NGT48の魅力を知ろう

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(C)絶望の後で ミュージックビデオ

「アイドルの可能性を考える 第七回 NGT48 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

楠木:今回のテーマは、NGT48の魅力を知ろう、です。人気・知名度の低い、話題性に乏しいアイドルグループですが、グループの物語、アイドル個々のストーリーには目をみはるものがある。メジャーデビュー以降、常に砂上の楼閣を描き続けた所為か、その巨大な砂の城を前にしてアイドルがひどく小ぶりに見えた。しかし「山口真帆 暴行被害事件」によってその砂の城が崩れ、そうしたグループとアイドルの関係に逆転が生じた。現在は低迷するグループに対しアイドルが大きく見えるという倒錯が起きている。この倒錯の魅力、おもしろさ、また今後のNGT48にはどのような可能性が秘められているのか、語らおうとおもいます。ではよろしくお願いします。

「NGT48は批評しがいのあるアイドルグループ」

楠木:これまではどちらかと言えば、すでにそこに「魅力」があるという前提のもとにアイドルを論じてきましたが、今回は、このアイドルたちはどんな「魅力」をもっているのか、という見方ですね。ただおそらく今回は、僕が一方的に語る、ということになりそうです(笑)。
横森:今日は乃木坂を語ろうと思って来たんだけど(笑)。
楠木:そう。そういう人にNGTの魅力を教えたいんだよね。
島:新曲が出ますよね。出てからじゃないんですね。
楠木:むしろ、新曲をたのしむために、です。
OLE:そういう意味じゃ批評しがいあるグループではあるんだよな。いま、NGTの魅力を引き出そうなんて考える人間なんてほとんどいないでしょ。なぜならグループのファン以外にはだれもNGT48に魅力を感じていないから。そういうなかで魅力を語るというのは批評だよね。
楠木:自分のなかで、これは本物だ、これはまがい物だ、と確信したものがある、そしてそれを他者に向け語り説得させるのが批評ですよね。つまり世間の評価と合致している必要はどこにもない。たとえば、リュシアン・ルバテはひとりの好事家として音楽批評『ひとつの音楽史』を作り、惜しみない称賛の声を浴びていますが、その著作のなかではショパンなど幾人かの天才を完全に黙殺しています。ルバテは、楽器なんて弾けないし、俗に言う業界人でもないわけです。あくまでも、ひとりの鑑賞者として”ひとつの音楽史”を書きはじめた。そういう情況のなかで天才という評価に一致するショパンを黙殺しちゃうわけです。しかし彼の批評は今日に至るまで名作と呼ばれ、音楽ファンに愛され親しまれている。もう一つ。日本の批評の創始者とまで呼ばれる「小林秀雄」の「私」を活用するならば、たとえば、これはとんでもない値打ちものだ、と価値を見出した骨董品を、骨董の専門家に「これは贋作ですよ」と一刀両断されたとき、プロの言葉に屈服せずに、眼の前にある骨董品に価値を認めたという事実のほうを守るべきで、本物だから価値がある、偽物だから価値がない、とは考えない。価値があればそれは本物だし、価値がないならそれは本物ではない、と。つまり、小林的に云えば、ある作品に対しほかのだれかとは違う、些細な一部分に注目してしまった自分のこころを信じる、ということです。僕が「アイドル」に対してやりたいのはそういう批評なんですね。

