NGT48 絶望の後で 評判記

NGT48, 楽曲

(C)絶望の後で ミュージックビデオ

「僕らは天使なんかじゃない」

歌詞、楽曲について、

詩作というある種の超越的立場にあって、しかし絶望を握りしめた人間に寄り添いつつ、”彼女”の視点を通過することで、絶望のさきにだけ立ち現れる希望、その相対としての絶望の明晰さをあらためて問い糾している、と感じる。この作詞家の代弁による啓蒙が、むしろ、ピュアなものを無条件に正義と認定する社会へ向けた反動に、一度歪められてしまった真実の複雑さに対する想像力の欠如へ向けた反抗に映る点は、作詞家・秋元康に手腕がある、と云うべきか。デビューから一貫して胎動していたものが結実しグループのアイデンティティになった。しかもそれが「絶望」であったという点では、これまでの、たとえば『軽蔑していた愛情』や『黒い羊』などの白々しさ、教科書の裏のいたずら書きのような妄想、つまり仮装や仮想に支えられた作品とは一線を画する、本物の深刻さを抱きしめる、現実を無視して夢だけをみるという姿勢に待ったがかかった、希望の前で拉がれるアイドルを描出したはじめての作品と呼べるのではないか。
深いところで消滅しないままでいる、永遠に解かれない誤解、喪失の連なりに対する後ろめたさを常に抱きしめることになった少女たちの個人的体験を通して、現代人(もちろん、作詞家・秋元康やグループのファン、あるいはそれらを揶揄する大衆を含む)の幼稚さが浮き彫りになり、そこから各々が前に向き直る、成長を試みるといった構図には、アイドルとの成長共有のみならず、アイドルから生きる上での大事なものを教えられる、というこれまでのシーンにはなかった視点の発見があり、刮目に値する。
なによりも、このような題材、命題が置かれた情況のなかで、聴き減りしない、繰り返し”聴ける音楽”をしっかりと作り上げた点に感服する。

ミュージックビデオ、ライブ表現について、

切りはなすことのできない現実とどう付きあっていくのか、自己のレゾン・デートルを剥奪する出来事を前に、作り手、アイドル、共に背を向けていない。もっとも注目すべきは、やはりセンターポジションで踊る本間日陽だろう。この楽曲でセンターに立つこと、笑いかけること、涙をながすこと、風に吹かれながら希望の鐘を鳴らす行為、それは並大抵のプレッシャーではないはずだ。この重責を果たした時点で、彼女は、NGT48のみならずAKBグループにおいてこれまでに誰も踏み込んだことのない場所に、”宿命的”に立つことになった。風に吹かれるその横顔には、たしかな強さ、儚さが描き出されている。
それはステージの上でも変わらない。本間だけでなく、アイドルのそれぞれが高い緊張感を宿し、絶望の後で一体なにを失い、なにを手にしたのか、個々の踊り、その表情から読み取ることが可能。現実における体験がフィクションに混淆されていくその光景は、豊穣と云うほかない。


歌唱メンバー:荻野由佳、小熊倫実、角ゆりあ、清司麗菜、中井りか、奈良未遥、西潟茉莉奈、西村菜那子、本間日陽、安藤千伽奈、小越春花、川越紗彩、小見山沙空、富永夢有、藤崎未夢、古舘葵

作詞:秋元康 作曲:小網準 編曲:小網準

引用:見出し、秋元康/絶望の後で