乃木坂46 川村真洋 評判記

乃木坂46

川村真洋(C)2019 YOUNG GUITAR

「歌を唄い続ける」

川村真洋、平成7年生、乃木坂46の第一期生。
現代のアイドル、つまりは夢見る少女が一箇所に集合したグループアイドルによって演じ作られるライブステージ、そこで編まれ表現される言葉は「生命を喪失している」という一般化された揶揄に真正面から立ち向かい、そして敗北した、アーティスティックな志向を有したアイドル、と呼ぶべきだろうか。乃木坂46の歴史にあっては、グループアイドルというジャンル、つまりは乃木坂らしさという文言に一切縛られず、ポップカルチャーそのものに呼応しようと試みた稀有な登場人物である。

現在の、もしくは現代のアイドルが立たされる「ライブステージの有り様」とはどんなものを指すだろうか。それはおそらく、アイドルの日常風景の延長、あるいはスピンオフに大部分を占められる場所、と云えるのではないか。歌や踊りを披露するその空間=ステージを、非日常と称する場合においても、その魅力の原動力にアイドル個々の日常の情報が下敷きにされているのはまず間違いない。要するに、ステージの上に立つアイドルを眺めることで「アイドル」に魅了されその魅力を知っていく、のではなく、ステージに上がる以前のアイドルの日常、いわば素顔のようなものをファンはあらかじめ情報として取得していて、そうした日常の情報の堆積の結実あるいは爆発として、ライブステージが準備されている。見知ったアイドルがステージの上で舞い笑いかけることに、その距離感の近さに、言い様もなく引かれ、興奮するわけである。
川村真洋がそうしたトレンドから自らの行動力で抜け出していたとは思わないが、トレンドに乗っているようにも見えなかった。このひとは、踊りが上手い。また、歌も別格に上手い。自他共に認める、ライブパフォーマンスの巧者、である。となれば当然、歌や踊りが自己の演じるアイドルのもっとも強い魅力だと確信していただろうし、そこにアイドルのアイデンティティを見出しただろうし、事実、そのとおりにアイドルを演じ物語を作っている。歌や踊りの技巧に「アイドル」の魅力を占めない多くのライバルたちとは独り異なる批評空間に立って、そこでライバルたちが獲得する賛辞とは別の、称賛を受けていた、と感じる。
ゆえに、川村の、グループに対する、アーティスティックな面での貢献度は計り知れない。
誰に求められたわけでもなく、それが宿命だと思い込み、歌を唄う、踊りを編み上げる彼女の姿勢こそ、芸術と呼べるだろうし、そうした試みはグループの作品の多くに影を落としている。たとえば、川村が表題作の歌唱メンバーに唯一選ばれた『気づいたら片想い』で表現されるアイドルたちのボーカルに並外れた希求力が宿っていることは内外共に評価の一致した事実だが、そこに川村真洋個人の貢献、歌声の働きかけがあることは、これもまた、もはやあらためて説明するまでもなく、一目瞭然である。
しかし当然と云えば当然だが、エンタメを振り捨てて強く過剰にアーティスティックに振る舞うことの、歌や踊りに没頭することの代償として、彼女は同期である乃木坂46の第一期生によって描かれた群像劇の主要場面からへだてられ、ターミナルキャラクターに終始している。アイドルとして、人気が出なかった。どんな場面でも笑顔を絶やさない、という姿勢を作り、それをしっかりとファンに教え、最後まで王道とされる「アイドル」を演りきった反面、深い意味を”持たない”微笑みを見せることは一度も叶わなかった。

