NGT48 中井りか 評価

NGT48

中井りか (C) 木村陽仁/ 2019. MusicVoice

「感情こそが青春」 

中井りか、平成9年生、NGT48の第一期生であり、初代センター。
アイドル界に彗星の如く現れたホープレスルーキー。中井りかは、ある意味では、シーンにおいてもっとも注目を集めやすい、衆目を浴びる(あるいは衆目を集めようと果敢に行動する)アイドル。みずからが蒔いた誤解の種を、希望をつかむための試練だと妄執する軽佻さとイノセンスの提示は、上機嫌でも、不機嫌でも、どのような場面でも感情を隠さないアイドルを作り上げ、観賞者に「今回だけは黙って見過ごせないぞ」と行動させる、独特なちからを発揮している。彼女が、あるいは彼女の横顔を眺めるファンが「行動」すればするほど、歩調をともにするように、グループひいてはアイドルシーンが斜塔するのだから、ある意味では、時代を反映するアイドルと呼べるかもしれない。
ビジュアルについては、キュートな姿形をそなえており、平均点以上の評価を付けられるものの、表情は硬い。笑顔が強張っている。機嫌の良し悪しが極端であるのにもかかわらず、しかしあらゆる場面において表情が制限されほとんど変化しないというのは、なんだか少し、不気味に見える。まるで、アイドルを演じる際に「覚悟」として封印したもの、それが内側から滲み出て来ようとするのを必死に食い止めているような硬直した笑顔を彼女は描くのだ。表情が硬直している、というのは、つまり換言すれば、それはアイドルの物語が平板である、ということである。
たしかに、登場シーンは鮮烈だったかもしれない。注目を浴びたい、と渇望し、そのとおりに行動する子供のような無邪気さには鑑賞者の心を揺さぶるものがあったかもしれない。しかしその後の彼女の物語=アイドルの表情にはまったく進展がなく、ステージの上あるいはカメラの前で作られる構図は、今日の中井りかは機嫌が良いのか、悪いのか、お姫様の様子を窺う人間たちのリアクションを観察する、この繰り返しのみであり、退屈に感じる。また、指原莉乃のように、キッチュとしての寂寥を王道にすり替えてしまうような覇気も結局は描けていない。なによりも、そのような物語の作り方、つまり同業者から見たアイドル・中井りかの横顔(たとえば後続のアイドルに向けるノブレス・オブリージュ)と、ファンから眺めたアイドル・中井りかとの隔たりに覗くものこそまさしくギニョールであり、有りていに云えば凡庸さなのだ。
しかしそれでもなお、彼女の物語の内に特筆すべき箇所があるのか、あえて探るのならば、それは、アイドルを演じる際に圧し殺した叫びとは別に、自身の葛藤を惜しげなく披露する点になるだろうか。
アイドル・中井りかの特徴とは、過剰な自意識が積む葛藤をファンにむけて吐露する点にある。しかも彼女は自身の葛藤を、「アイドル」の葛藤としてではなく、「本来」の日常における葛藤に塗り替えて披露する。つまり、あるアイドル=役割を演じながらも、しかしあくまでも自分は普通の「女の子」なのだ、と過剰に訴えている。この葛藤を披露する無垢な姿、愛情に飢え、注目を浴びようとする、青春の犠牲をアッピールする姿勢が情動の感染を広げ、”大人たち”を籠絡し、現在の豪華なキャリアを得たようである。しかし、これはひとことで云うと、品がない。とくに、口元が「お下品」。口は災いの元と言うが、果たして彼女の場合には、どのような顛末がおとずれるだろうか。

なんで拝むんだってったら、天皇陛下は神様だって言うんですよね。
正直言って、子供心に納得いきません。天皇陛下が神さん?だって写真で見ると人間の形してますからね。
神様ってなんか形があるような、ないような、もし人間の形してるとしたら、腰から下は幽霊のようにフワァ~と何だかわかんなくなってる、そういうようなもんじゃないかというような頭を持ってましたからね。
ある日、親父がこうやって目ぇつぶってこうやって拝んでるとこへ行って、「ねえ、おとうちゃん、天皇陛下はウンコするの?」っつったら、いきなりバッカーンと殴られた(笑)。

