乃木坂46 寺田蘭世 評価

乃木坂46

寺田蘭世 (C)乃木坂46公式サイト/乃木坂46LLC

「愚直な前進」


窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。汽車のなかもさほど明るくはないし、ほんとうの鏡のように強くはなかった、反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われてきた。そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

川端康成 「雪国」

汽車の外を流れて行く風景と汽車の中で静止した少女の顔が重なり、その構図が一つの「絵」になる。それが、窓にうつし出されているのを眺める。このような光景のなかに置かれないと生命感が発露せず魅力が溢れない、というのはアイドルにとっては欠点として扱われてしまうのだろうか。『ブランコ』の歌詞で描かれた風景のなかで一つだけ揺くブランコと少女。”デッサン”のように「夕焼けに吸い込まれてしまいそうな」少女(*1)。寺田蘭世は絵描の中の登場人物のようなビジュアル、物語性を抱えるアイドルである。耽美への傾倒、耽美をアイデンティティとして行く物語に憂慮はあるものの、楽曲によって描かれる風景画(世界)と高水準でリンクする稀有な資質を持ち合わせており、バンド・デシネ的なジャンル性を抱えるアイドルとして期待ができる。彼女は、「つよがり」という言葉に包括される要素のすべてを覆いかぶさったような人物であり、きわめて独自性のある、愚直な立ち居振る舞いをみせる。センターポジションへの憧憬を「希求」として叙述する行為が反動と捉えられるのも、彼女生来の愚直さに因るのだろう。

つよがりとは、それが少女と共に正しい方向に歩んでいるうちは微笑ましいが、なにかの拍子に厚い壁にぶつかって跳ね返されてしまうと、そのまま間違った方向へ突き進んでしまうものである。つよがりが育む「固執」によって愚直な前進を(無意識に)選択してしまうのである。

白鳥になりたいペンギン なりたくはないナマケモノ
失恋しても 片足で踏ん張るフラミンゴ
遠慮しすぎのメガネザル ヘビににらまれたアマガエル
ライオンやヒョウに 頭下げてばかりいるハイエナ
見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと
ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を
ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる
きっと どこか隅の方で僕も生きてるんだ
愛を下さい oh… 愛を下さい ZOO
愛を下さい oh… 愛を下さい ZOO, ZOO
おしゃべりな九官鳥 挨拶しても返事はない
気が向いた時に 寂しいなんてつぶやいたりもする
“しゃべりすぎた翌朝 落ち込むことの方が多い”

辻仁成/ECHOES 「ZOO」

グループアイドル、とくに、”アンダー”にかさねることができる詩である。寺田蘭世もまた、「白鳥になりたいペンギン」であり、「愛を下さい」と希求したアイドルである。そして、「しゃべりすぎた翌朝」に「落ち込むこと」も多かったようだ。「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」(*2)と語った作家が居たが、アイドルがファンに向けて感情を吐露することには、通俗的な後悔を避けられない側面があるのだろうと想像する。自身が作り上げるアイドルの底の浅さを看破されることへの恐怖もあるはずだ。
寺田蘭世の文章には読む前に越えなければならない障害物があり、その作業に対する煩わしさを潜在意識が避けようとするため、彼女の文章を前にすると、少し、気が重くなる。一方で、アイドルとして、ありのままの姿形を描く北野日奈子の文章にはそのような”障害”を感じない。興味を惹かれる。両者には明喩と暗喩のように隔たりがあるのだ。寺田蘭世は明喩しか書かない。北野日奈子は暗喩を用いる。メタファーとは、対象との距離を一瞬で手繰り寄せる力がある。寺田蘭世の書く明喩、直喩に満ちた文章は自身のうちにあるが認めたくない感情である。それを直接、ストレートにファンに投射している。端的に言えば何かの出来事に対する動機や結論にファンの存在を絡めてしまう傾向が強い。「愛を下さい」という希求がつよがりを捨て、反動へと傾倒し、それがグループとファンに、ではなくファンにのみに向けられて行く。そして、しゃべりすぎた、と落ち込む。明喩にはメタファーが持つ「抽象」が乏しい。だから、”ずるい”言い訳が効かないのだ。だから、落ち込む、それが読者に感染する。

彼女はおそらく意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができたんだ。宙を飛んでいる蝶々の羽をやさしくつまんで捕まえるみたいに、夢の中で言葉をとらえるんだ。芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ。

