STU48 岩田陽菜 評判記

STU48

(C)岩田陽菜Instagram公式アカウント

「シンクロニシティ」

岩田陽菜、平成15年生、STU48の第一期生。
前田敦子以降、AKB48から連なるグループアイドル史のなかにはじめて明確な系譜を誕生させた西野七瀬と共時する、「西野七瀬」の系譜に立つ数少ないアイドルの一人。
グループ初のオリジナル楽曲であり、無何有の郷に立つ少女の横顔を歌った『瀬戸内の声』において歌唱メンバーに選抜された14名のアイドルのなかで、つまりはSTU48の初期構想とも呼べるその選抜メンバーのなかで、今日に至るまでグループの中心メンバーとしてステージの上に立ち、歌い踊り続けているのは、不動のセンターである瀧野由美子と、この岩田陽菜だけである。石田千穂、薮下楓、瀧野由美子に次いで写真集の出版も叶えている。名実ともにSTUのキーキャラクターとして、将来の有望株として、その存在感を増している。
作詞家・秋元康をして、24色の魅力がある、と言わしめたとおり、色彩の豊かさによって鑑賞者に戸惑いをあたえるアイドルであり、とくにファンにアイドルへの片想いの入り口をひらかせる幻想の強さには舌を巻くものがある。ファンが自分の夢に乗ってくれる、つまり”推す”という言葉の意味をほかのだれよりも自覚するなかで、自らが作り上げた幻想、稚気、アイドル的香気の希求力の強さに戸惑う様子、ぎこちなく笑いかけるその横顔にまず引かれるし、なによりも、そうした日常、アイドルを演じる日々のなかで抱く屈託と歓喜をひとつも隠すことなくファンの眼前に提示する大胆さが西野七瀬と彼女を結びつける。西野七瀬によく似た少女が、西野七瀬とは別の場所、別のアイドルグループに生を享けたとき、どのような物語が編まれるのか、グループアイドルを演じる少女に絡みつく系譜=因縁を読むにあたり岩田陽菜は興味の尽きない存在であり続けている。

…不思議と言えば、けっこう不思議な話である。結婚して商売を始めたばかりのころ、僕は借金を抱えて四苦八苦していた。あるとき、翌日の午後三時までに銀行にある額の金を返済しなくてはならないのに、どうしても三万円が足りないという羽目に陥った。…何か良い知恵が浮かばないかとあてもなく歩き回っていたのだが、いくら考えてもダメだった。空っぽの袋を逆さにして、ただばたばたと振っているようなものだった。…風もない、しんと静かな夜だった。そうしたら、家に向かう道に紙片がぱらぱらと何枚か落ちているのが目についた。近寄って見るとそれは一万円札だった。それもちょうど三枚あった。ついさっき、空からそこにはらはらと舞い降りてきたばかりという感じだった。あたりを見回したが、誰もいない。人通りのない真夜中である。…金額までぴたりとあっている。そんなにうまい話が世の中にはあるのか?でも本当にあったんだからしょうがない。ユングならそれを「シンクロニシティー」とでも呼ぶところだが、当時はそんな立派な言葉があることすら知らなかった。

村上春樹 / 村上朝日堂はいかに鍛えられたか「下を向いて歩こう」

意味ある偶然の一致、と云っても、その文脈、シチュエーションは様々だ。
たとえば、「『三月十五日』を読んでいるときに、《人は、ほかの人から、あれはこれこれの人だと思われているような人間にならずに終わることはありえない》という不吉な一文を目にしたが、作者はこの文章をユリウス・カエサルのものだとしている。ユリウス・カエサルの作品はもちろん、スエトニウスからカルコピノにいたる伝記作家の作品も調べてみたが、出典を確かめることはできなかった。」この逃げ切ることがきわめて困難な科白、起こってほしくないとつよく想う事柄が、どんな時も、どんな場面でも、必ず現実となって訪れる現象、これもまたシンクロニシティと呼べるだろう。
転じて、純文学小説に描かれた登場人物たちが予言と見間違うほどに時代を先回りし迎え撃つあの現象、つまり現実とフィクションの偶会も、シンクロニシティ、と表現すべき場合があるかもしれない。*1

2017年、西野七瀬に”似ている”人物が、西野と同じ「グループアイドル」として文芸の世界に出現した。だが、顔が似ている、というだけでシンクロニシティと呼べるのだろうか。意味のある偶然の一致、とまで云えるだろうか。むしろ、「西野七瀬」と似ている「岩田陽菜」と同じ2017年に「アイドル」への扉をひらいた、「岩田陽菜」と一字違いの名をもった河田陽菜」が「西野七瀬」を継ぐ資質を具えていた、という、この一連の流れ、ルーツの発見こそ、シンクロニシティ、ではないだろうか。もちろん岩田陽菜、河田陽菜の誕生は「西野七瀬」というグループアイドルにとってのあたらしい系譜の発見にもつながっている。次の時代を生きる少女たちが西野七瀬の物語に回り込まれ、包容された、と言い換えても良い。

