乃木坂46 山下美月 評価

乃木坂46

山下美月(C)ザ・テレビジョン

「坂の上の雲」

山下美月、平成11年生、乃木坂46の第三期生であり、11代目センター。
前田敦子の系譜に与し、おなじく前田の系譜に連なる生田絵梨花にならうように、常に「センター」を待望されるも、しかしその期待になかなか応えない、資質と才幹が描く憧憬を裏切るアイドルの一人。これまでに獲得した人気の裏付けを放棄するように、身勝手な信頼感を破断させる脆弱さ、物語性の欠如といったアイドルの存在理由に対する深刻さを抱える人物であり、たしかに、前田敦子の屈託と遠く響きあっているようにみえる。さらに云えば、山下には大島優子的な活力=エロチシズムも具わっており、まさしく、グループアイドル特有の系譜図、その魅力をもっとも簡明に教えてくれるハイブリッドアイドルと呼べる。
グループアイドルとして文句なしの人気を獲得したのにもかかわらず物語性が欠如している、この奇妙な倒錯の所持から、山下美月は、あたらしい局面を迎えつつあるグループアイドル史を考えるうえで、思考や検証の寄す処となる重要な登場人物と云えるだろう。山下美月が前田敦子や生田絵梨花と決定的に異なるのは、彼女がグループの黎明期を生き抜いたアイドルではなく”新時代”のアイドルという点である。

真之は、よく、自分は新時代のうまれだから。と、いった。 新時代というのは、真之が明治元年うまれであるという意味であった。だから自分たちは頭があたらしいという意味ではなさそうで、むしろ卑下するときに使った。武士というものがなくなる時代にうまれたため、武士的な素養をあまり身につけていない、という意味のことをいう場合につかった。真之だけでなく、かれの世代の連中は、旧式な人間を軽侮する一方、同時に典型的武士像というものへのあこがれをたいていがもっていた。真之が、広瀬武夫を生涯の友人であるとしたのは、広瀬が自分と同世代の人間ながら武士的教養をもち、懸命に武士であろうとしたところに魅かれたといえるであろう。真之*1は、東郷*2をそのような範疇の人間としてみていたし、乃木*3をさらにいっそうそのような目でとらえていた。

司馬遼太郎「坂の上の雲・四」*1秋山真之 *2東郷平八郎 *3乃木希典(引用者による注釈)

乃木坂46の第三期生にとって、第一期生が身にまとうイデオロギーと、彼女たちを取り巻く声量は、やはり、手の届かないあこがれに映るだろう。アイドルグループの第一期生の描く物語と、第二期生以降の書く物語には決定的な隔たりがある。万年筆で原稿用紙に文章を書いていた時代の小説と、キーボードへの打ち込みによって表示された文章に、言葉では簡単に説明することのできない「違い」があるように、彼女たちが書く物語の表情も異なる。ファンとの共闘性、共鳴性、共有性もまた、安易には比較できない。
橋本奈々未深川麻衣の物語性が象徴するように、グループの黎明期をアイドルと共に生き抜いた経験を自覚するファンの多くは、アイドルが虚構から去ったあとも、”彼女”との想い出を忘れられず、いつまでも幻想の中に漂うことになる。彼らは、”彼女”の姿形をまぶたの裏に描き、いつまでもノスタルジーに浸っている。
新時代のアイドルは、この家郷が作る郷愁の提示を決定的に欠如する。まるで、風に吹かれて揺れる木の枝や葉の裏側から次々と飛び立つアオバハゴロモのように、少女たちは物語性を獲得できぬまま、消費され、忘れ去られる。その儚く虚しい輝きが散乱する光景のなかで、懸命に葉にしがみつく者がいる。広瀬武夫が武士であろうとしたように、山下美月もまた「乃木坂46」であろうと苦闘しているのだ。女優への渇望を抱き、アイドルというジャンルに憧れを描かなかった人間だからこそ、アイドルを演じる日常を手にした現在、先人の到達点にタッチしようと踠くのだ。

