アイドルの可能性を考える アイドルと踊り 編

ブログ, 座談会

(C)最後のTight Hug ミュージックビデオ

「2021年、もっとも優れた踊りを披露したアイドルを選ぶ」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。お休み

楠木:タイトル通り、2021年の総決算のようなものをやりたい、語りたい、と考えました。楽曲とか、MVとか、アイドルの演技とか、いろいろ迷いましたが、やはりアイドルの根幹である「踊り」を見るのが一番でしょう。楽曲、MV、演技、これらはすべてアイドルの踊りに還元することができます。ライブ、映像作品、どんな場面でも結構です。今年もっとも素晴らしい踊りを披露したアイドルはだれか、各人が考える「一人」を挙げてもらいます。ではよろしくおねがいします。

「アイドル=踊り」

島:そういえば、アイドルの踊りに対する批評ってあまり見ないですよね。
楠木:そうなんですか。僕は純文学畑の人間なので、アイドル界隈の批評家とか評論家ですか、そういう人たちのことをほとんど知らないんですよね実は。「アイドル批評ブログ」と名乗ってますけど、完全に門外漢です。まあそれがおもしろいって言ってくれる読者が多いんだけれど。
OLE:批評家って呼べる人間は知らないな。評論家は沢山いる。いずれにしろどちらもそれで食えてる作家なんて一人もいないだろうね。
楠木:それは小説もおなじで、小説の批評を書いてそれだけで生活できちゃう作家は現存しないですよね。そんな幸福な時代は小林秀雄とか、江藤淳とか、あのあたりまででしょう。話を戻せば、僕のアイドル観というのは、ほとんどがアイドルの踊りに対し向けたものです。ただ、ここがダメだ、ここが良い、とか分析的な表現はできるだけ避けるようにしている。物語ろうという意識が強すぎて「踊り」が背景になりすぎているのかもしれない。この点はちょっと考えて変えるべきかもしれないな。
島:踊りや歌の重要性が薄れてきて、またそこに戻ろうとしているのが今のAKBのストーリーですよね。歌唱力コンテストでしたっけ、ああいうのもその一環でしょう。
OLE:それはどうだろう。
楠木:AKBがやろうとしているのはテクニカルなことですよね。アイドルの踊りが稚拙で恥ずかしいからそこから脱しようと、そういう「決意」がある。しかしこれはまったくの誤解、浅薄ですね。
OLE:元々は「踊り」を眺め、あーでもないこーでもないと、アイドルを語っていた。踊りと写真くらいしか情報がなかったからね。でもファンが楽しめるコンテンツがどんどん増えてきて、アイドル本来の魅力が蔑ろにされつつある。だからもう一度アイドルのダンスや歌に注目しよう、という動きが活発になってきた。しかし、これは仕方ないのかもしれないが、その注目の仕方がテクニックの競争になってしまった。アイドルも、ファンも、そして作り手も、みんなテクニックを競うことがエンターテイメントの実現だと考えている。でもそれは元々のファンが持っていたアイドルへの鑑賞から遠ざかる行為だよね。アイドルの踊りがアイドルのコンテンツの中心だった頃、アイドルたちはテクニックを競っていたわけではない。テクニックというのは何かを表現しようと試みる際に用いる小道具に過ぎない。輝かしい時代へ回帰しようとしているんだろうけど、的が外れている。
楠木:AKBがそういった隘路に突き進んでいるのはやっぱり乃木坂46がいるからでしょう。主流を過剰に意識する結果、ハズレを引いていくわけですね。乃木坂46が当たりのヒモを握っているから、ハズレを引くしかない。乃木坂と同じヒモを握らないとダメなんだけど、それがなかなかできない。
OLE:当たりは一つだけじゃないと信じているんだよな。でもそんな甘い話はどこにも転がっていない。