「NGT48の読み方」

横森:価値を読むならNGT48は「悪貨」だよね。
OLE:NGT48はAKBで培ったノウハウをこれでもかってくらい集約させて強引に売ったイメージはあるね。いろんなオーディションに落ち続けてきた子を拾い上げるような、そういった夢への献身を売りにしたアイドルグループだよね。
島:売る自信があったというよりも、売らなきゃいけないって追い込まれた結果、悪貨を鋳造してしまったんじゃないんですか。
楠木:悪貨とされるのは、額面価値と素材の価値に無視できない差がある場合ですよね。安い素材を高く売りつけたらそれは当然「悪貨」となる。たとえば銀の含有率が100%の銀貨の流通を止めて、銀の含有率10%、銅の含有率90%の銀貨を鋳造したらそれは悪貨でしょう。メジャーデビュー当時のNGT48がまさにこの「悪貨」です。ただ現在のNGTはこれが逆転しているんですね。銀含有率90%、銅含有率10%の銅貨を作っている。
横理:そこまで純粋に逆転してるとは思えないけどな。山口真帆の件でグループの価値が下がったのは事実だけれど、逆転するからにはアイドルの価値が上がらなきゃいけない。
OLE:その価値を見出そう、という話なんじゃないの(笑)。
楠木:この「逆転」がおもしろいのは、アイドルの物語の読み方そのものにも影響を与えているというか、視点の組み換えを教えている点なんですね。僕がNGT48を、これはおもしろいぞ、と確信したのは、現在から未来に向かっていくアイドルを眺める、ではなく、現在から過去に戻ってそこから現在までもう一度戻ってくる、という読み方を試みたときです。「山口真帆 暴行被害事件」を現在と扱い、一度過去に還り、もう一度はじめからグループの物語を追っていく。つまり少女たちがどのようにして「山口真帆 暴行被害事件」に帰結していくのか、という視点をもって少女たちの横顔を読む。そして『絶望の後で』を通してどのように少女たちが成長したのか、眺める。これはスリリングですよ。フィクションの内に避けられない「現実」が置かれ、その「現実」からもう一度フィクション=夢の世界に戻れるのか、という問題にアイドルを演じる少女たちがはじめて直面した。それがNGT48なんです。

「現実に敗北したフィクション」

島:『絶望の後で』って欅坂46の『もう森へ帰ろうか?』と似ていませんか?
OLE:『もう森へ帰ろうか?』に現実が足されたのが『絶望の後で』だね。こけおどしじゃなくなってる。
楠木:軽蔑していた愛情』や『黒い羊』のような教科書の裏のいたずら書きではないんですよね。
OLE:山口真帆は最後のステージで『黒い羊』を歌った。言葉に出すことを躊躇する感情を、歌を通して訴えた。だとすれば、『もう森へ帰ろうか?』も選択肢にあったんじゃないか。
横森:でも彼女はもうフィクションに幻滅していたんでしょ。『黒い羊』と『もう森へ帰ろうか?』を並べて眺めてみると『もう森へ帰ろうか?』はフィクションへの幻滅を書いたフィクションだよね。ならそれはちょっと違うってなるんじゃないかな。『黒い羊』の主人公にノンフィクションとしての共感があって、それを「メッセージ」に代替したんだよ、きっと。『黒い羊』もフィクションだけれど、そこに現実世界へと持ち込み闘うことができる武器を見つけて、それを拾った。
楠木:それはそのとおりで、彼女のなかで完全に現実がフィクションを勝ってしまったわけだね。だから「悲鳴」がある。『軽蔑していた愛情』や『黒い羊』を教科書の裏のいたずら書きと言ったけれど、裏を返せば、それはフィクションとしての破壊力をもつ、ということでもある。フィクションのほうが現実よりも遥かに強い、これは間違いない。現実よりもフィクションのほうが強い、というたしかな情況にあるなかで、しかし現実がフィクションに勝ってしまうような事態に出遭ってしまった。だから『黒い羊』を歌ったんだね。
横森:結局、平手友梨奈という神秘があって、要するに偶像、アイドルだね。そのアイドル・平手友梨奈を眺めているに過ぎないんだよね。現実からアイドルを眺めているだけなんだ、他のアイドルも。
OLE:『絶望の後で』に感心してしまうのは、現実問題に対してフィクションとしての「現実」で戦おうとしている点だよね。
島:僕らは天使なんかじゃない、ですからね。なかなかこれは書けないですよ。
OLE:僕らは天使なんかじゃない、の「僕」は、たとえば『君の名は希望』の「僕」のような詩の世界の登場人物としての「僕」ではなくて、秋元康の一人称としての「僕」だよね。ようするにアイドルと共に在る、共に闘おうとする決意を表明している。
楠木:『絶望の後で』のような歌をうたい踊ることになったアイドルは、AKBグループ、坂道シリーズのなかでNGT48だけです。アイドルを演じようとすると、笑顔を作ろうとすると、現実が襲ってくるわけです。なに平気な顔をして笑っているんだ、と。そういう状況のなかで、ぎりぎりのところで踏ん張ってアイドルを演じている。しかもそれぞれが沈黙を貫いていますよね。山口真帆、この名は忘れてはいけないけれど、一方では「現在」だけをみてほしい、という渇望がある。だから「山口真帆」はもう話題に出せないし、出さない。しかしそうした全体の動き、移動があるなかで、それを話題に出せてしまう衝動性をもったアイドルがひとりいる。それが中井りかですね。