短い距離感をなぞる共時性においては、山下美月が前田敦子、生駒里奈、生田絵梨花等の系譜に立つのはまず間違いない。もちろん、姿形やキャラクターといった外面的な資質だけではない。アイドルの物語化を前にして与えられる役目、大仰に云えば、使命、定め、イデオロギーについて、である。この系譜が描く特別な連なりとは、カラカスの夜、バリオの夜景のように、才能もなにも持たない人間たちが、苦渋に満ち、傷だらけの絆を握りしめながら自己の超克を試みる物語、つまり、原典=奇跡との遭遇を果たす光景への回帰を想わせてくれる。とくに、生田絵梨花に課せられた、アイドル界を牽引する使命、この身勝手な期待感は彼女の唯我独尊的な性向によって脆くも打ち砕かれた。唐突に失われた、空中に漂ったままの期待感を吸い込み、仕舞う傀儡として、新時代を生き抜く山下美月が求められ、少女の演じる「アイドル」の存在理由が満たされて行くのは「業」と受け入れるほかないだろう。
山下に期待される物語とは、生駒里奈を主人公に描いた『君の名は希望』、その続編として、生田絵梨花を主人公に据えた『何度目の青空か?』、この2作品の次回作、第三部にあたる物語だ。彼女の歌声はアイドルポップスというジャンルに響き合い、つよく呼応し、きわめて濃密な憧憬を作り出しており、生駒里奈、生田絵梨花の物語に連なる登場人物として、文句なしの胎動を伝える。

この文句なしの「希望」を伝える山下美月に対する不安、換言すれば、捨てきれない懐疑を敢えて挙げるとすれば、意図してか、あるいは生まれ持った性質か、心の重い闇を裸にするような立ち居振る舞いがとれない点だろうか。このひとはとにかく、ファンの前で自身の素顔を提示する、これを頑なに拒んでいるように見える。素顔を隠蔽する、日常の匂いを可能な限り排除することがプロ意識であるという前時代的なこだわりがアイドルを小ぶりにしてしまっている。たとえば、彼女の作るアイドルのキャラクターでもある”あざとさ”、これはアイドルとしての人気を獲得するための有効な手段であると同時に、素顔を隠蔽するための、自身の生身に傷をつけないための、もっとも有効なバリアと云えるだろう。
”あざとさ”をアイドルの得物にする少女は多い。だが山下の場合、そのバリアが一種の「頼もしさ」に映ってしまうのだから、悲劇かもしれない。この「頼もしさ」とは裏を返せば、大衆の期待や要求を支えにした砂の城であり、その支柱の崩落を避けるためには、常に民衆へ過剰な配慮をしなければならない、というクライシスを内在する。民衆の声ほど不安定で裏切りに満ちたものはない。
称賛と裏切り、表裏一体の支柱。たしかに、そのような幻想の完成は、乃木坂46の物語においては前例がなく、頼もしく感じる。逸材と喧伝される同期のライバルたちがアイドル特有のお決まりの隘路に迷い込み嘆くのを傍目に、常識が通用しない場所で常識を求められ、日常の演劇を要求すると同時に、素顔を差し出せ、と迫る不条理と屈託にみちた世界にあって、山下美月はヴァルネラブルなアイドルを嘲笑うかのような強靭さを描こうと苦闘しているように映る。しかし、それが群像劇の放棄、”乃木坂らしさ”の否定に映り、彼女自身がヴァルネラブルな「アイドル」を獲得するための隘路へと突き進むのだから、やはり「悲劇」を鑑賞してしまうわけである。
ファンから喝采を浴びその要望にこたえようと前のめりになるアイドルの横顔とは、それは多くの場合、素顔とは呼べない。そして、そこに描出される姿形こそまさしく「大島優子」であり、前田敦子を表通りからはじき出した大島優子の英姿を前田の系譜に立つ人物がそなえている、という倒錯に、王道つまりは主人公感から逆走する寂寥を読んでしまうのだ。しかし、彼女のような英雄記的な物語だけが、あたらしい時代のアイドル(第一期生ではないアイドル)を応援するファンの需要を、心を満たせるのかもしれない、という希望ももちろんある。山下美月は新時代のアイドルとファンのあり方を決定づける存在なのかもしれない、という希望が。やはりこのひとは「希望」の系譜に立つ登場人物なのだろう。

