乃木坂46 寺田蘭世 評価

寺田蘭世(C)B.L.T. 2016.12月号

「愚直な前進」

窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。汽車のなかもさほど明るくはないし、ほんとうの鏡のように強くはなかった、反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われてきた。そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

川端康成 「雪国」

汽車の外を流れて行く風景と汽車の中で静止した少女の顔が重なり、その構図が一つの絵になる。それが窓の鏡に写し出されているのを眺める。「見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思」うのは、現実と虚構の境界線が不分明になるからである。しかし、このような光景に置かれないと生命感が発露せず魅力が溢れない、というのは、アイドルにとっては欠点として扱われてしまうのだろうか。『ブランコ』の歌詞で描かれた風景のなかで一つだけ揺くブランコと少女。まるで、「デッサンみたい」に「夕焼けに吸い込まれてしまいそうな」少女(*1)。「娘の眼と火とが重なった瞬間」とおなじように、少女も自身が演じる楽曲と重なって行く。寺田蘭世は、そのビジュアルに、絵画の登場人物のような物語性を抱えている。美への追求、耽美をアイデンティティにすらしようと、枠に収まった”誰何”に対し無邪気に反抗する物語の作り方には憂慮があるものの、楽曲に描写される風景と高水準でリンクしてしまう稀有な資質(境遇)に抗い脱出することは困難であり、バンド・デシネ的なジャンル性を抱えるアイドルとして期待を抱かせる。彼女は、”つよがり”という言葉に包括される要素のすべてを覆いかぶさった人物であり、きわめて独自性のある、愚直な立ち居振る舞いをみせる。思考することで疑問と遭遇し、その解決の発見へ一途に拘る。センターポジションへの憧憬を希求として叙述する行為が反動と捉えられるのも、彼女の愚直さに因る。

白鳥になりたいペンギン なりたくはないナマケモノ
失恋しても 片足で踏ん張るフラミンゴ
遠慮しすぎのメガネザル ヘビににらまれたアマガエル
ライオンやヒョウに 頭下げてばかりいるハイエナ
見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと
ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を
ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる
きっと どこか隅の方で僕も生きてるんだ
愛を下さい oh… 愛を下さい ZOO
愛を下さい oh… 愛を下さい ZOO, ZOO
おしゃべりな九官鳥 挨拶しても返事はない
気が向いた時に 寂しいなんてつぶやいたりもする
“しゃべりすぎた翌朝 落ち込むことの方が多い”

辻仁成/ECHOES 「ZOO」

グループアイドル、とくに、”アンダー”にかさねることができる詩である。もちろん、寺田蘭世も「白鳥になりたいペンギン」であり、「愛を下さい」と希求したアイドルのひとりである。「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない(*2)」と”語った”作家が居たが、寺田蘭世もまた、文章を書くことによって自己療養への試みを実行している。彼女は文章を書くことによって、希求し、物語を作り、共感され、誤解され、嘲笑われてきた。「しゃべりすぎた翌朝」に「落ち込むこと」も多かったようだ。
寺田蘭世の書く文章には、読む前に、ある種の覚悟の要求がある。書き出しは彩りがあり、新鮮な空気を吸うような描写だが、中盤から終盤にかけて翳りを作る。だから、彼女の文章を前にすると、少し、気が重くなる。一方で、アイドルとして、ありのままの姿形を、醜態を描写する北野日奈子の文章には寺田のような”障害物”の存在を感じない。北野の文章には最後まで読ませる力がある。両者を隔てるのは明喩と暗喩だろう。寺田蘭世は明喩しか書かない。北野日奈子は暗喩を用いる。メタファーとは、対象との距離を一瞬で手繰り寄せる力がある。明喩にはメタファーが持つ抽象が乏しい。”ずるい”言い訳が効かない。しかし寺田蘭世が標榜する”レット・イット・ビー”には映らない。彼女は物語の転換に対する動機や結論にファンの存在を絡めたモノローグとして発表する。だから、偶像との距離感が曖昧になり誤解される。その誤解を解くために構築したフィクションを解体する。しゃべりすぎた、と落ち込む。それが読者に感染する。文章に覚悟の要求が生まれる。「愛を下さい」という希求が一度開き直り、反動へと傾倒し、愚直に前進する。「滑走路なんか必要ない(*5)」と彼女はつよがる。