柳家小三治/ま・く・ら

アイドル・中井りかの、おもいついたことをすべて口にするような無防備さをよく表した場面ではないだろうか。父親は天皇陛下に対する侮辱に憤り息子を殴ったというよりも、口にすべきではないことをあっさりと口にしてしまう、純粋さと無防備さに腹が立ったのではないか。日本人として当たり前に備わっているはずの言葉への美意識、その欠如を憂いたのではないか。
ようするに、アイドルの葛藤や苦悩とは、ファンが発見し、あるいは妄執し、その意味を考えるべきものであり、アイドル自らが勇み立って提示する類のものではない、ということだ。青春の犠牲を、または青春そのものをファンとおなじ目線で共有しようと望み、無垢な仕掛けを作る……、偶像への、表現への矜持が致命的に欠落している。たとえば、アイドルの儚さの現れ方のひとつに、世阿弥の「秘すれば花」があるが、中井りかはこの本物のケレンからもっとも離れた場所に立つ、日常の演技と役割、つまりドラマツルギーを放擲するアイドルと云えるだろう。
しかしこうした「放擲」が易易と受け入れられ、凡庸なアイドルには起こせ得ない情動の感染を広げているのもまた事実としてあるようだ。この眼前に置かれた狭い空間とは、アイドルとファンの双方が無垢なものを求めあい、許容しあい、互いに深い場所で通じている、という共通理解のもとに成立する、イノセントワールドと名付けることが可能だろうか。

ライブでの表現力、映像作品での表現力については、アイドル・中井りかに「資質」を投げつけられたことはまだ一度もない。圧倒的に経験不足。まだまだひよっこである。彼女と同時代を生きるアイドル、向井地美音、宮脇咲良と並ぶとき、中井の小柄な容姿がさらにひとまわり小さく感じてしまうのは、アイドルとして彼女たちとおなじフィールドに立ち、その存在感に圧倒されてしまった中井の潜在意識が浮き彫りになるからであろう。
だが一方では、宮脇や向井地といったトップアイドルを圧倒する平手友梨奈や大園桃子、いわゆる”天才”のアンチ・テーゼ=特効薬として機能する人物に「アイドル」の枠組みからはみ出る中井りかの名が挙げられるのだから、面白い、興味の尽きない人物と云える。

「絶望の後で 編」

おそらく、『山口真帆 暴行被害事件』の余波でアイドルとしてのかがやきをもっとも損なった人物が中井りかであり、そのキャリアの下落は事件の深刻さを簡明に物語っている。だがそれでもなお、彼女がステージ上で描く表情は相も変らず画一的であり、観客を笑顔にしたい、と考え踊るときはそのとおりに笑顔を作るし、アイドルの屈託を歌うなら、やはりそのとおりに苦悶の表情を浮かべる。楽曲に対する解釈があまりにも紋切り型で、退屈だ。どこか深いところで感情が麻痺している。日常の立ち居振る舞い、果敢に提示される思弁の内容も、ほんとうに”普通の人”になってきた。
しかし『絶望の後で』の歌詞を読むと、デビューから一貫して投げつけてきた彼女の葛藤が、グループに直撃した絶望と響き合っているようにもおもわれる。人間は、自分が見たいと思う現実しか見ない、と云ったのはユリウス・カエサルだが、中井りかもまた、見たいと思う現実しか見ない大衆(もちろんそこには彼女自身もふくまれるわけだが)に、かれら彼女らが吐き出す情報に囲繞されたアイドルだ。彼女が遭遇した絶望とは、自身の葛藤をファンの眼前で積み上げる行為により、宿命的に結実したものではないのか、という点は看過できない。『絶望の後で』で記された詩と彼女が強く過剰に響き合うのも当然の結実と云うほかない。中井りかは、作詞家・秋元康の記す詩的世界の登場人物になりきる、というよりも、その世界の登場人物として宿命的に描かれ、現実世界において邂逅を果たす人物、と呼べるかもしれない。そのような意味では、彼女がはじめてセンターを務めた『青春時計』が、アイドル・中井りかの集大成としてすでに描かれている、と窺うことも可能だろう。

 

総合評価 58点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 12点 ライブ表現 13点

演劇表現 5点 バラエティ 14点

情動感染 14点

NGT48 活動期間 2015年~

評価更新履歴
2018/10/09 演劇表現  4→5
2018/11/21 情動感染  12→14
2021/01/01  ライブ表現  11→13  再評価、加筆しました

   

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