美人は気になってしまう。どうにかできないか、考え、希望を抱いてしまうのは、異性にとってごく自然な感情だろう。たとえば、視界に捉えた際の(認識状態にある)佐々木琴子というアイドルの存在感は、乃木坂46というグループにおいて、いや、アイドルシーンにおいて冠絶している。アイドルの古典や正統の観点で、渡邉美穂丹生明里の対峙のように、山下美月のアンチテーゼにこの佐々木琴子の名が挙げられるだろうか。
常に素顔を覆う山下が、純潔つまり素顔を常にさらけ出してしまう佐々木琴子と並んだ日、アイドルの「矜持」や「頼もしさ」、ほぐして云えば「生来の美貌」によって確立された自我が損なわれないという事実を発見したとき、私のなかで山下美月に対する評価が一変した。おそらく、アイドルファンの多くは、山下美月と並んでも遜色ない佐々木琴子の評価を上げるのだろう。しかし、私は逆であった。
今後、この山下美月が勇猛邁進するにせよ、脆さや儚さを立ち現すにせよ、彼女の動向つまりアイドルの物語の展開とは、そのまま3期生のストーリー性に還元されるものであり、山下美月の物語によって3期の物語が動く、と想像する。それほどまでに妄執を描かせるのは、グループの通史に対し影響力を把持する人物だと確信させるのは、やはり彼女の生まれ持った美貌のおかげだろう。美貌と主人公感の一致したアイドル、これは「稀有」である。斜陽の気配を見せはじめている乃木坂46において、山下美月を視認することで辛うじて、グループの未来に希望のひかりを見出すことができるのである。

「僕は僕を好きになる 編」

生田絵梨花、生駒里奈の系譜に連なるアイドルが、かつてグループが希望を見出した日とまったくおなじ場所に立った。デビュー以来、常に「センター」への憧憬を抱かれつづけてきた少女が、ようやくその期待に、宿命的に応えた。アイドルに正統性が宿った。
自己否定あるいは自己肯定によるアイデンティティの探求、つまり自己啓発を銀鷲旗にしたグループが、それを命題に置いた楽曲を提示し、その中心で踊るアイドルがその通りに成長を描くという人間像の現れ方は、工夫がなくやや出来すぎた展開にみえるものの、そのような演劇行為を通過することでアイドルを演じる少女本人が避けようなく励まされ、それを眺めるファンもまた活力を得るのではないか、くすんだ時代を月明かりで照らすような遠望がたしかにあるようにおもう。
問題は、それでもなお、物語が立ち現れないことだろう。アイドルが素顔を伝えようと奔走してもなお、ファンはアイドルの素顔をつかむことができない。いや、そもそもアイドルを演じる少女の素顔とアイドルの物語とは、嘘と真実といった話題から安易には導き出せない、演技だけでは手繰り寄せられないものなのかもしれない。この問いに気づくことができないままに、山下美月はアイドルを演じ続けている……。
自分とは別のもうひとりの自分だけを通してアイドルの本音を伝えようとする姿勢の一貫さ、つまりは頼もしさの堅持、その提示によって、暗示に満ちていた山下美月の横顔が、どこか示唆的になってしまったように感じる。電気ストーブの前で、吹出口の奥で揺れる青白い炎をじっと見つめるような彼女の寂寥がぼんやりとしてきた。それは、彼女の踊りにもよくあらわれている。言語で形づくられた感情を演技で表現しようとする心がまえが強すぎ、笑顔が、踊りが硬直し滑稽に見える。たしかに演技力は成長した。鉄壁に見える。しかしすべてがおなじ演技に見える。「アイドル」が画一化しており、どのような場面でも同じキャラクター、おなじ顔に見える。いずれにせよ、素顔を伝えたい、と思い焦がれれば焦がれるほど素顔が遠ざかる、という循環に陥っているようにみえる。まさに、生きにくくしている張本人とは、ほかでもないアイドル自身なのだろう。
しかもそれとは別にグループアイドルとしての「成功」が約束され日々積み上げられていくわけだから、「アイドル」そのものが退屈なフェーズに入ってしまったと云えるかもしれない。

 

総合評価 63点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 16点 ライブ表現 11点

演劇表現 14点 バラエティ 13点

情動感染 9点

乃木坂46 活動期間 2016年~

評価更新履歴
2018/12/08   バラエティ 10→13
2019/09/20  ライブ表現  11→12
2021/01/15  再評価、加筆しました ライブ表現 12→11  演劇表現 13→14 

   

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