STU48 石田千穂 評価

STU48

石田千穂(C)Platinum FLASH Vol.8/STU48

「朝の光にさらされていく」

アイドルを批評するという試みは「人間」をそのまま描写することに近い。その傾向は文学作家への批評よりも強い。作家の場合は小説という作品への批評が”遠回り”に作家への批評となる。投資家や投機家の評価を依頼された際は、そのトレーダーの取引手法に潜む確率化された哲学のようなものを批評することになる。アイドルの場合は批評対象となる分野こそ確かに複数存在するが、洞察を試みる順序は小説家や投資家とは逆である。演劇力や歌唱力、ライブパフォーマンスを評価する前にまずそのアイドルの「人間」の部分を観察する。表現力に付随する技術的な部分、経験値的な側面の評価はその後である。アイドルの批評としての「人間」描写にあたっては、正岡子規の写生を意識して文章を書くと決めたが、これは、筆者を悩ませる。いくら眺めても、どれだけ観察をしても描写すべき実像がつかめずに、途方に暮れてしまう、そんなアイドルが少なくはないからだ。
一方で、真っ白な状態で洞察を開始して、一度ペンを原稿用紙につけるきっかけが生まれたら、そのまま隅から隅まで埋めていくような疾走感で、みればみるほど新しい表情を、魅力を発見できてしまうアイドルが存在するのだから、これはもうどうしようもない、生まれ持った資質の差、宿命(到底納得のできない不条理)と云うしかない。

では、石田千穂はどちらか。それは後者であった。

例えば、『春の歌』をカラオケで歌う、その1分30秒という短い時間だけで、ひとつの特別な空間を創って、観る者をそこに没入させる。音のとり方から、まぶたを閉じて開くまでの速度とタイミング、首のかしげ方、その仕草すべてがひとつの表情へと繋がっていく。カメラの前で躊躇をみせてしまった外のアイドルとは別に、完全にアイドルを演りきった。隙間に覗く恥じらいすらも演技ではないか、と覚らせる。デビュー1年にしてすでに、アイドルとしての”覚悟”が完成されており、成熟した虚構を抱えている。彼女がこのような立ち居振る舞い、覚悟を体現できるのは、あらゆる場面に、アイドルとしての人生を転換させるチャンスが潜んでいると理解しているからだろう。アイドルになる以前の、虚構という別の世界に踏み込む前の自己の内奥にあった、「弱さ」を代表とする習慣のようなものを淘汰してきたのだろうと、想わせる。私がそのようなドラマツルギーを現役アイドルに認めることができたのは乃木坂46の生田絵梨花以来である。つまり、「石田千穂」は、アイドルを演ることが生きることを勝らないアマチュアアイドルたちの夢や希望を壊す「覚悟」の持ち主と云える。

別の日、ライブでステージの上に立つ彼女からは、身体じゅうに奇妙な力が漲っているのを感じた。衝動的なエネルギーに対する躊躇など一切感じさせない意志。魂が自分の身体を離れて外部から自己を衝き動かすものを俯瞰しているような立ち居振る舞い。ライトに照らされたなかを、風に吹かれてたなびく真っ白なシーツのように漂っている。大仰に言えば、彼女は、精神的なものを超越してしまった登場人物に映る。存在の忘却を具えた人物。それは、ステージの上にどのような痕跡を刻むのだろうか。「石田千穂」を身体に取り込んでいくファンは、全身にアドレナリンが駆けめぐったのを自覚し、昂奮がカタルシスへと到達したのではないか。奇跡との遭遇によって朝の光にさらされていくような恍惚感に包み込まれたのではないか。

危惧があるとすれば、自身の内情を日々淡々とさらけ出していくスタイルに潜むクライシスだろうか。トーマス・マンの『魔の山』を読んでいるような日常感。すべてをさらけ出した後の結果をどれだけ受容できるのか、それをモチベーションの維持に活用できるのか。それとも底知れぬ野心をみせ、ファンを慄かせるのか。成長共有への扉はひらかれたばかりだが、何れにせよ、石田千穂 はSTU48にとってのマスターピースとなるのではないか、と予感してしまうのは私だけではないだろう。

 

総合評価 70点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 15点

演劇表現 14点 バラエティ 13点

情動感染 15点

STU48 活動期間 2017年~

2019/03/10  再評価、加筆しました

評価点数の見方