島:皮肉的ですね(笑)。
楠木:僕は今年、ブログの影響なのか、わからないけれど、宝塚歌劇関連の仕事を貰えたので、ちょっと気合入れて宝塚関連の書籍を漁り、また足を使って勉強しました。小林一三から、柚香光まで。それでいちいち痛感するのは、宝塚というのは現代の職業アイドルを語るうえで切っても切れない存在だということです。たとえば、宝塚少女歌劇がまだプールを改装したステージの上で踊っていた頃の話ですけど、ある日、少女たちが帝国の舞台に立つことになった。そこで創業者である小林一三は逡巡する。こんな幼稚な踊りしかできない少女たちを帝国劇場のステージに出して良いものだろうか、と。葛藤の末、出演する決意をした。この少女たちの幼稚さ未熟さが求められる場合もある、と閃いたわけです。おそらくここが、アイドル=成長物語のはじまりなんじゃないか、と僕は考える。アイドルという概念は宝塚以前からあるけれど、未成熟な少女に価値を見出し物語化してしまう、というのはここがはじめてなのではないか、と。宝塚の成功とその伝統を考えれば、小林一三の決断が人間の本質への理解に到達したものだということは明白です。そしてそれをシステムとして再起動したのが秋元康ですね。奇跡的ですよ。その奇跡をわざわざ崩すのは馬鹿げている。人間の本質というのはどの時代になっても共通した、普遍的なものです。そういう人間理解が足りないアイドルの作り手が多いようです、最近は。
OLE:差別化に固執しすぎだよね。
楠木:乃木坂とか欅坂って宝塚と強く呼応するものがありますよ。それを端的に言えば、踊りと演劇の愛着です。AKBから坂道まで、作詞家として楽曲の世界観を作る人間がそのままプロデューサーとして働いているわけだから、まあ密接していますよね、音楽とアイドルが。その音楽を表現するための有効手段を考えれば、それは当然「踊り」になる。踊りを眺めて語るべきですよね、アイドルは。そして、ある物語を身体の動きで表現する、となったらこれはもう演技を作るしかないわけです。テクニック、これも大事かもしれないけれど、正直に言えば、テクニックをどれだけ磨いても楽曲の世界を表現することはできないんですね。踊ることで何かを表したい、と考えるなら、演技を作るしかない。乃木坂や欅坂というのはその「演技」をやろうと、立ち上げ以来、ずっと試みているんですね。幼稚だろうが稚拙だろうが、演技を通して楽曲を表現しようとするアイドルを積極的に評価すべきですよ、ファンは。不完全でも粗雑でも構わない、とにかく今これを表現したい、伝えたい、と考え、行動してしまえる少女に価値を見出すべきです。これは文学小説の新人賞の選考とまったく同じ視点ですね。夢の入口に立った人間の内に完成されたものを求めるのは愚かな行為でしょう。可能性を探るのが鑑賞者のつとめです。「アイドル」というのは夢の前段階にある少女の、夢の物語ですから。