「NGT48の主人公・中井りかの魅力」

楠木:中井りかはNGT48の初代センターです。知名度も一番高い。おそらくNGTのことをほとんど知らないアイドルファンでも彼女の名前くらいは知っているんじゃないかな。
OLE:賛否あるんだろうけど、ルックス、バラエティ、ライブパフォーマンスを見ていくと、一番バランスが良いのが彼女だよね。
横森:指原莉乃とよく比較されているよね。でも全然似てないよ。
楠木:指原莉乃というよりも須藤凜々花でしょう、このひとは。衝動性がある。
OLE:たしかに指原莉乃のようなウィットはないね。
楠木:ウィットもそうですけど、なによりも、指原莉乃は文章のひとですよね。売れるアイドルの一つの特徴に、文章が書けるかどうか、これがある。齋藤飛鳥もそうだし、大園桃子小坂菜緒、あとは長濱ねるですか、みんな文章が上手い。
横森:中井りかでは第二の指原莉乃にはなれない、って決定的になった場面があって、恋愛スキャンダルをお笑い芸人にいじられるっていうよくあるシーンでさ、彼女、笑っているだけで何もうまいことが言えなかった。指原莉乃はそういう場面をチャンスに変えて「アイドル」を切りひらいてきた。それで今の人気がある。中井りかにもまったく同じチャンスが作られた、でも切りひらくことができなかったんだね。
OLE:あの場面を眺めてがっかりしたのはファンだけじゃなく作り手も同じだろうな。
楠木:アイドルに対して真面目すぎるんでしょう。
島:真面目というか依存に見えますよ。
楠木:というと?
島:結局、「アイドル」という場所に帰ってきてしまうわけですよね。「アイドル」から離れるような行動をとった後に、田舎に帰郷するように、「アイドル」に帰ってくる。そう見えませんか。
横森:夢にやぶれても、田舎に帰ればあたたかく迎えてくれるからね(笑)。それで、ああやっぱり田舎が一番だ、なんて言ってる。
楠木:そういった感慨もふくめて、彼女の葛藤になっているんだろうね。
OLE:葛藤というか誤解との闘いだよね。中井りかのアイドルの描き方って。誤解されることをとにかく嫌う、という姿勢によって衝動的に心の内をさらけ出すから、誤解されるんだよね(笑)。
楠木:そのとおりですね。自分の素顔、ピュアな部分を他者に伝えたいならウソを作るしかないんだけれど、そのウソを作るって点を、自分をごまかす行為だ、と捉えてしまうひとがおおい。中井りかというひとはその極北に立っている。だから生きるのに苦労するんですね。とにかく誤解される。だから叫ぶ。そしてまた誤解される。
横森:そういうビビットな内面に同情するって、かなり好意的に捉えないと無理だよね(笑)。
楠木:彼女は、自分はファンとおなじように普通の人間だ、と常に叫んでいるでしょ。ファンに求めるものがちょっと普通ではないところがある。たとえば、昔、松村沙友理が「ピクミンに夢中になってるんです」というエピソードを披露したことがあるけれど、これは自分のために闘ってくれるピクミンという存在をファンになぞらえて語っているんだな、と僕は感じた。ファンに対する敬意とか反動とか、あらゆる感情を込められるもの、またそれを表現してくれるものがピクミンだというアンコンシャスが彼女にはあって、その無意識の披露によって、アイドルがファンに求める関係性をあらわにしている、と大仰に考えた(笑)。要するに文才がある、ということだけれど。一方で中井りかの場合、ファンは自分の後ろを付いてくるピクミンではないんだよね。
