまい。たしかに、これを避けることはむずかしいようにおもう。つまり、グループアイドルとは、果たして真剣になるほど価値のあるコンテンツなのだろうか?という疑問に、少女たちが提示するコンテンツにどこまで真面目になるべきなのか、といった覚悟の要求にも似た問いかけに、作り手からの明確な引用行為によってあらためて直面させられたのだ。
そのような意味では作り手から大胆な引用が示されたことには、やはり可能性を見い出さざるをえない。黒人の地位がまだ低かった時代にシーンの最高到達点にタッチしたダイアナ・ロス。日本の芸能界におけるグループアイドルの地位、世間から、ファンから、そこに投げ続けられる嘲笑と揶揄。白石麻衣の卒業楽曲にダイアナ・ロスの「Someday We’ll Be Together」が引用されたことには、作り手から強烈なクリティークが贈られているのではないか、と想像せざるをえないわけだ。
引用の希求・可能性とは一体どのようなものだろうか。
たとえば、巧妙に仕掛けられたウソの裏側に置かれた真実に到達したとき、そこで手にした真実は”彼ら”にとって絶対的な結晶になる。引用にもおなじような企みがあり、主体に対する比喩として引かれた文章のなかに、主体とのつながりを発見したとき、読者は感興を覚え、主体と引用という、ある意味では現実と仮想と呼べる関係性に引かれる境界線を、自ら不分明にしてしまう。権威性に縋っただけの文章と捉えていたものが、独立した物語と映り、呼吸をはじめる。
ダイアナ・ロスを引いた「しあわせの保護色」をまえに、ファンが発見し獲得するのは、「しあわせの保護色」が「サヨナラの意味」と共時する、人生のあらゆる分岐点を別れとは捉えない、”僕たち”はまたいつの日にかかならずもう一度出逢うと約束する、魂の物語であり、現代でアイドルを演じる人間とそのファンを映した卒業ソングだという現実と仮想の不分明である。
このようなフィクションを構築したのちに、「しあわせの保護色」をあらためて聴き、”僕にできることは君にヒントを出すこと”、この科白につき当たると、なるほど、たしかに名残の感情が描き出され、静かな感興が生まれる。白石麻衣が描いたアイドルの偶像へと、ゆっくりと確実に近づいていけるように錯覚する。現代アイドルポップスとして、きわめて優れた一枚に感じる。
アイドルに対するファンの妄執を作り手が原動力にすり替えてフィクションを作る。アイドルの物語が語られる。そこに発生する再会や邂逅がもう一度ファンにアイドルを妄執させ、あたらしい物語が生まれる。この循環こそ、グループアイドルシーンの根幹に渦を巻く不気味な希求力と云えるのではないか。そして今作においてはその希求を引用によって実現しているのである。
二十世紀以降の、前衛的な小説家たちが試みた実験は、はたして継承可能だろうか。それは、実験であり、野心的な試みであったためにまた、唯一度しか試みられえないものではなかったか。
前衛的な試みが継承不可能であるのは、何よりもそれらの実験が、小説の、テクストの破壊破裂を目的としていたがためにほかならない。
もっとも唯一、継承され、発展したと呼べる手法がないではない。
引用である。
そして、引用が、今日さまざまな領域でいよいよ隆盛を誇っているのは、何よりも引用が、すぐれて統一性と同質性を徹底的に破壊するための技術であるからだ。
現代文学 / 福田和也
