北野日奈子はなぜ「選抜」に入らないのか
「不遇の物語化」
昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか *1
北野日奈子、平成8年生、乃木坂46の第二期生。
16歳でアイドルの扉をひらく。表題曲の歌唱メンバーにはじめて選抜されたのは、8枚目シングル『気づいたら片想い』。同時に、研究生から正規メンバーへと昇格を果たす。2期生加入後に発表された最初の作品は、おなじく2期生である堀未央奈を「センター」に抜擢した7枚目シングル『バレッタ』であるから、デビュー後2作品目にして早くも表題曲の歌唱メンバーに選抜された北野日奈子は、アイドルとして文句なしの書き出しを記したかに見える。しかし喜びもつかの間、次作『夏のFree&Easy』において選抜メンバーから外されると、以降、実に6作品連続でアンダーメンバーとして活動することになる。時間にすると約2年間。この期間に齋藤飛鳥との稚気が重ねられ、その齋藤がはじめて表題曲のセンターポジションに立った作品『裸足でSummer』で7作ぶりに「選抜」に復帰する。以後、『サヨナラの意味』『インフルエンサー』とグループの歴史のなかでも重要な位置を占める作品において表題曲の歌唱メンバーを務めるも、3期生加入後初の表題曲『逃げ水』において再びアンダーメンバーとなり、さらには同シングルでは、アンダーという言葉の意味をあられもなく歌ったアンダー楽曲『アンダー』のセンターを務めることになった(中元日芽香とのダブルセンター)。『逃げ水』の次に発売された『いつかできるから今日できる』の選抜メンバーに名を連ねるが、『いつかできるから今日できる』は『逃げ水』以前に企画・制作された楽曲であるから、実質、北野は3期生加入と入れ替わるようにしてアンダーメンバーとなり『アンダー』を歌ったことになる。彼女はアイドル活動の休業を発表し、一度、暗い巣穴にもぐることを決意する。
星野みなみ、相楽伊織との交流を経て休養から明けた後は、アンダー楽曲『日常』をもって、その楽曲の中央に立ち、これまでに身体に宿した屈託のすべてを音楽の内に爆発させるという独特の境地へ至り、アイドルとして一気に壺にはまる。以降、『Sing Out!』『夜明けまで強がらなくてもいい』『しあわせの保護色』と表題曲の歌唱メンバーに続けて名を連ね、ここにきてようやく抜けきった感があったが、未来を作る、とグループの作り手が高らかに呼号した作品『僕は僕を好きになる』に際しては、乃木坂の新たな試み、あたらしい物語を作ろうとする動きから置き去りにされてしまったかのように、またもやアンダーメンバーとなる。そして、最新作である27枚目シングルの制作発表の場で、またしても「選抜」からの落選が伝えられ、「アンダー」が決定した。
こうして経歴を粗述しただけでも「北野日奈子」は順位闘争の場において浮き沈みのはげしいアイドルであることがわかる。おそらく、第一期生(とくに伊藤万理華や井上小百合)を除けば、もっとも境遇に揺さぶられた登場人物であり、闘争に対しひどく落ち込み疲弊したアイドルと呼べるのではないか。
もしかしたら今回は「選抜」に入るかもしれない。どうせ今回もダメだろう。というある種の内心の確信を持ったアイドルとは異なり、今回も「選抜」に入るはずだ。今回は「選抜」に入るはずだ。というウソ誤魔化しのないたしかな可能性を秘めてしまったばかりに「選抜発表」のたびにアイドルを演じる少女が深刻に消耗する……。北野日奈子の記す文章に、順位闘争に生きた若者特有の、屈託の彫琢があり、芸能界における享楽から抜け出た情動を放ち、文学のごとき光りを帯びるのも、当然の結実と云えるだろう。
つまり、そうした光りを、社会に生きる者の誰にとっても共感せざるを得ない光りを目のあたりにするからこそ、なぜ「北野日奈子」は「選抜」に入らないのか、誰もが疑問を抱くことになるのだ。
ロシアの作家アントン・チェーホフがうまいことを言っている。『もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』ってな。*2
なぜ北野日奈子は「選抜」に入らないのか。しかし答えは明白である。それは、彼女が「不遇」だからである。さらに砕いて云えば、彼女が「不遇」をアイデンティティと設定したアイドル=登場人物だからである。アイドルの性格に「不遇」を設定し”売り”にしてしまった以上、アイドルの物語化という戦略を考えるなかで、彼女を境遇において揺さぶるのは至極当然の成り行きである。だからこそ彼女はアイドルとして文句なしの実力をはぐくんだし、人気を獲得したし、シーン全体を見渡せばほんの一握りの、わずかな少女だけが握り得る、アイドルの物語性なるものを入手することに成功したのだ。不遇なのに売れている、ではなく、不遇だから売れている、のである。「選抜」に入らないから不遇なのではなく、不遇だから「選抜」に入らないのだ。つまり彼女は、不遇の物語化の成功によって「アイドル」の現在がある以上、これからも不遇でなければならないし、それを演じ続けなければならない、ということだ。乃木坂46の表題曲の歌唱メンバーに選出されるという快挙、かがやかしい笑顔を作ったのならば、ここぞというときに不遇に陥れなければならない。”物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない”。
屈託にあふれた文章をブログにアップする。それが話題になる。読者に共感される。ファンに注目される。そうした構図ができあがってしまっている以上、そこから抜け出ることは困難であるはずだし、むしろ、抜け出ようと試みることは、アイドルの物語に没頭するファンへの致命的な裏切りにすら見える。眼の前にひとつの小説=物語があって、そこに不遇をアイデンティティに設定された登場人物が暮らしている。もし書き手がその”彼女”の運命の悲劇を描く絶好の機会にそれを裏切る展開を描いてしまうならば、それはやはり小説の瑕疵と扱うべきだろう。厳しい批評の矢を放つほかない。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出す」べきではない、と。*3
向こう側からはこちらになにがあるのか見えない、だれがいるのかわからない、という暗闇から、光ある方をみつめる不気味さ、寂寥。光ある場所から暗闇を振り返る不安、恐怖。そのどちらにも立つ、ではなく、そのどちらにもノスタルジーを見出せない物語だからこそ、「北野日奈子」はグループアイドルにとってのバイブルたりえるのだ。
2021/04/21 楠木
引用:*1ニーチェ/ツァラトゥストラはこう言った
*2村上春樹/海辺のカフカ *3村上春樹/1Q84