乃木坂46の『君の名は希望』は生駒里奈に贈られた楽曲だが、偶発的に生まれた物語に西野七瀬の発見がある。「転がってきたボールを」拾った「僕」が出遭った「君」こそ、アイドル(西野七瀬)であった。こんなにアイドルを「恋しくなる自分がいたなんて想像もできなかった」といった想像力の外側に置かれた感情の発見を西野七瀬のファンは体験したのだ。『君の名は希望』の歌詞は西野七瀬に向けて書かれたわけではない、だからこそ、そこには発見の要件を充たす偶然の一致が転がっている。西野七瀬に”似ている”岩田陽菜からも、この、”アイドル”との邂逅が作りだす感興、妄執、幻想を読めるのだから、おもしろい。*2
アイドル=偶像と邂逅するのは、もちろん「僕」だけではない。アイドルを演じる少女自身もまた、「アイドル」と邂逅をしているのである。希望とは喜び。アイドル=もう一人の自分を作る、日常を演じる、という憧れの生活への実感が、夢を抱かずにはいられなかった少女の心をみたす。無類のアイドル好きでもあった岩田陽菜はその実感と喜びを隠そうとしない。反対に、それをファンに掴み取らせようとする。この、かけがえのない青春と引き換えにしてまぶしいスポットライトを浴びることへの歓喜が、アイドルを演じることへの過剰な自意識を作り、見え透いたコケットを提示する場面も多く、微笑ましくおもうが、そういった「素顔」を溢す岩田の脇の甘さ、思わせぶりなそぶりを作る無防備さこそ、西野七瀬と強く響き合う特質なのだ。
日常を演じるアイドルの「素顔」への到達、そこに根付く妄執こそファンの幻想の翼を羽ばたかせる原動力であり、アイドルに物語性を付与するための「儀式」なのである。西野の横顔に密着したストーリー展開を奇跡との遭遇と呼ぶのであれば、やはり、アイドル・岩田陽菜の誕生は「シンクロニシティ」と呼ぶべきであろう。

「モニカ、夜明けだ 編」

岩田陽菜の書く物語が豊穣を獲得するもうひとつの理由に『後日の話』がある。
アイドルだけではなく、もちろん、我々もシンクロニシティという個人的な体験に遭遇する。だが、シンクロニシティに、意味のある偶然の一致に遭遇したあとの『後日の話』を”あなた”は覚えているだろうか?その個人的な体験の結末を、結実を目撃しただろうか?昨日見た夢が思い出せないのとおなじように、奇跡との遭遇を忘却してはいないか?岩田陽菜の物語に価値があると確信する理由は、彼女が西野七瀬と”似ているから”ではなく、シンクロニシティと呼ばれる現象のあとに訪れる物語、豊穣な物語の読者になれることが約束されているからだ。彼女がアイドルを演じ物語を書き続ける限り、我々は「奇跡との遭遇」の続きを読むことができる。それは言葉の真の意味で、実りのある時間と呼べるのではないか。
グループアイドル史の射程に立つならば、西野七瀬の系譜に与するアイドルが坂道シリーズとは異なる場所、AKBグループでどのような物語を作るのか、闘争をみせるのか、深い影を落とすのか、このような視点のもと、次世代アイドル・岩田陽菜を眺めるのもグループアイドルの通史を読むうえで見逃せない場面と云えるのではないか。置かれた境遇如何で、少女たちの表情がどのように異なり、染まり、アイドルが描かれて行くのか、岩田陽菜によって鮮明に提示されることだろう。その前兆として、『モニカ、夜明けだ』のミュージックビデオにおいて、彼女はすでに日常のメランコリックを破棄しており、『命は美しい』当時に西野七瀬が所持した儚さ、ステージの上に立つと、踊りを作るとアイドルがより美しく見えるというある種の切迫を提出する、モノグラフの逆走を描いている。平成が終わり、令和が始まった現在、注目に値するアイドルの一人と呼べる。

 

総合評価 68点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 14点

演劇表現 13点 バラエティ 13点

情動感染 13点

STU48 活動期間 2017年~

引用:*1 ガルシア・マルケス 「わが悲しき娼婦たちの思い出」
*2 秋元康 「君の名は希望」

2023/01/05 加筆しました(初出 2020/07/23)