島:たしかにピクミンの主題歌ってアイドルファンからアイドルに向けられた独白に聴こえますね(笑)。
OLE:おもしろいのはそれをアイドルが求めているであろう、ってことだよ(笑)。
楠木:アイドルから見れば「顔」も「名前」も持たない存在ですね。しかし自分のために命をかけて闘ってくれる。見返りも要求しない。そうした関係性をアイドルはファンに求めている。しかし中井りかは違う。ファンはピクミンじゃないし、もちろん自分もピクミンではない、と訴えている。
OLE:要するに彼女もまた山口真帆と同様にアクチュアルなアイドル、現実的なアイドル、ということなんだろうね。
横森:そこが弱さに見えるけど、魅力でもある、と。
楠木:中井りかの魅力は、アイドルでありながらしかし自分は普通の人だと唱える彼女のその横顔が、音楽・CDというひとつの作品にしっかりと反映されている点でしょう。アイドルのストーリー展開が、歌詞カードのなかにすでに書かれていた、と発見する。彼女を眺めていると、そういうケースがとにかく多い。わたしは普通の人間だ、と過剰に訴えかける。これはもう説明するまでもなく『絶望の後で』に記された、僕らは天使なんかじゃない、という詩情と響き合っている。あの事件が起きるよりももっと前から彼女は、自分は天使なんかじゃない、とファンに向かって投げていた。
島:それは秋元康がアイドルを仔細に眺めた結果ですよね。
楠木:分析的なことを言えば、前後関係みたいなのはあるんでしょうね。ただ「詩」ですから、分析的には捉えられないものもあるわけです。
OLE:文学小説を読むと、そこに読者である自分の人生が包括されていた、というのはよく聞くし、実際に読書家なら一度はそういった経験をする。それはありていに言えば、小説家が人間を観察してありのままに描き出すからなんだけど、そのスケールを小さくして秋元康とアイドルって関係を持ち出してみるとどうだろう。秋元康ほどアイドルを間近で眺めてる人間はほかにいない。だから秋元康が書き出す物語はアイドルの未来になり得るんだよね。
楠木:そういう視点をもってアイドルを眺める際に、おそらく、NGT48で一番輝くのが中井りかなんですね。彼女のアイドルの本格的スタートでもある『青春時計』の歌詞カードを読んでみると、そこにはもう彼女の物語のクライマックスが書かれている、と感じてしまう。彼女の描くアイドルの有り様は、現在から過去にもどって物語を読む、という試みを強いるグループの働きかけと通い合っているんですね。であれば、やはりこのひとは主人公なんでしょう、NGT48の。
OLE:最後のTight Hug』とかさ、この歌詞の「僕」が抱いたような感情をファンに体験させるような、そんな気配をもったアイドルがちらほら出てきたよね。止めたいけれど、止められない、という情況ね。
横森:ファンに「予感」があるよね。最近は。秋元康が凄いのか、アイドルが凄いのか。
島:その場合、秋元康という人は絶対にアイドルの破綻は書けない、書いてはいけないということになりますね(笑)。
楠木:破綻を書きたい、という衝動はあるでしょうね。でも書けない。だからあたらしい恋人=アイドルを準備するわけです。『君しか勝たん』とか『君に叱られた』とか、過去の恋人を想いつつ、しかし眼の前にはあたらしい恋人=アイドルが立っている、というシチュエーションを用意した。喪失感を打ち出しつつも、その喪失感を埋めるような抱擁がしっかりとある。