村上春樹 「海辺のカフカ」

寺田蘭世というアイドルはフィクションに対する意識が高く、”もうひとつの別の世界”=「アイドル・寺田蘭世」の日常の提示に成功している。彼女が作り上げる「アイドル」が絵画のようなストーリー性を抱えるのも、このフィクションへの意識に依る。舞台の経験によって演技という虚構=フィクション、つまり虚構を付くという行為が嘘でありながらも「事実を捻じ曲げる嘘」ではないと理解できたのだろう。アイドルを演じるということもまったく同じである、ということを。日常において虚構を付く、虚構の存在を通過することによってはじめて真実にたどり着く。自身の作るアイドルは、ありのままの自分だ、と誇るのならば、そのありのままを伝達する為には、やはり虚構を付く必要がある。舞台という他者の想像力によって作り上げられた仮構はそれを経験するのには格好の装置であったはずだ。
その彼女が書く「アイドル・寺田蘭世」のストーリーが結果として「愚直な前進」に映る理由は、自分の置いた科白、虚構(フィクション)を一々説明してしまうからである。自身が作り上げる虚構の中で生まれる誤解への覚悟が足りない為に、寺田蘭世は”後日の話”として、フィクションを説明してしまう性向がある。彼女は冗長性を自ら生み出している。フィクションは、説明してしまうと、それが答えになってしまう。文芸の世界に身を置く人間にとって、作り手自らが作品の「答え」を提示していく行為ほど愚かなことはない。フィクションを作る、その真実を伝える為の虚構が狙い通りに機能せずに誤解をうける。誤解を解こうと丁寧に説明してしてしまう。その頑なさが反動や固執として扱われる。提示した答えの正しさを証明するための姿勢が愚直にみえる。まさに、自縄自縛的なアイドル、と云える。しかし、その愚直さが、その積み重ねが、フィクティブな批評空間を作り上げる原動力になりつつあるのもまた、事実である。

小林秀雄の「栗の樹」という、とても心温まる随筆があります。奥さんが年をとって体調を崩した時、ふと自分が女学生の時に毎日一里余りの道を歩いて学校に通っていた頃のことを思い出します。その長い道のりの途中に栗の樹が一本あってそこに来ると、ああこれで半分だと思いながら毎日毎日通ったと。ある日、奥さんが、突然この栗の樹をもう一回見たいと言い出して見に行ったという話ですが、その道と人生とが重ね合わされて美しいお話になっているのです。

福田和也「慶應義塾と批評家」

この随筆について、郡司勝義の『小林秀雄の思ひ出』の中で次のように書かれている。

「先生、あの話は本当にいいですね、あの栗の樹はどこに生えているのですか」
「何いってるんだ君は、そんなものあるわけないじゃないか」

福田和也「江藤淳というひと」/郡司勝義「小林秀雄の思ひ出」

このエピソードは真実を伝えるためのフィクションの必要性を問いているのだが、一方でフィクションというものの性質が、その危うさがよくわかるエピソードでもある。それがアイドルという虚構であった場合、偶像としての概念の崩壊が意識されるのは当然の成り行きだろう。

虚構を付く行為、フィクションへの傾倒によって失ったもの、寺田蘭世のポテンシャルの喪失とは、寺田蘭世から佐々木琴子が喪失した、と言い換えられる。寺田蘭世がセンターポジションに立つ為に必要なピースに佐々木琴子があったのは間違いない。前田敦子-大島優子、松井珠理奈-松井玲奈、西野七瀬-白石麻衣、このような関係性は一言で説明するのはむずかしいが、石原慎太郎-三島由紀夫のような豊穣な物語を彼女たちも作り上げている。寺田蘭世にとってその対象が佐々木琴子であったのは云うまでもないだろう。佐々木琴子というアイドルはきわめてアクチュアルな人物である。つまり、アクチュアルな佐々木琴子が寺田から欠落したのではない。フィクションに対する意識と依存度が高い寺田が佐々木を喪失したのである。

寺田蘭世の科白にはグループという筐体(あるいは、佐々木琴子)が持つイデオロギーに対する強烈なオブセッションを抱えているように感じる。井戸の底に落ちたことのある人間が煙突掃除夫になるような強迫観念を。グループとの結びつきを過剰に意識している。そのオブセッションには、彼女を”あたらしい、動乱的な”センターポジションへと誘導する力が宿っているかもしれない。与田祐希の項で扱った「過去の本質性の証」と「未来の可能性」。その「過去の証」としてのセンターは未だ、乃木坂46というグループには存在しない。「堀未央奈センター」、「大園桃子、与田祐希センター」は未来の可能性としてのセンターであった。与田祐希自身はその後、過去の証としても成立することになるのだが。「齋藤飛鳥センター」は第二世代によるセンターであり、過去の証とも捉えられるが、そもそも彼女は第一期生である。もし、「寺田蘭世センター」が叶った場合、それは純粋な、グループの「過去の証」としてのセンターになるだろう。

『ブランコ』で描かれた物語。その詩的責任は果たされてしまった。「人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人が何かを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる」(*3)、「前へ後ろへ僕らはただ空を泳いだ」(*4)という不吉な予言、胎動は現実の物語になってしまった。寺田は渡辺麻友の存在によって自身の枠組みを拡張したと言う。では、次に、その枠組を貫かなければならない。その為の方法が、現実に、アクチュアルに、明喩でも暗喩でもなく、大きく揺さぶられたブランコからジャンプすることなのだろう、とおもう。詩的世界から完全に遊離するための。

 

総合評価 68点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 16点 ライブ表現 13点

演劇表現 11点 バラエティ 13点

情動感染 15点

乃木坂46 活動期間 2013年~

引用:(*1)(*4)乃木坂46/秋元康 「ブランコ」
(*2)村上春樹 「風の歌を聴け」
(*3)村上春樹 「海辺のカフカ」

評価点数の見方