乃木坂46 伊藤万理華 評価

乃木坂46

伊藤万理華 (C)大江麻貴

「これは何かのはじまりに過ぎない」

きらめく光とおびただしい群衆に満ちた、この広大な谷間がわたしを眩惑する。
だれひとりとして、わたしを知っているものはなく、みんながわたしよりすぐれている。わたしの頭はかき乱される。

スタンダール / 赤と黒『弁護士レイナの詩』

伊藤万理華、平成8年生、乃木坂46の第一期生。
「伊藤万理華」というアイドルの存在は、そのまま、現代アイドル史にとっての「純文学」と置ける。虚構と仮構の中でみぎへひだりへと動きまわる彼女の姿形はサブカルチャーでもポップカルチャーでもなく、純文学である。オーヴァーグラウンドを揶揄して嘲笑うアマチュアアイドルの自我を損壊させる”本物”のアンダーグラウンドである。彼女の作る「映像」は、まるで安岡章太郎の文章、たとえば『海邊の光景』を追うような、私小説的な疲弊感を観る者に与える。ありきたりで、多少の想像力すら要求されない、通俗的な映像作品が溢れるアイドルシーンのなかにあって、伊藤万理華の作り出す虚構はファンの想像力の外側に回り込もうとしてくる。

伊藤万理華×柳沢翔『ナイフ』において、仮装と錯誤という凝った仕掛け、フィクションを前に自我の仮死で応えるという、映像作品に対する高いポテンシャルを示し、『はじまりか』においては、叙情を抑制しリズミカルに流れる映像と科白、叙述の完成度をもって、アイドルが個性として標榜するもの、それが如何に他者の働きかけに左右されたものでしかないのか、シーンの不条理をあばきたて、現代アイドルの風姿をありのままにさらけ出し、『ナイフ』からはじまった”アイドルと演技”への可能性に向ける期待感を見事に結実させた。
たしかな才能とエネルギーが漲るグループ。正統的なアイドルと古典的なアイドルの集合。たしかに、アイドル史に名を刻むであろうキラキラとひかる少女たちに囲繞され、彼女の頭はかき乱されたかもしれない。しかし伊藤万理華の凄みとは、グループアイドルの枠組みにあって、そこに拘泥することなく、当たり前に生きること、笑うこと、哭くこと、葛藤と苦闘がもたらす絶望の明晰を受け入れ、理解し、それを映像世界において表現してしまえるセンスにあった。その横顔が描き出される過程、あるいは結末を「エトランゼ(異邦人)」と名付けられたのはややアイロニックなイメージを醸し出すが、彼女のセンスは仲間の苦悩を揺れ動かす救済力すら発揮したのだから、絆に憑かれた群雄のなか、独り、異なる閾に達し、アイドルを演じていたのは事実だろう。

「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかならないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外見から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」

白井浩司(カミュ / 異邦人)

伊藤万理華が乃木坂46のなかにあって「異邦人」として映った理由は、母の死の翌日に恋人と海水浴をしたり、映画をみて笑いころげ、人を殺害し、その動機について「太陽のせい」と答えるようなムルソー的な”センス”の持ち主であったからなのだろうか。「きょう、ママンが死んだ」というような科白が彼女の内から発生するとはおもえないが、たしかにアイドルを演じるという行為を前にして、彼女には独特な仮装仕掛けがあり、現実と仮想ではなく、まず虚構と仮構の行き交いを試みるようなフェーズを意図的に配置していたようにみえる*1
一般的なアイドルが虚構の内側に踏み込むための一歩と、伊藤万理華のそれは情況が異なっている。よりほぐして云えば、仮想空間において作り上げたアイドルを、そのまま現実の世界に移動させ物語化することを、伊藤万理華は不成立に終えている。虚構ではなく、現実と仮想のあいだ、仮構の内に彼女はアイドルを置き、呼吸するのである。◯と◯を半分まで重ね、そこに出来上がるもうひとつの空間、完全な現実でもなく、完璧な仮想でもない世界に暮らすアイドルとは、仮死はするけれど、”実際には”絶対に死なない登場人物と呼べるだろう。
伊藤万理華が演じるアイドルは、嘘で死ぬことがない。たとえば、松村沙友理のように虚構の中に立て籠もったまま死ぬ、といった危うい事態への予感を招かない。乱暴に云えば、伊藤万理華は、アイドルを演じる行為に切迫していない、ということだ。彼女はウソをつく行為を果たすための、乗りこえなければならない壁を最後まで乗りこえることができなかった。グループアイドルに染まるための”お芝居”がどうしてもできなかった。伊藤万理華が乃木坂46のなかで独特なセンスの持ち主=異邦人と映った本当の理由は、彼女だけ日常におけるアイドルの演じ分けを意識的に看過していたからだ。彼女が意識的に演技をしフィクションを作り物語るのは映像世界の中、仮構の内側のみであり、日常生活の流れの上においては、ウソをつく行為、”無いこと”を云ったり、”あること以上のこと”を表現したり、”感じること以上のこと”をファンに訴えるのを頑なに拒んでいる。こうした愚直さにムルソー的な”絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間”を感じてしまうのだろう。

だが、『はじまりか』において、映像世界の内で叙述される彼女の言葉、彼女の踊り、彼女の歌、そのアイドルの横顔のすべてから、これまで、映像作品の内でならば…、と演じられ作られてきたウソ、配置された仮装仕掛けの一切が排除された点は看過できまい。おそらく、それが彼女の演じる「アイドル」がたどり着いた境地であり、ともすれば平成のグループアイドルのカリカチュアなのだ。異邦人と映り、これまでのアイドルとはまったく異なるアイデア、センスをもって映像作品を作り上げてきた彼女も、所詮は、グループアイドルという枠組み、丸い円のなかで揺いていたに過ぎない。だから、その丸い円の内に発生した物語をはじめから最後まで、ありのままに叙述した。それが、現代アイドルシーンの映し鏡となり、文学になった。時代を先回りして迎え撃つ、ではなく、”来るべきものの側”となった。今日、異端と持て栄される欅坂46のコンセプトに伊藤万理華の物語が再利用されているのは云うまでもない。平手友梨奈のプロトタイプこそ「伊藤万理華」であり、欅坂46の作り出す楽曲、その映像世界の設定は伊藤万理華の手によって黒板にチョークで何度も殴り書きされた構図であり、アイドルの閾である。
なによりも、驚嘆すべきは、『トイ』におけるフィクティブな企みが顕著だが、伊藤万理華は、奇跡との遭遇によって自身の可能性の空白がアイドルという虚構に埋め尽くされることを許可しておらず、彼女の懐から落とされた物語は序章でしかなかった、”アイドル”は何かのはじまりに過ぎなかった、という事実の提示がなされている点にある。

 

総合評価 83点

現代のアイドルを象徴する人物

(評価内訳)

ビジュアル 16点 ライブ表現 17点

演劇表現 18点 バラエティ 15点

情動感染 17点

乃木坂46 活動期間 2011年~2017年

引用:*1カミュ/異邦人/窪田啓作 訳

   

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