「NGTは『過去』にも魅力がある」

楠木:NGT48って、実はほかのアイドルグループのことを知っていれば知っているほど興味が湧いてくるグループなんです。「山口真帆 暴行被害事件」、これは説明するまでもなく、AKBグループひいては坂道シリーズにあった胎動の結実です。その「絶望」に直撃したのがたまたまNGT48だった、ということにすぎない。ただ、そういうふうに眺めるとNGT48はグループアイドルの終着点にみえてしまう。しかしそうではない。NGTの本領って、本筋では語られなかった、発生しなかった物語が描かれている、しかもそれは本編と緊密につながっている、というところにある。たとえば、佐々木琴子のような内向的な少女がキャプテンに抜擢されたり、北川悠理のような空想家を振る舞うメンバーが表題曲のセンターに立ったり、ブラック・スワンが起きている。また、『今日は負けでもいい』というグループの次世代アイドルが集合した作品において、強い主人公として描かれた少女が3人いるけれど、すでにそのうち2人(高橋七実羽切瑠菜)はもうアイドルを卒業している。現在の乃木坂46でたとえれば、遠藤さくら賀喜遥香が卒業してしまったようなもので、そうした本筋ではちょっと起こり得ないような物語をNGTは記している。今日は負けでもいい、遠回りをしよう、寄り道をしよう、と歌った楽曲のなかで主人公として動いた3人の少女の内2人がすでに夢の世界から現実に帰還している、というところに、はかり知れない泡沫をみるわけです。そして、現在から過去にもどってもう一度グループの物語を読むという試みのなかで、その夢の破断に否応なく触れることになるわけです。
OLE:過去に価値がある。おもしろさがある。これは強みだよね。もうすでにグループを去ったアイドルを中心に置いたコンテンツに今でもひかりが差し続けているっていうのはさ。
横森:NGTのことをまったく知らないアイドルファンが『今日は負けでもいい』のミュージックビデオを見て、この中の誰が現エースなのか、当てられるファンはいないんじゃないのかな。それだけ強烈なイベントがあった、ということだね。
OLE:何も知らないところからNGTの記録なり映像なりを辿っていくとさ、きっと、この子良いじゃん、って思ってその名前をインターネットで検索してみると、もうアイドルを辞めている、なんてことが起きるんだろうね。
島:そういう喪失感ってこれからどんどん増えるんじゃないんですか。NGTだけではなくて、アイドルシーン全体で。情報は残るけれど、その情報の消化スピードよりも早くアイドルがシーンから消えていく。
楠木:僕はそれ、NGTでなら佐藤杏樹で経験しました(笑)。僕は一つのアイドルグループをずっと眺めているってことをしないから、一度離れたら1年2年平気で忘れてしまう。NGTの場合は立ち上げからメジャーデビューしたくらいまで見ていて、そのあとは「山口真帆 暴行被害事件」が起きるまで、正直、ほとんど意識していなかった。メンバーの顔とか名前もほとんど忘れてしまった。で、またもう一度、最初から見ていこう、と。そこでバラエティ番組とかもチェックするんですけど、冠番組だったかな、ひときわ存在感の強い子がいるわけです。これは売れるだろうなあ、と。そこで現実にかえって調べてみた。佐藤杏樹という名前だった。正直、昔を振り返って、彼女のことをかつての自分が意識したことがあったのか、考えても、思い出せなかった。そして彼女はすでにアイドルを卒業していた。
横森:そういう経験って現役メンバーの卒業に匹敵するでしょ。だから「思い入れ」になっていくんだろうね。
楠木:デビュー当時の、まだ少女の面影が強く残っているアイドルたちが、バラエティ番組でアイドルとしての人気を獲得しようとけなげに頑張っている。希望に満ち溢れているわけ。それを追っていくと、ある日、そのバラエティ番組が唐突に打ちきりになる、と。そして、当然、僕はその「ある日」をはじめから知っているんだよね。少女たちが「絶望」に直面することを知っている。アイドルが破滅に向かって歩んでいるのを眺めているようなもので、これはなかなかほかでは得難い共有体験だとおもう。
OLE:そう考えると、『後悔ばっかり』ってさ、あれよく書けたなあとおもうね。あたらしいファンでも過去を想えてしまうという。
島:『後悔ばっかり』を聴くと、最近の秋元康の作詞ってこれが本命とされているというか、原動になっているように感じてきますね。
横森:こういう曲は昔から書いてるとおもうけど、アイドルの卒業が積み重なれば積み重なるほど、手応えが出てくるし、ファンへの打撃も強いよね。
OLE:過去の恋人に向けた悔悟だけど、これはまあアイドルとの出会いと別れを歌っているんだろう。
楠木:アイドルの卒業に対して心が揺さぶられる、目眩したり、喪失感を抱くというのは、いわゆる「ガチ恋」だけではないんですね。僕はもうこれは何度も個人的に体験しているから確信している。仮想恋愛に傾倒していなくてもアイドルの卒業って心を揺さぶられるんですよ。たとえば、まだまだ若くて将来性豊かなアイドルを前にして、僕らファンは無条件で希望を見出しそのアイドルの未来を想像する、夢に乗っかるわけです。しかしグループアイドルを眺める以上、その、あたりまえにそこにある、という存在を、もうすぐ失うかもしれない、という予感に唐突に襲われる日がかならずやってくる。日常とは離れた場所にある動揺を経験するわけです。もちろん、そういった動揺をファンにあたえられるアイドルというのはけして多くはない。才能といってしまえばそれまでなんだけど。近年なら小畑優奈、佐々木琴子がまず挙げられる。予感、という意味でならば、小坂菜緒、遠藤さくら、筒井あやめ、藤吉夏鈴。現在、彼女たちは不気味な揺れを伝えていますよね。だから気になってしまう、と。NGTに話をもどせば、すでに述べたとおり、NGTの物語にも過去にそうした泡沫が描かれていて、かつ、「山口真帆」を起点にして過去に戻らざるを得ないという状況によって、ファンはその過去の泡沫に否応なく接触することになる。だから「過去」に生彩があるんですね、NGT48は。