「映像作家・池田一真の魅力」

楠木:タイミング良く『最後のTight Hug』のミュージックビデオが公開されたのでさっそく眺めてみましたが、どうですか。
OLE:シンクロニシティ』『Sing Out!』『しあわせの保護色』、あと日向坂の表題にもあったかな、一貫してやっていることは変わらない。良く言えば個性、悪く言えばルーチン。クオリティ、これも一貫して高い。
島:JOYFUL LOVE』に似ていませんか。コンテンポラリーと呼ぶんでしたっけ、こういうの。
楠木:『JOYFUL LOVE』もこの作家だったはず。
OLE:思わせぶりだよね。
楠木:池田一真という映像作家はアイドルを「踊り」で物語ろうという意識を強くもっているとおもう。『サイレントマジョリティー』にアイドルの物語化への意識があるようには思わないけれど、あれはアイドルの踊り=表情が良いですよね。アイドルとか、いろんなものの働きかけによって、撮影する前に持っていたイメージとは別のものがどんどん生まれてきたはずなんですよ、あれは。そうして出来上がった作品が結果的にヒットしたわけだから、経験としては文句なしですよね。経験って「人」を育みつくりますから。秋元康もおなじです。『サイレントマジョリティー』の成功でその後多くの楽曲が同作品に対する啓蒙の帰結を描いている。池田一真のなかでアイドルを表現する際に「踊り」がファクターになるのは当然の帰結なのでしょう。
OLE:これ、カメラがセンターの生田絵梨花を捉えるために画面の中央に移動しても、他のアイドルがしばらく動いてるじゃない?こういう余韻が世界観を作るんだよね。画面の向こうにちゃんと生活があって、登場人物が呼吸している。小説や演劇でいうところの「群像」を書き出す際のかなめだよね。
楠木:アイドルへの理解と熱誠があるんでしょう。これまでにグループが描いた作品への踏襲がしっかりとあって、しかも作品自体は自己への模倣を徹底している。このひとが凄いのはやはり自己模倣をしてもそれが構図の練り上げになっている点です。今作『最後のTight Hug』で言えば、映像世界がこれまでの作品、たとえば『シンクロニシティ』『Sing Out!』『しあわせの保護色』で準備した「舞台」という枠組みから外に出ましたよね。これは、サヨナラのあと、という詩情をしっかりと撃っています。自分の個性を残しつつ、アイドルの卒業を歌った『サヨナラの意味』のさらにそのあとの物語、というグループの過去作品と連なっていることへの魅力をうまく表現できている。
島:そう言われると作家自身が成長しているようにみえますね。
OLE:アイドルって成長がメインテーマだから、それに直に接する作家はたいへんだよな。自分が成長できないのに、アイドルの成長を描けるわけがない。
楠木:今、表題作のMVを中心に乃木坂46のストーリーを追ってみる、っていうブログ用の記事を少しずつ書いているんですけど、その影響か、アイドルのMVを担当している作家についてはそれなりに批評”感”みたいなものが出てきている(笑)。これは熱心なアイドルファンなら一度は経験することだろうけれど、新作のMVが公開されたときに、概要を読まなくても映像を見ればだれの作品か見当がつく。それは換言すれば、しっかりとした文体をもった作家がシーンを支えている、ということなんですね。池田一真はその代表格でしょう。
島:生田絵梨花への情熱を振り切って見てみると、どうですか。抽象的に過ぎませんか?
OLE:思わせぶりだけど、小道具で現実をうまく補強してるんだよ、これ。トランクケースとか電車とか。バランス感覚が良いんだろうね。
島:言い訳が巧みかもしれませんね、この作家は。
楠木:バランス感覚に優れている、というのは見て取れますよね。たとえば、高架線の下、柱のらくがき、という詩を投げられて、それをそのまま映像に出してしまったら、これはもうセンス・才能が欠如していますよね。この感覚を言葉で説明しないとわからない人間というのはおそらく映像作家としてはやっていけないでしょう。高架線の下、柱のらくがき、から想起したものを映像作家が映像として表現する。つまりひとつの音楽を下敷きにした、ふたつの虚構がある、という状況を作る。そのふたつのフィクションを眺めたファンが自分だけの、3つめの世界、アイドルのストーリーを想像・創造する。この、3つ、というところにバランス感覚が求められる。トランクケースや電車は『サヨナラの意味』との連なりを具体的に指しているんでしょう、これは。もっと抽象的にやろうとおもえばできるけれど、やらなかった。これはバランス感覚ですね。
島:抽象的にするのは簡単ですよね。小説もMVも本を書くことにかわりありません。抽象的に書く、これは作家本人はむずかしいことをやっていると信じている場合が多いみたいですが。ここにはこれこれこういう意味を込めているんだ、と。でもそれは実は一番簡単なんですよね。いかようにも捉えることができるっていうのは、言い訳が容易です。池田一真さんにもそういうものが滲んでいるように感じませんか。
楠木:流れ弾』にそういう「抽象」へのきらいがありましたね。
OLE:あれは作家よりも演じるアイドルに問題があるように思うけどな。この点をスポイルしていないかな。映像作家にどれだけ才能があってもそれを演じることになったアイドルに才能がなかったら、どうしようもない。
島:もし『流れ弾』を平手友梨奈が踊っていたら、ファンは絶賛したでしょうね。
楠木:それはそうだろうけれど、問題は、もし平手友梨奈だったら、という視点をファンに与えてしまうような作品を上梓する点にあるんじゃないかな。それを狙っているのであれば、それが奏功したのかどうか、問えば良いし、狙っていない、あるいはそれを振り払おうとした結果、しかし強く平手友梨奈の横顔が想起されてしまった、ということであれば、やはり作家の筆力に問題があるんでしょう。
OLE:作家自身が作品を説明する必要なんてまったくないんだけど、作品が語っていないとダメだよな。
楠木:受け手に任せる、ファンが望むことをやる、ファンに寄り添う。これは結構なことだけれど、まずなによりも先に作家自身が私情を打ち出さないとはじまらない。とくにアイドルのミュージックビデオは。

