乃木坂46 高山一実 評価

高山一実 (C)音楽ナタリー

「トランキライザー」

高山一実は乃木坂46の第一期生であり、現代アイドルが戦略的思考で作り出す冴え渡った献身的な「キャラクター」の雛型と云える人物である。無邪気な子供を燥がせる「ピエロ」の滑稽と不気味さ、隠し通せない「体臭」という意味では長濱ねると類似し、王道や正統と呼ばれる称号を生まれ持つアイドルたちを戦略的思考で凌駕してしまう存在として、松村香織、須田亜香里、谷真理佳等と同じカテゴリーに分類される。
西野七瀬、生田絵梨花を現代のアイドルシーンにおいて最高到達点に位置すると評した理由に、彼女たちの”普段着”の提供、”レット・イット・ビー”の達成がある。安易な日常の提出ではなく、倒錯したフィクション、「秘すれば花」の復元。『すでに六百年前に、世阿弥は「秘すれば花」と云った。ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしない』(*1)。アイドル(文芸)とは、虚構(もうひとつの別の世界)を作り上げる作業である。虚構の中に日常を、素顔をちりばめていくことによってはじめて、花が立ち現れる。このような幻想的な偶像=家郷の構築から、最もかけ離れた場所に立つのが「高山一実」である。

俯瞰を落下させ、「アイドル」とアイドルを演じる「彼女」の人生をひとつに通いあわせたとき、それは一冊の私小説と云えるのではないか。その私小説を、我々は、ファンは、ひとりの読者として評価する。アイドルは、一冊しか書けない。新人賞を獲っても、デビュー後、5年分のアイデアの保存がなければ作家としての生活を維持できない、文量=才能とされる「文壇」に身を置く者ならば、”一冊しか書けない作家”は才能不足と断じられるが、アイドルならば話は変わる。一冊しか描かくことができない才能(境遇)。一遍で枯れる才能。再現性のきわめてひくい私小説だからこそ、”儚さ”がある、と評価される。これは、乱暴に言ってしまえば、リリー・フランキーの『東京タワー』が現代文学の最高到達点と評される理由と同じである。奇跡との遭遇を果たす稀有な境遇と可能性をもった物語の主人公を陳腐な想像力に頼った「キャラクター」に仕上げてしまうのはもったいない、とどうしても思ってしまう理由がここにある。
日常を演じる少女が、「アイドル」が笑い顔をつくることは”事実を捻じ曲げる嘘”ではない。アイドルが嘘を作る本来の目的は、フィクションの助けを借りて、その裏側にある真実(素顔)にファンを到達させることである。しかし、キャラクターの構築を優先するアイドルは、高山一実という人物は、おそらく、一連の行為を、”事実を捻じ曲げる嘘”だと錯覚している。だから彼女は、キャラクター=嘘(フィクション)を作っても、それが真実を伝えるために用意された嘘として機能することがない。そもそも、伝えたい真実を有していない。

『トラペジウム』の仮構を純文学として成立させる、現代アイドルが書く小説でありながら時代の経過に耐える作品を上梓する唯一の手段に”私小説”があったはずだが、彼女がそれを否定し、戦略的で商業的なライトノベル(携帯小説)を描いてしまった背景には、やはり”作り笑い”に対する倒錯した意識があったためだろう。誰にも書けない物語を提出できる機会に、誰にでも書ける、どこへもいけない物語を書いてしまったのは、彼女がアイドルとして積み上げてきたものの中に、アイドル・高山一実の虚構の中に、”私小説”の材料となる”素顔”を、彼女自身にも見つけて拾い上げることができなかったからである。

-されば、まことに最後に思ひ出でむこと、かならず遂ぐべきなり。
今日は入滅という日に、寝床の中から弟子に命じて、碁盤を取り出させ、助け起き直らせてそれに向かうと…細い声で甥にあたる聖人を呼んで、呆れる弟子たちの見まもる中、念仏も唱えずに石を並べはじめる。たがいに十目ばかり置いたところで、よしよし打たじ、と石を押しやぶり、また横になる。

(吉井由吉「仮往生伝試文」)

多武峯の增賀上人の往生の話である。『甥の聖人がおそるおそる今の振る舞いの訳を聞くと、むかし小法師であった頃、人の碁を打つのを見たが、ただいま念仏を唱えながら、心に思い出されて、碁を打たばやと思ふによりて、碁を打ったのだと答えた。心得はないままに石をただ並べてみた。人が碁に興ずるところを、むかし、通りがかりにうち眺めたことがあるのだろう。それもおそらく、生涯でたった一度の関心だった(*2)』アイドルにとっての関心(演劇や絵画、執筆)とはこのような衝動でなくてはならない。往生の間際に「遂げん」と云って醜態(素顔)をみせるような、行為。
高山一実からトレーに載せて提出された醜態(素顔)は、橋本奈々未という”孤立”と対面し、彼女に「つくり声」について問われた際に流した涙くらいだろうか。あるいは、人狼ゲームにおいて斎藤ちはるに本質的な企みの”浅さ”を見抜かれたときの動揺も醜態(素顔)といえるかもしれない。しかし、どちらも能動的な姿態ではない。素顔を自ら晒せない高山一実は、多様性(バラエティ)の分野での資質が決定的に欠如したアイドルと云える。硬直し強ばった彼女の笑顔(ビジュアル)は、演劇、ライブ表現の分野でも足をつかんで放さない。橋本奈々未から提起されたこの問題を超克しようと試みる姿勢を彼女は一度もみせることがなかった。彼女は、メンバーのトランキライザー的な役割(ピエロ)を担うことで、それをアイデンティティとすることによって自我を保ち、アイドル像を屹立させてしまった。このまま、西野七瀬の目撃者という立場でアイドルの物語に幕を閉じるのか、西野七瀬がアイドルを卒業する時点で、高山一実自身もある意味ではアイドルを卒業するのか、あるいは、西野七瀬の欠落、西野七瀬からの解放によって、そこではじめて本物の”素顔”を見せるのか。アイドルとして、往生の際に、私小説を書こうと思い立ったとき、やはり、物語の主人公がターミナルキャラクターのままでは、その結末を豊穣な物語と評価することはむずかしいだろう。

 

総合評価 43点

辛うじてアイドルになっている人物

(評価内訳)

ビジュアル 11点 ライブ表現 7点

演劇表現 4点 バラエティ 7点

情動感染 14点

乃木坂46 活動期間 2011年~

引用:(*1)福田和也「作家の値うち」
(*2)吉井由吉「仮往生伝試文」

評価点数の見方