寺田蘭世はフィクションに対する意識が高く、ここではない、もうひとつの別の世界で暮すアイドル・寺田蘭世の日常と、現実の世界で暮す寺田蘭世の日常との線引を明確にしている(明確にしようと試みている)。彼女が作り上げる『アイドル』が絵画のようなストーリー性を抱えるのも、フィクションへの憧憬に依る。彼女から受け取る”つよがり”や”愚直”とは、あくまでも彼女が作る虚構が前提にある。架空の物語を作ることに意識的になればなるほど、現実との境界線は明確に引かれる。つまり少女の愚直さを微笑ましく”成長の共有”と捉えるのと同時に、一方では少女から女性に展開した寺田蘭世が架空の世界の外側で確然と屹立しているのを観者は自覚せざるを得ない。この倒錯、フィクションへの傾倒、明確な線引によって失ったもの、つまり寺田蘭世のポテンシャルの喪失とは、寺田蘭世から『佐々木琴子』が喪失した、と換言できる。
佐々木琴子というアイドルはきわめてアクチュアルな人物である。アクチュアルな佐々木琴子が寺田から欠落したのではない。フィクションに対する意識と依存度がたかい寺田が佐々木を喪失したのである。常に素顔を伝えようと演技する佐々木は、寺田の作る架空の世界では登場人物として呼吸できないのだ。
寺田蘭世が未来への希望を抱え込んだセンターに成る為のピースに佐々木琴子があったのは間違いない。前田敦子-大島優子、松井珠理奈-松井玲奈、田野優花-武藤十夢、西野七瀬-白石麻衣、彼女たちの関係性を一言で説明するのはむずかしいが、石原慎太郎-三島由紀夫のような稚気を彼女たちも作り上げている。寺田蘭世にとっての番いが佐々木琴子であった。”誕生日”のエピソードなど、ふたりは、まさに稚気と表現するのに相応しい物語を、青春を作っている。その番いを寺田は見失ってしまった。

寺田蘭世の立ち居振る舞いや科白には、”見失った”ライバル、佐々木琴子に対する強烈なオブセッションを抱えていると感じる。井戸の底に落ちた経験を持つ人間が煙突掃除夫になるような強迫観念を。闘争に対する倦みや、偶像の破綻に対する無関心を演じ続ける佐々木琴子と対峙するように、佐々木にしがみつく覚醒への期待にすり替わるように、寺田蘭世はグループの通史に対する責任や、センターポジションへの憧憬を誤魔化さない。フィクションを作ることを諦めない。それが手の届かない夢に映るから、映ってしまうから、儚い。この、寺田蘭世から投げ付けられる儚さ=オブセッションにこそ、彼女をあたらしい、動乱的な”センター”へと誘導する力が宿っている、と妄執させるのだ。

本来的には、未来の可能性として、現れたはずのみずからの娘を、過去の本質性の証として愛することは倒錯でしかないだろう。少なくとも、『エミール』以来、子供を未来へと開かれた、可能性として見ることに私たちは慣れてきた。だが、…子供は親にとって、未来ではなく、過去の、しかも自らの過去と、そこを通じて生じたすべての肯定としてしか存在していないのかもしれない。封建時代の、芝居じみた、仇討ちだけのために育てられてきた子供の凛々しさのようなものこそが、本当の親であり、子であるものの関わり方であるのかもしれない。

福田和也「現代人は救われ得るか」

与田祐希を囲繞する「過去の本質性の証」と「未来の可能性」。その「過去の本質性の証」としてのセンターは未だ、乃木坂46の歴史には存在しない。「仇討ちだけのために育てられてきた子供の凛々しさ」を背負った「芝居じみた」センター、たとえば矢作萌夏のような存在。堀未央奈センター、大園桃子、与田祐希のダブルセンターは「未来の可能性」としてのセンターであった。与田祐希自身は過去の証としても成立するが、単独でセンターポジションには立っていない。仮に、今後単独で彼女がセンターに立ったとしても、それはやはり未来と過去の隙間で浮遊するセンターと云えるだろう。齋藤飛鳥センターは第二世代を標榜するセンターであり、過去の証とも捉えられるが、そもそも彼女は第一期生である。もし、寺田蘭世センターが叶った場合、それは純粋な、グループの「過去の本質性の証」としてのセンターになる。ワンアンドオンリー。寺田蘭世は、ゾラの『居酒屋』の主人公”ジェルヴェーズ”の娘”ナナ”のように群像劇からの脱出、再登場によって、あたらしい主人公に成れる可能性を、「今すぐに空へ飛び立てる(*6)」可能性を抱いている。

『ブランコ』で描かれた物語。その詩的責任は果たされてしまった。「人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人が何かを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる(*3)」、「前へ後ろへ僕らはただ空を泳いだ(*4)」という不吉な予言、胎動は現実の物語になってしまった。寺田は渡辺麻友の存在によって自身の枠組みを拡張したと言う。では、次に、その枠組を貫かなければならない。その為の方法が、現実に、アクチュアルに、明喩でも暗喩でもなく、大きく揺さぶられたブランコからジャンプすることなのだろう、とおもう。詩的世界から完全に遊離するための。

 

総合評価 72点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 14点

演劇表現 14点 バラエティ 13点

情動感染 16点

乃木坂46 活動期間 2013年~

引用:(*1)(*4)秋元康 「ブランコ」
(*2)村上春樹 「風の歌を聴け」
(*3)村上春樹 「海辺のカフカ」
(*5)(*6)秋元康「滑走路」

2019/05/26 再評価、加筆しました ライブ表現 13→14 演劇表現 11→14 情動感染 15→16

評価点数の見方