「センターに返り咲くことができるか、エース・本間日陽」

楠木:時間を現在へと進める過程で、では、NGT48、このアイドルグループでもっとも実力のあるアイドルは誰か、問いがうまれるはずだし、エース、これは外せない話題でしょう。
横森:『絶望の後で』でセンターをやった以上、本間日陽なんだろうね。まあ、一人だけ明らかにステージが違うよね。ビジュアルもライブパフォーマンスも今のアイドルシーンでトップクラスでしょ彼女は。村山彩希とか齋藤飛鳥とか、そのレベルと並ぶよね。完成されてる。
楠木:笑顔ひとつとっても他を圧倒してる。
OLE:だとすると、俺はちょっともう浅薄ってことになるね。そこまでのアイドルには見えない。
島:アイドルのもつ実力に対し、人気・知名度がまったく追いついていないという点では、NGT48の現状をよくあらわしているんでしょうね。
OLE:人気となるとまた話が変わるんだろう。
楠木:4年ですか、この逸材が4年アイドルやって表題では一度しかセンターに立っていない。正直、ほかのアイドルと比較すれば頭ひとつ二つ抜けているので、順位闘争で負けた、という感じはしない。ただただ運に恵まれていない、としか思えない。『Awesome』のタイミングでなぜセンターに配さなかったのか、いまだに首をひねる。
横森:でも『Awesome』のライブを見ると、物足りないというか、表情がいまいちだよね。『絶望の後で』で作ったイメージを持ったままだとちょっと裏切られる。
OLE:『Awesome』はむずかしい曲だよこれ。本間はもちろん、センターの小越春花も頼りないね、表情が。前にちょっと話題に出たけど、この楽曲で唯一踊れているのが小熊倫実。中井りかも表情が硬い。
楠木:小越春花は踊れているとおもうけど。川越紗彩も表情が良いですね。でもたしかに、小熊倫実の存在感がセンターを食っちゃっていて、楽曲の魅力がうまく伝わってこないんですよね。
横森:ほんとうに『絶望の後で』を踊った子たちなの?と思ってしまう(笑)。それくらい酷い。
楠木:『絶望の後で』には清司麗菜がいるから。清司麗菜がいる楽曲と、清司麗菜を不在した楽曲とでは、比較が成り立たない。
OLE:新曲では「選抜」だよね。
楠木:入りましたね。本間日陽、小熊倫実清司麗菜、川越紗彩。この4人のライブ表現力は抜きん出ています。『絶望の後で』に対する評価はこの4人の表現力によったところがある。本間の場合、私情とか個人的体験とか、そういうものから隔てられた表現というか、作品をつくる、ということに意識的にみえる。そうした美意識みたいなものは、あるいはアイドルの場合は必要ないのかもしれない。けれど『絶望の後で』をセンターで踊るとなると話は変わるんでしょう。この歌は、複雑な事情をもった現実への応答ですから、超越的な立場を振る舞わなければとてもじゃないけど表現に達することできない。そしてそれができるのは彼女だけなんですね。
横森:頭が良いというのもうまく働いたんだよ。俺、お勉強のできるアイドルは嫌いだけど(笑)。
島:頭の良いアイドルのほうが売れるんですか。
OLE:さあ。でも問い返すことができるよね。頭が良ければ。『絶望の後で』の本間日陽が良いのは問い返しているからでしょ。普通はできないよね、この楽曲で問い返すって。そこはやはり頭が良いからできるんだろう。
横森:センター10回分くらいの価値があるね。