「成長する作詞家・秋元康」

楠木:ミュージックビデオを踏まえても、『最後のTight Hug』は個人的には今年のベストソングになりそうです。ミュージックビデオそのものの魅力については、これはまだまだわからないけれど、おそらく『君に叱られた』に一歩譲るかな。
島:『最後のTight Hug』は作り手が懐で大切にあたためていた曲ですよね。
楠木:そうでしょうね。前編にあたる『サヨナラの意味』から5年ですか。それだけの時間の流れ、積み重ねへの想いみたいなものが伝わってきますね。実際に作り手のあいだでどういったやり取りがあるのか知らないけれど、もし、グループの快進撃と歩調を共にしてきた作曲家が、生田絵梨花の卒業にあわせて一曲作りたいんだけど、と秋元康から持ちかけられたら興奮するし緊張感も大変なものになるんじゃないのかな。そういう緊張感はアイドルの物語に興味を持っていないと感じられないものだし、緊張がないとこういう曲は書けないでしょう。
OLE:サヨナラのあと、と書いているから『サヨナラの意味』の後日談ということは間違いないんだろう。しかしこれもまた卒業ソングにかわりないよね。作詞家から見た「君」を生田絵梨花と捉えると、アイドルの卒業とは、絶対に食い止められないものなんだ、もう自分の力ではどうすることもできない、と告白している。アイドルとの別れ、これは恋人との別れなんて甘いものじゃなく、別れた恋人の結婚という破壊力抜群のイベントなんだと言っている。諦めたくないけれど諦めるしかない、というところまで思考が突き進んだんだね。おもしろいよ、この詩は。
楠木:恋人というのは別れてしまったら、それはある意味では「死」にほかならない。これまでほかのだれよりも身近な存在だった人間がある日突然他人になる。ほかのだれよりも「他人」です。死ぬわけです、自分のなかで。しかしそれは一方で、その失ってしまった恋人が自分のなかで永遠に若いままでありつづけるという、好きだった頃のうつくしい彼女のまま保存されるという意味でもある。だから心地良いわけですね。思い出に浸ることが。ヒッピーみたいに幻想の旅に出る。モノローグをフィクション化する、現実逃避というか自問自答の日々がはじまるわけです。厄介なことに、そういう情況に陥ると、別れた恋人も自分と同じように葛藤しているんだ、立ち止まっているんだ、と考えてしまう。だから、自分の行動次第ではまだまだ未来が変わるぞ、と信じることができる。悩み、行動できないまま時間だけが過ぎていく。しかし現実というのは容赦ないもので、そういった個人的な問題とはまったく無関係にどんどん変化していきます。気付いたら自分だけ置き去りにされてしまっている。まわりを見ると、みんな生活を一変し前に進んでいる。もちろん、別れた恋人も、です。そういった、現実との直面、甘美でやわらかなものを、やさしく、しかし確実に破壊するものとして「結婚」を用意した。この歌で一番おもしろいのは、移動をしない「僕」、というのを徹底的に描いてきた作詞家・秋元康が、その「僕」を揺さぶっているところですよ。片思いのあの子が自分に告白してくるのをただじっと待っていたり、電車に揺られる乗客をただ眺めていたり、とにかく移動をしない「僕」の移動を満を持して書くのではなくて、大切なひとを失ったあとでさえも同じ場所に座り込んでいる「僕」を揺さぶり、現実にはじき出そうとしている。この点がスリリングにおもう。物語を書く、ということに強い憧憬があるからこうした詩が書けるんですね。『サヨナラの意味』は卒業を書いた曲だから、もうそこから先はないわけです。でもその先が書けてしまう。これは作詞家に物語を編むことへの憧憬があるからです。
OLE:ここ最近の秋元康は「捨てられる主人公」の物語ばかり書いているよね。とにかく悔悟する主人公を書いている。年齢的なものなのか、山口真帆の件の影響なのか、コロナなのか、わからないが、たしかにこの変化は成長に見えるね。
島:現実に揺さぶられ、ここからどうすればいいのか、葛藤する。これはわかりやすい投影じゃないですか。
楠木:秋元康の場合、アイドルにその投影をぶつけて物語にしてしまえるから、ちょっと並みではないんですね。
OLE:物語を書くことのメリットには、テーマが重複し似たりよったりの作品になったとしても、ほぐして読むことで違いがしっかりと出てくる、というのがあるだろうね。
島:アイドルソングを作る以上、同じテーマの上で書くしかないという情況に置かれてしまいますよね。その打開策として散文に傾倒しているんじゃないんですか。
楠木:打開策ではなく憧憬ですよ。たとえば『君の名は希望』をもとに物語を作っていこうと作家自身が興奮するから『何度目の青空か?』や『サヨナラの意味』という傑作が生まれる。『君の名は希望』から続く物語が破格に映るのは、転がってきたボールを拾ったあの「僕」が、「君」=「希望」を失うというストーリー展開を通して、アイドルの卒業、つまりアイドルとファンの別れという喪失を経験できるからなんですね。安易に、共感されること、を書くのではなく、これからアイドルやファンが経験するであろう感情を記している。迎え撃とうとしているわけです。