日常の自壊にすら届かない空間で唄い踊るアイドルの表情を評価するのはむずかしい作業だ。
川村真洋の、アイドル個人としてのパフォーマンスを眺めれば、そこにはたしかにトレンドと径庭を作ろうとする無謀さスリリングさがある。自分にはこれしかないのだ、という、自意識の収斂がある。しかしそれは裏を返せばアイドルとしての物語を映すような、アイドル的香気を嗅がない、という意味にもなる。
作詞家・秋元康の手によって日々生み出される歌謡曲を舞うことによって、そのフィクションのなかで少女が人生の新しい局面に立たされ、それまでとはまったく別の、まったく新しい物語を描いていく、という興奮を、川村真洋は与えてくれない。川村の、グループアイドルらしからぬ歌声、多くの少女と一線を画するその歌唱を前に、驚き、心を揺さぶられる場面はたしかにあったかもしれない。だが、心を握り潰されるような不安を覚えたことは一度としてない。それはなぜだろうか。たとえば、歌唱力、この土台の上で川村と生田絵梨花を並べ、比較すれば、川村のほうが強いかもしれない。しかし一方では、川村のその歌声よりも生田絵梨花の歌唱表現のほうが遥かに多くのアイドルファンを魅了する、という事実がある。この倒錯にこそグループアイドルの魅力、いや、(川村真洋からすれば)あられもない本領があるのではないか。

歌が巧い。ダンステクニックがある。しかし表題曲の歌唱メンバーには選抜されない。この現実を前に葛藤し屈託を抱えるアイドルは、今日では、とくにめずらしい存在ではなくなった。川村真洋もそのような感情に、日々、囲繞されたようだし、乃木坂46にあっては、そうしたアイドルの代表格として常に川村真洋の名が挙げられる。彼女の作るアイドルの真のアイデンティティとは、歌や踊りではなく、この「葛藤」なのではないか、と言ったら、皮肉になってしまうが。
とはいえ、川村は、そうした葛藤の末に、人気獲得のために奔走し、挙げ句ファンの操り人形に自ら進んでなろうとする凡百の少女とは異なり、デビューから卒業するその日まで、一貫し自己の演じるアイドルのスタイルを崩さなかったのだから、この人はやはり、アーティスト気質の人、なのだ。
なによりも、この葛藤の壁のおかげで、アイドルが最も恐れ絶望する体験=不条理に、彼女は遭遇せずに済んだ、とも云える。例えば、与田祐希大園桃子遠藤さくら賀喜遥香といった逸材がアイドルとなってファンの目前に映し出された瞬間に巻き起こる、最高度の不条理に。
自身が所属するグループをアイドルシーンの頂きまで牽引し、実力と経験、どちらも豊富にあり、シーン全体を見回せば桁違いの豊穣さをもった物語を書き続ける百戦錬磨のアイドルたちが、「アイドル」の扉をひらきその幻想の世界に足を踏み入れたばかりの、書き出しの一行すら終えていない未成熟な少女に、アイドル「人気」で敗北する、一瞬で置き去りにされる、という不条理を、川村真洋は真に経験していない。
順位闘争とは、あらゆる社会の、あらゆる場面で描かれるものだが、アイドルグループにおける序列闘争の特質、おもしろさとは、それが「美」として映し出される点にある。ゆえに、うつくしい少女、がアイドルの扉をひらいてしまえば、その序列は覆される。その際の絶望は、計り知れない。
鏡を前に、壁を前に一人、歌うことに、また踊ることに日々没頭する川村からすれば、そうして降り下ろされる絶望は自己とはまったくの無縁のものであり、あいもかわらず、音楽に身を委ねられる。
このひとが辛辣をなめるのは、歌や踊りにおいて、その技巧において、打ち負かされるときだけだ。だから彼女は、アイドルとして、歌、ダンス共に尊敬こそ勝ち獲ったが、本当の意味で、心の内奥に落ちてくるような敗北感を味わった経験はない。だから、アイドルを卒業しても、かわらずに、ギターを弾きながら歌を唄うことができる。吠えることができるのだ。

 

総合評価 61点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 11点 ライブ表現 16点

演劇表現 9点 バラエティ 12点

情動感染 13点

乃木坂46 活動期間 2011年~2018年

2022/11/26  大幅に加筆しました

  関連記事

 

欅坂46 長濱ねる 評判記

「トンネルの彼方へ」 長濱ねる、平成10年生、欅坂46の1.5期生。日向坂46の ...

STU48 沖侑果 評判記

「ディアルキア・アイドル」 その場にいあわせた人間なんて、何が起こってるのかなん ...

STU48 谷口茉妃菜 評判記

「ブルーベリー&ラズベリー」 谷口茉妃菜、平成12年生、STU48の第一期生。 ...