「唯一度しか試みられえない」、「前衛的な」存在が平手友梨奈ならば、「前衛的な試み」でもなく保守でもなく、「継承され」える「引用」とは、グループアイドルとしての、乃木坂46としての、つまり人間群像のなかに立つ白石麻衣のことだろう。「僕のこと、知ってる?」の詩的世界の構築や、今作品において引用という手法を白石麻衣と響きあわせた点から、作詞家・秋元康の内で「白石麻衣」というアイドルがなんらかのつよい原動力となって、あるいは身勝手な憧憬となって鼓動をしているのは間違いない。とくに、「sing out!」以降、乃木坂46へあてた楽曲の詩的世界、そこに提示された虚構の底に「継承」への遠景が頻出している点からも、氏のなかで白石麻衣が明確な端境期の役割を担う登場人物と描かれ、原稿用紙の上を歩いているようにみえる。もし、作詞家・秋元康が白石麻衣のような清潔で完結したアイドルに向けてフィクティブへの衝動を宿すのならば、その行為自体がグループアイドルシーンの端境と呼べるのではないか、とおもう。
君たちがそうやって、同じひとつの純粋さ、ありとあらゆる人間的感情で結ばれているのを見ると、君たちが将来も別れわかれになることなんかありえないなって、おれには思えてくるんだ。
バルザック / ゴリオ爺さん
グループアイドルの「卒業楽曲」を語る際に、少女たちが描く群像への感傷と郷愁は避けられない。グループアイドルの物語を群像劇と呼ぶ際に、当然、書き手はその根拠を示さなくてはならないはずだ。彼女たちの作る演劇を安易に群像と記し、共感を募る人間は多い。しかし、”彼ら”はそれを説明することができるだろうか?おそらく、無知で無邪気な”彼ら”に事細かく教えてやる、ではなく、啓蒙し、ヒントを出す試みが引用であり、”彼ら”に思考経験を与えるのが引用のメタファと置かれた「保護色」なのだろう。
人間群像や人間喜劇の手法をはじめて構造化したのは云うまでもなくバルザックであり、バルザックの人間喜劇、人物再登場、つまり群像劇の要が「ゴリオ爺さん」である。ここで「ゴリオ爺さん」を完結した小説(フィクション)と捉えるとき、白石麻衣の物語を引けるが、一方で、「ゴリオ爺さん」に登場するラスティニャックやヴォートラン、レストー夫人等がべつの小説では本篇の主役と書かれ、あるいは、もう一度端役となり、まったく異なる相貌をみせることもまた、乃木坂46を卒業する白石麻衣に重ねあわせられる。つまり、グループアイドルにとってのグループとは「ゴリオ爺さん」であり、彼が下宿するヴォケー館であり、人間が死ぬことに馴れたパリそのものである、ということだ。ゴリオ爺さんの虚栄に支えられた父性愛こそ、まさしく秋元康がプロデュースするアイドルを「推す」ファンの姿形へとつながる通俗であり、ヴォケー館を中心に描かれる人間喜劇こそ、グループアイドルがグループアイドルとして描く人間群像と名付けられる。ヴォケー館から拡散した「個」、ラスティニャックの成長物語やヴォートランの反抗思想、レストー夫人の幽居と遠く響きあう、グループアイドルがアイドルを卒業したのちに語られる、グループアイドル時代に描いた表情とはまったく異なる相貌こそ、少女たちが本物の人間喜劇を成立させる徴なのだ。
”言葉の真の意味で演劇的”に書かれた「ゴリオ爺さん」を読み続ける行為に疲弊し、ヴォケー館から、パリから拡散した登場人物たちの後日の物語が書かれた小説へと、馴れ親しんだ家郷から積極的に移動しようと抗うファンが後を絶たない点からも、シーンが端境期に入った事実が報されており、ダイアナ・ロスを引用した「しあわせの保護色」がそれを暗示しているのだ。ファンを常に子供扱いする作詞家・秋元康だが、白石麻衣を通過したさきに提示する虚構においては、他の作品と比較にならないほどの成熟の兆しをみせている…、この点は非常に興味深く、尽きない検証の余地を提出している、と云える。
総合評価 80点
現代のアイドルシーンを象徴する作品
(評価内訳)
楽曲 16点 歌詞 16点
ボーカル 16点 ライブ・映像 16点
情動感染 16点
歌唱メンバー:生田絵梨花、白石麻衣、松村沙友理、星野みなみ、賀喜遥香、新内眞衣、山下美月、久保史緒里、堀未央奈、大園桃子、遠藤さくら、岩本蓮加、与田祐希、北野日奈子、梅澤美波、井上小百合、和田まあや、高山一実、秋元真夏、樋口日奈、中田花奈、齋藤飛鳥
作詞:秋元康 作曲:MASANORI URA 編曲:武藤星児