STU48 花は誰のもの? 評判記

STU48, 楽曲

(C)花は誰のもの? ジャケット写真

「花は誰のもの?」

楽曲、ミュージックビデオについて、

STU48の8枚目シングル。センターには、瀧野由美子、石田千穂、中村舞の3名が立つ。
3人の「センター」が、ステージ毎に、入れ替わりにセンターを務めることで、楽曲のタイトルに付された「花は誰のもの?」を表現している、らしい。また、通常の、ドラマミュージックビデオに加え、ダンスリリックビデオが制作された。総じて、作り手にとっての意欲作、と呼ぶべきだろうか。
とくにドラマミュージックビデオについては、ドラマ部分だけで20分を超えるという熱の入れようで、鑑賞するにあたりファンになかなかのスタミナを強いる構成となっている。
病気によってこれまで通りに歌を唄うことができなくなった主人公の、歌いたいのに唄えないという個人的葛藤が、コロナ禍の社会を背に歌いたいのに唄えなくなってしまった合唱部の少女たちと重なり合うことで、互いの屈託を解き、前を向く、という青春の物語を描いている。作品を演じるアイドル自身、コロナ禍において、青春と引き換えにして積み上げてきたものが崩れ落ちるのではないか、屈託する状況に置かれたわけだから、演者の身近な出来事を、日常を再現した楽曲、と捉えることも可能かもしれない。
とはいえ、演者の日常の機微を描いたにしては、アイドルの演技があまりにも粗雑・稚拙であり、正直、見るに堪えない。誰一人「演技」を作れていない。アイドルが砂浜に横一列に並び歌い出すまでの約20分間、とにかく退屈。しかしまた、そのドラマの退屈さ魅力の乏しさが、ドラマのエピローグ部分で披露される楽曲の魅力を教えることに役立てられているようにも感じる。「楽曲」を「ドラマ」のエピローグに用意したドラマミュージックビデオの構図そのものが、何かをのり越える、という楽曲のもつテーマを表現しており、アイドルたちが歌い出すと、作品ではなく物語がたしかに転回するようにおもう。つまり、音楽のちから、のようなものを目の当たりにするような、そんな体験が用意されているようにおもう。

歌詞について、

「コロナ」だったり「戦争」だったり、社会的背景に飛び込むにしても、テーマが、詩情がやや大仰にみえる。アイドルを「活力」とみなすとしても、である。それはやはり、詩情の内に作詞家の個人的体験を通した憧憬を一つも拾うことができないからだろう。あるいは、提示された楽曲のクオリティの高さを前に、こうした遠大なテーマを描くことに踏み切った、踏み切れたのだろうか。だとすれば、作詞家自身が音楽のちからに衝き動かされボーダーを乗り越えることを叶えたわけだから、この歌詞には説得力がある、と言えるかもしれない。

ライブ表現について、

今作品では、映像作品だけでなくライブステージにおいても、アイドルに演技力を求めるような、そんな振り付けが準備されている。STU48に所属するアイドルの多くの強みがライブ表現力であり、弱点が演劇表現力であるのはもはや衆目の一致するところだが、今作『花は誰のもの?』では彼女たちのアドヴァンテージであるダンスを振り捨てて、演劇表現行為に倒れ込んでいる。そのため、映像作品同様に稚拙としか言いようがない踊り、表現がスポットライトの下で作られている。このチャレンジが、この作品でなければならなかったのか、と思わせるほど、滑稽なダンスを披露している。
おもしろいのは、その「なければならなかったのか」という疑問が、もしこの作品を演じるアイドルがSTU48ではなく乃木坂46だったら、櫻坂46だったら、という仮定、つまりこの作品を演じるアイドルは本当にSTU48でなければならなかったのか、という、現実的な事情を看過した、強い疑問を生む点である。
おそらくこうした疑問が生じるのは、演技を求め、演技をなんとか作ろうとしたからこそ、なのだろうけれど、こうしたありきたりな疑問・視点を前に、それを突き詰め、撃つならば、それは当然、STU48でなければ表現できなかったものがあった、と読むべきだろう。これまでに披露されたステージを眺めるに、いまのところ、喚起されるもの、これはひとつもないが、ゆえに、尽きない興趣、広大な希求力があるかに見える。『暗闇』同様に、ステージ上で繰り返し楽曲を披露することで、アイドルと共に完成されていく楽曲なのかもしれない。


歌唱メンバー:石田千穂石田みなみ今村美月岩田陽菜沖侑果甲斐心愛、川又あん奈、小島愛子、高雄さやか、瀧野由美子、中村舞、福田朱里峯吉愛梨沙吉崎凜子吉田彩良、立仙百佳

作詞:秋元康 作曲:鶴久政治 編曲:Hiroya.T