乃木坂46 ひと夏の長さより… 評判記

のぎざか, 楽曲

逃げ水 ジャケット写真 (C) 乃木坂46

「来年の夏はまた きっとここに来るだろう」

楽曲、ライブ表現、ボーカルについて、

18枚目シングル『逃げ水』のカップリング曲。
楽曲を演じるアイドルの日常を自壊させずに、叙情への抑制バランスが巧くとられており、アイドルが生き生きとしている。最初からさいごまで、没入感が一切そがれず、まったく聴き減りしない。しかもこれは、まずアイドルがある、ではなく、まず音楽がある、という姿勢によって編まれた楽曲のようにおもう。アイドルのジャンルらしさ、アイドルポップスらしさに拘泥することなく、音楽の本質的な魅力に拠っている。
アイドルの魅力に囚われるから、そのアイドルが表現する音楽を愛するのだ、という類型から脱し、音楽の魅力のなかで「アイドル」を理解していく、知っていく、という憧憬を叶えている。
歌唱メンバーも良い。センターで踊る松村沙友理と秋元真夏の2人を包むメンバーの内、実に8名が表題曲のセンターポジションを通過した物語を備えており、その豪華さ、豊穣さは、そのまま平成のアイドルベスト「選抜」と呼べる水準の構成を実現している。

歌詞について、

物忘れはいいほうだけど、さすがに明日まではムリだな。

あだち充「H2」

まるで、あだち充の野球漫画のような、青春と喪失の横溢を、詩の中にロマンチックに印している。青春=恋愛を語ることが、かならず喪失を描出することになるという、あだち充的カタルシスが準備されている。
自分にとってもっともかけがえのないものを宿命的に喪失することを、あくまでも個人の体験として、日常の静寂として、ノスタルジックに描く、ともすれば、小説から退避したものを有する希有な作家が「あだち充」なのだが、今作『ひと夏の長さより…』にもそうした”あだち充”っぽさがあるようにおもう。やがてかならず郷愁となるであろう、青の一回性を描いた詩的世界。たとえば、川のせせらぎ、河鹿蛙の鳴き声、夏の終わりに聞こえてくるコオロギの喧噪、湖面に映る花火とその振動は、現代人、百年前の日本人、どの時代を生きる日本人にも変わらない情動を与えるのではないか。今作の詩情は、そうした、季節の記憶になり得るものを、恋愛のなかに閉じ込め物語ろうとする、古典的魅力にあふれている。
この詩
に触れると、喪失を体験していないのに、喪失を想っている。なにかの追体験ではない。それはおそらく、自分に訪れてい”た”物語である。もう二度と手にすることがないだろう、という確信、喪失感とは、繰り返しやってくるもの、ではなく、繰り返し訪れてしまうもの、によって育まれるのではないか。
なによりも今作品に驚かされるのは、作詞家・秋元康の詩情に触れた際に、それを無意識の内に楽曲を演じるアイドルの横顔に結びつけてしまうという避けようのない結実から抜け出ているかに見える点である。アイドルとファンの出会い・別れの物語への引用を容易に可能とする詩情ではあるが、アイドルとファンという関係性から離れ、より普遍的な「僕」と「君」の青春の恋愛譚として語ることを成功している。それはやはり、アイドルを語るのではなく、あくまでも作詞家が自身の青春を語っているからではないか。


歌唱メンバー:秋元真夏生田絵梨花生駒里奈伊藤万理華井上小百合衛藤美彩大園桃子齋藤飛鳥桜井玲香白石麻衣、新内眞衣、高山一実、西野七瀬星野みなみ、堀未央奈、松村沙友理与田祐希若月佑美

 作詞:秋元康  作曲:aokado 編曲:aokado

引用:見出し 秋元康/ひと夏の長さより…