寺田蘭世「センター」を検証する

「乱世は、下剋上の時代」
窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。汽車のなかもさほど明るくはないし、ほんとうの鏡のように強くはなかった、反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われてきた。そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。
川端康成 「雪国」
汽車の外を流れて行く風景と汽車の中で静止した少女の顔が重なり、その構図が一つの絵になる。それが窓の鏡に写し出されているのを眺める。「見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思」うのは、現実と虚構の境界線が不分明になり、日常を見失うからだ。
しかしこのような光景に置かれないと生命感を発露できず、魅力が溢れない、というのは、アイドルにとっては欠点として扱われてしまうのだろうか。『ブランコ』の歌詞で描かれた風景のなかで一つだけ揺くブランコと少女。まるで、「デッサンみたい」に「夕焼けに吸い込まれてしまいそうな」少女*1。「娘の眼と火とが重なった瞬間」とおなじように、寺田蘭世もまた、自身が演じる楽曲・音楽と重なって見える。
寺田蘭世は、そのビジュアルの内に絵画の登場人物のような物語性を抱えている。美への追究、いわば耽美をアイドルの軸にしようとする凡庸さ、枠に収まった”誰何”に対し無邪気に反抗する物語の作り方、には時として唖然とさせられるが、作詩家・秋元康の編み上げる歌謡曲、その詩的世界に描写される風景に否応なく重なってしまう性(さが)、そうした境遇を手繰り寄せてしまうその希有さから抗い脱出することは困難におもう。バンド・デシネに生きる一人のアイドルとして、高い期待感を抱かせる。
アイドル=順位闘争の美しさ、という感慨を打ち出す際に抱く寺田のイメージが、アンダーとしての存在感、であることは衆目の一致するところだろう。これまでに13枚のシングルに参加し、表題作の歌唱メンバーに選抜されたのは『インフルエンサー』と『シンクロニシティ』の2作品のみ。一方では研究生の代表曲とも呼ぶべき『ボーダー』でセンターを務め、さらにはアンダーの屈託と飛翔、その可能性を歌った『ブランコ』においてもセンターポジションに選ばれ、アンダーメンバーでありながら常になにものかの物語の主役として描かれてきた。
アンダーメンバーの象徴、いわば暗がりの主役としての自身の存在感に衝き動かされるのか、寺田蘭世というアイドルの特質に、センターに向けた過剰なまでの憧憬を包み隠さない前傾姿勢、があり、センターへの道のりをきわめて強い現実感覚のなかで叙述しファンに共有するその行為の内に、希望の濃さ、聖的な無謀さ、を見出すのも当然の帰結と云うべきかもしれない。
乱世は、下剋上の時代である。親代々の元老院議員の出であるとか有力者と縁戚関係にあるとかは、決定的な要素にはならない。それよりも重要なことは、野生の動物の世界と同じで、勝ち残るには力にプラス知能が不可欠になるのだった。
塩野七生 「ローマ人の物語Ⅺ」
寺田がセンターに向かい走ることの憧憬に見る魅力、異質さとは、たとえば、前田敦子に似ているとか、乃木坂らしさを備えているとか、有力者との強力なコネを持っているとか、そうした足がかりを一切有さない、素手で夢をつかもうとする無謀さにあるのだが、とはいえ、彼女にも一つだけ、センターに立つための有効的な要素、宿命が備わっている。それは、佐々木琴子、という存在である。
寺田がシングル表題曲のセンターへと登りつめる為のピースに”佐々木琴子”があったのはまず間違いない。前田敦子–大島優子、松井珠理奈-松井玲奈、田野優花–武藤十夢、西野七瀬–白石麻衣、彼女たちの関係性を一言で説明するのはむずかしいが、石原慎太郎-三島由紀夫のような稚気のなかで彼女たちはアイドルを育み飛翔させてきた。寺田蘭世にとって、この”つがい”が佐々木琴子であったのだが、その生まれ持った性質ゆえか、幻想に生きようとしない佐々木は乃木坂の主流から早々に離脱し眠れる美女となってしまった。
あるいは寺田蘭世のそのアイドルとしての立ち居振る舞い、センターを希求する科白とは、”見失った”かつてのライバルに対する強烈なオブセッション、と換言することができるかもしれない。井戸の底に落ちた経験を持つ人間が煙突掃除夫になるような強迫観念が、そこにあるのかもしれない。
順位闘争に対する倦み、偶像の破綻に対する無関心を演じ続ける佐々木琴子と対峙するように、佐々木にしがみつく覚醒への期待を肩代わりでもするかのように、寺田蘭世は乃木坂のモノグラフに対する責任としての、センターへの憧憬、を誤魔化さない。フィクションを作ることを、諦めない。
寺田蘭世・センターに魅力を見出すのならば、それを妄想ではなく現実として見据えるならば、この乃木坂の物語に対する責任、過去や未来を見る視点の射程にある、と云えるだろうか。