「中井りかの後を継ぐ、あたらしい主人公・小越春花の魅力」

島:現センターの小越春花さん。彼女はどうですか?
楠木:僕はもう彼女についてはそれなりに語ってしまっているんだけど、期待通りというか、期待以上のスピードで成長していますよね。
横森:「はるか村」だっけ。これって「どうぶつの森」とかそういうのから着想を得ているのかな。
OLE:仮想空間を用意してそこにコミュニティを作ろうってことでしょ。現代的というか、この子も頭が良い。しかも頭が良いことを隠しているよね。
楠木:彼女たちって、現状、アイドルとしての人気獲得のためにあたえられた小道具はSNSとSHOWROOMですか、それくらいしかないので、そうした狭い境遇のなかで自分になにができるのか、考えた結果、「はるか村」ができあがったんでしょう。
島:でも彼女のそうした振る舞いを考えるって、思考が引き下げられませんか。
OLE:そう考えさせるところが凄いんだとおもうよ。俺、あるシティホテルに泊まったときにね、フロントの若い女の子に突然「じゃんけんに勝ったらお菓子のプレゼントがあります。じゃんけんをしましょう」って、チェックイン時に言われてさ。それで、なぜそういうことを企画しているのか、興味津々、訪ねてみた。彼女が言うには、じゃんけんをすると怖そうなおじさんでもニコリとするらしいんだね。そういうのが狙いにあるんだと話していた。小越春花がやっていることは、この「ニコリ」を狙ったじゃんけんなんだよ。
横森:坂本龍馬みたい。でもそれ勇気がいるよね、きっと(笑)。
楠木:勇気もあるし、企みが深い。けれど、空想家めいた少女、というところに落着させているから不気味なんだよね。一瞬、冷めた眼をするときがある(笑)。このひとの頭の良さというのは、要するにひらめきでしょう。架空の村に住むある一家の歴史を語ったガルシア・マルケスの『百年の孤独』のなかで、村に訪れたジプシーに感化された主人公が発明に没頭し変人になってしまうというシーンがある。毎日ぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら家のなかを徘徊する主人公がある日こう叫ぶ。そうだ!地球はオレンジみたいに丸いんだ!って。それを聞いた家族はついに父親の気が狂ったと、嘆くわけです。小越春花というアイドルはそういうひとでしょう。ただ彼女には自身のひらめきをしっかりと聞いてくれる、評価してくれる人間が身近にいたわけですから、これ以上の幸運はない。
横森:しかし憧れが中井りかというのがまたなんとも。
楠木:そこはでも曲げないほうが良いだろうし、理想があるんでしょ。
島:理想というのは手が届かないほうが好都合ですよね。でも彼女はもう中井りかの背中に悠々とタッチしていませんか。
楠木:彼女にとっての理想というのは、越えるとか、越えないとか、そういう範疇にないんだと思いますよ。神秘的な存在なんでしょう、彼女にとっての中井りかは。
OLE:中井りかがNGT48の主人公であることにかわりないから、いずれは中井の後を継ぐ登場人物がかならず求められる。物語ってのはそういうことだから。そうなると中井りかの後継者は小越春花しかいないよね。
楠木:宿命ですね。中井にあこがれてアイドルになったと話す少女が、その中井の後継者としてグループの主人公になるんですから。昔日の輝きをとりもどすだけの力量・才能があるんだ、小越春花には。人気、これは正直わからないけれど、NGT48の物語は小越春花を先頭にして、過去から現在、そして未来へとしっかりとつながっていくのだろう、と期待できる。

 

2021/12/07  楠木

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