乃木坂46 ここにはないもの 評判記

のぎざか, 楽曲

(C)ここにはないもの ジャケット写真

「ここにはないものを」

ミュージックビデオについて、

乃木坂46の31枚目シングル。センターは齋藤飛鳥。
夢に憑かれ、溢れ出す想像力に戸惑い衝き動かされ都会に生きるひとりの人間が、仲間の行動力・笑顔に支えられ換気されつつ、もう一度、自分のほんとうの夢に向かって一歩踏み出す、雄飛の気運に満ちた、別れの物語。
シーンの主流を歩むアイドルグループの最新作、しかもその「乃木坂46」の飛翔を支えてきたメンバーの卒業作品というだけあって、質は高い。ファンから並ならぬ期待を寄せられるシングルでその期待を裏切らない、完成度の高い、構図をしっかりと練った作品を作り上げてくるところには、やはり感服させられる。
技術的、分析的なことを言えば(分析的な話は書いても読んでもおもしろくないので避けるべきだが、今作品の場合、映像の見どころ、いわばカタルシスにかさなる部分でもあるので、称賛の意味でも、書くことにする)、アイドルのミュージックビデオにおけるひとつのアイデアに、求められるアイデア=課題に、ドラマシーンとダンスシーンの継ぎ目、があるはずだ。凡庸な作り手であればあるほど、この「継ぎ目」に対する意識、アイデア=想像力に欠け、アイドルのミュージックビデオなのだからダンスは絶対に撮らなくてはならない、という凝り固まった使命感の強さも相俟って、ドラマを映したあとに義務的に唐突にダンスシーンを差し込み、作品の価値・魅力を自ら毀してしまう(アイデアがどうしても浮かばないのなら、ドラマ、ダンス、どちらかを切り捨てる果断さが必要かもしれない。もちろん、それができる時点でその作家は凡庸の範疇をはるかに抜け出ているのだが)。

ドラマシーンとダンスシーンの継ぎ目に粗がない作品、要するにアイデアがある作品を、乃木坂46の表題作に絞り、挙げるならば、『今、話したい誰かがいる』『僕は僕を好きになる』をまず挙げるべきだろう。この2作品を手放しで、アイデアがある、と称賛できるのは、やはり「ドラマ」という、堆積させたアイドルの物語・表情の結晶、爆発としてダンスが準備され映されているからである。踊ることが、アイドルの物語、その表現に直につらなっている、からである。
今映像作品にもおなじような香気が漂っている。ラストシーンにおいて描かれた、主人公の夢に対する想像力、空を見上げ夢を想うその感情の爆発が、アイドルつまりダンスシーンへとシームレスに、現実と夢の接点を上手につくりだし、いろとりどりの高揚を与えてくれる。作品=ひとつの空間のなかで、アイドルたちがしっかりと生活している。踊っている。
想像しなければ夢は叶わない、と云ったのは秋元康だが、アイドルがあり夢があるのか、夢がありアイドルがあるのか。アイドルが夢をのばすのか、それとも夢がアイドルをのばすのか。このひとりの「少女」の横顔は、飛びきりに想像力にあふれている。

歌詞について、

無感動・無関心な態度を装う、けして他者にこころを打ち明けたり甘えたりしない、仲間やファンを煙に巻くユニークな、ユーモアなアイドルの、その日常風景の影響だろうか、齋藤飛鳥がセンターに立った楽曲のその詩情には、アイドルへの写実がまったく見えず、いわゆる作詞家・秋元康からアイドルに向けた、あてがき、をどこにも拾わない。作詞家・秋元康のこころざしを鼻で笑うように、秋元康が書き上げる今日のアイドルシーンにおいては、まずアイドルがあり次に音楽がある。それが多くのファンをひきつける力になっているのだが、こと齋藤飛鳥センター楽曲においては、そうした自身の類型から抜け出て、あるいは弾き出されて、音楽がありまた同時にアイドルもある、という状況をつくっている、ように見える。
それがなにを意味するのか、功を奏すのか、と言えば、なによりもまず、作詞家の、アイドルソングを作るつもりはない、という詩に向けた純粋さ、志を叶える点だろう。
たとえばそれは、『ここにはないもの』がアイドルの卒業ソングという現実のうえに提示された以上、詩情における「僕」、あたらしい扉をひらく「僕」、次のほんとうの夢に向かい旅立つ「僕」とは、当然、センターに立つアイドルを透過・投影させた存在になるはずだが、今作品においては、「僕」が、「僕」の並べ立てる科白が、あくまでも”秋元康としての一人称”をイメージさせる。
アイドルの卒業ソングとして編まれた”はず”の楽曲が、作詞家・秋元康自身の、未来と過去を問わない遠い人生のどこかの、別れの歌、であると想像してみると、楽曲が、音楽が、一気に自分の懐に、自分の日常に落とし込まれたような、そんな気分になりはしないか。つまりはこうした感慨のどこかに、どこかの部分が、秋元康の作詞家としてのこころざしに触れるのではないか、と。
その普遍性はもちろんアイドルシーンにも還元され役立てられる。たとえば、アイドルと卒業、という永遠に繰り返される話題に対する行き詰まりを打ち払った『最後のTight Hug』において、散文=物語をもって循環から抜け出ようとするその表現手段が、むしろ詩情の枯渇、放擲の裏返しにも映ったのだが、なんのことはない、生きているかぎりは常に眼の前に可能性があって、その可能性のひとつのかたち=希望として夢があるかぎり、その夢への問いかけは、言葉は、どうやっても、尽きないのだ。


歌唱メンバー:齋藤飛鳥山下美月与田祐希梅澤美波秋元真夏鈴木絢音金川紗耶賀喜遥香遠藤さくら、筒井あやめ、早川聖来、林瑠奈、弓木奈於、柴田柚菜、岩本蓮加、阪口珠美、田村真佑久保史緒里

作詞:秋元康 作曲:ナスカ 編曲:the Third