本来的には、未来の可能性として、現れたはずのみずからの娘を、過去の本質性の証として愛することは倒錯でしかないだろう。少なくとも、『エミール』以来、子供を未来へと開かれた、可能性として見ることに私たちは慣れてきた。だが、…子供は親にとって、未来ではなく、過去の、しかも自らの過去と、そこを通じて生じたすべての肯定としてしか存在していないのかもしれない。封建時代の、芝居じみた、仇討ちだけのために育てられてきた子供の凛々しさのようなものこそが、本当の親であり、子であるものの関わり方であるのかもしれない。
福田和也「現代人は救われ得るか」
この、「過去の本質性の証」としてのセンターは未だ、乃木坂46の歴史に登場しない。「仇討ちだけのために育てられてきた子供の凛々しさ」を背負った「芝居じみた」センター、たとえば、正統性を持った主人公を次々と喪失し衰退・索漠の道を歩むAKB48が、乱世を迎えつつあるシーンを生き抜くための救世主として準備する、矢作萌夏のような存在は、未だ、乃木坂の地に立たない。
グループが成熟するということは、そのファンもまた成熟するということである。おもしろいのは、グループを成熟させたアイドルの卒業後、グループを眺めつづけるその成熟したファンが求めるのは、グループにあたらしく加わる瑞々しい、未成熟な少女、ではなく、過去に自分が愛したアイドルの面影をもつ、グループの、かつて自分が愛したアイドルの魅力つまり過去を証す少女である、という点だろう。矢作萌夏の倒錯とは、矢作自身はAKB48の過去、つまり前田敦子や島崎遥香といった主人公の血を受け継いでいない新時代のアイドルであるにもかかわらず、グループの過去の価値を証明するために、乃木坂に敗れたAKBの、その「仇討ちのため」の登場人物としてファンに期待され、歓声を浴びる点である。
寺田蘭世・センターを現実感覚のなかで立ち上がらせるならば、この「過去の本質性の証」、「仇討ちのため」のセンターとして、希望を見出すしかないように思われる。
たしかに、こと乃木坂46においては、すでに充分、役者は揃っている。寺田と同世代のアイドルに限定したとしても、まずグループの次期主人公に目される齋藤飛鳥、次に、二期のエース・堀未央奈がいる。乃木坂のはじめての子供としてグループに加わった三期には、大園桃子を筆頭にして、与田祐希、山下美月、久保史緒里が控えている。だが堀未央奈センター、大園桃子、与田祐希のダブルセンターは「未来の可能性」としてのセンターであったし、齋藤飛鳥センターは乃木坂のシーズン2としてのイメージを打ち出すセンターであり、あるいは過去の証とも捉えられるが、そもそも彼女は第一期生であり、過去そのものであるから、過去を証す存在にはなり得ない。山下や久保にしても、過去と未来をつなぐ子供、としてしか見ることはできない。
寺田に希望があるとすれば、それはやはり不遇に照らされた過去、その不遇=過去に拉がれた同期のメンバーの、ではなく、その不遇そのものの完成に寄与した一期と二期の記憶つまり日々あたらしく編まれていく乃木坂らしさの、忘れ形見、としてのセンターへの可能性にあるのではないか。
グループアイドルの最高度のカタルシスとは、やはり、様々な登場人物たちが、様々な交流を描き暮らすその時間のなかで、またその人間劇の登場人物が日々入れ替わるなかで、過去の登場人物の血をたしかに受け継ぐひとりの少女、過去の登場人物との思い出の品を、その価値を自覚した上で強く握りしめるひとりの少女が誕生・登場することを目撃する瞬間にあるのではないか。
彼女が「過去」足り得るのは、なおかつ、そこから前を向き、光りある方へ歩を進めることができるのは、なによりも、自己への肯定と否定をきしませる感度をもつからだろう。
自己肯定に溢れて見えるひとは、裏ではきっと、自己を否定する永い時間があって、その結果としての行動力を身につけ、前に進んでいる。自己否定に浸って見えるひとは自己を疑いようもなく肯定しているから、いつまで経っても同じ場所に立ちつづけ、移動をしない。
他者の眼前で自分を貶すばかりの寺田が後者であることは説明するまでもないが、そうした肯定感によってセンターへの憧憬を口にしてしまう、つまり移動を余儀なくされるという、逃げ場のない場所、ズルい言い訳の効かない場所にみずから立ち入るような無能さ、無謀さが、寺田蘭世を愚直に前進させるのだろうし、そこに「過去の証」に成り得る希望を見出してしまう。
『ブランコ』で描かれた物語。その詩的責任は果たされてしまった。「人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人が何かを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる」*3。「前へ後ろへ僕らはただ空を泳いだ」という不吉な予言、胎動は現実の物語になってしまった*4。寺田は渡辺麻友の存在によって自身の枠組みを拡張したと話す。では、次に、その枠組を貫かなければならない。その為の方法が、現実に、アクチュアルに、明喩でも暗喩でもなく、大きく揺さぶられたブランコからジャンプすることなのだろう、とおもう。詩的世界から完全に遊離するための。
引用:*1*4 秋元康 / ブランコ
*2 村上春樹 / 風の歌を聴け
*3 村上春樹 / 海辺のカフカ