「今年もっとも優れた踊りを作ったアイドル」

楠木:前置きが長くなってしまいましたが、ここから本題に入りたいとおもいます。
OLE:今年のアイドルシーンにおけるダンスの最優秀選手を選ぶとなると、結局、乃木坂46の中から、ということになるよね。表現力を問うとなるとAKBグループはもうちょっと次元が低すぎるでしょう。
楠木:演技ができないですからねAKBは。でもAKBのほうから一人挙げようと思ってたんですけど(笑)。
OLE:だれ?
楠木:NGTの小熊倫実ですね。『Awesome』のステージパフォーマンスを観るに、なにか言葉では説明できないものをもっていますよこのアイドルは。これ、NGTのことを何も知らずにこの楽曲を眺めたら、彼女がセンターだと思いますよね、きっと。それくらい存在感があります。
島:笑顔に鷹揚がありますね。
OLE:なるほど。不思議な空気感があるな。
島:センターの子がしっかりとセンターとして踊っていますよね。でもたしかに演奏が始まってから少し経つと視点が移ってしまいますね。演出の効果もあるんだろうけど。
OLE:才能ということになるのかな。
楠木:これは何なんだ、なんて言ったら作家失格ですけど(笑)。でもこれは一体何なんでしょうね。希求されます。
OLE:こうやって実際に名前を挙げてみて、その場面を一緒に観るというのは面白いね。
島:面白いですね。
楠木:踊りに関しては、今年のAKBグループのMVPは彼女かなあと。この存在感の強さは希望になりますよ。
島:僕はやっぱり乃木坂46の遠藤さくらさんを推したいですね。
OLE:FNS歌謡祭で踊った『ごめんねFingers crossed』でしょ?
島:はい(笑)。
OLE:おなじだ(笑)。
島:僕はアイドル観みたいなのはお二方にならっているので、たぶん、これが一番アイドルの演技の良さみたいなものがよく表れているんじゃないかと。踊りなのに演技ですよね。ミュージックビデオの世界観が壊れていない。それを当たり前にできている、って気づいたときに、このアイドルにはずば抜けた才能があるんだろうな、と確信してしまった。
楠木:そういった発見に対する興奮が一番強いんですよね。どんな批評よりも(笑)。
OLE:こういう踊りが作れるのは遠藤さくらだけでしょ。あとこれは劇場とかライブ・コンサートでは撮せない表情だよね。テレビカメラにしか出来ないことをちゃんとやっている。こういう挑戦は価値があるよ。
楠木:久保史緒里も良いですよ。ほとんど映ってないけど(笑)。なにやらキャラを演じてますよね。しっかり踊りで演技してますよ。
島:そう言われるとたしかに動きがちょっと工夫されてますね。設定がある。
OLE:さすがだな(笑)。
楠木:ちょっと話題がズレるけど、久保史緒里って貴重な「僕」ですよね。秋元康が記す詩的世界には「僕」と「君」がいるわけだけど、ほとんどのアイドルは「君」なんですよね。たとえば生田絵梨花、彼女は『君の名は希望』でアイドルの自我を芽生えさせていますから、当然、「僕」ではなく「君」ですね。秋元康が「僕」であり「君」がアイドルである、という構図に立っている。『何度目の青空か?』『サヨナラの意味』『最後のTight Hug』も「僕」の視点のさきに立つ「君」としてアイドルがある。つまり「君」として生田絵梨花の横顔が想起される。これは西野七瀬もおなじですよね。一方で白石麻衣、彼女は「僕」ですよね。『シンクロニシティ』『僕のこと、知ってる?』『しあわせの保護色』に描かれた、迷子になる「僕」、これは作詞家が自己をアイドルに重ねて語っています。ここに秋元康の性格がよくあらわれていて、啓蒙と写実の対峙があるようにおもう。アイドルが眼の前にたしかに在る、というとき、アイドルが「君」に宿る。ではアイドルが見えてこないときどうするか、というと、写実を試みるしかない。アイドルを仔細に眺めてそのまま原稿用紙に写してみる。つまり投影ですね一種の。そうすると「僕」にアイドルが宿るわけです。久保史緒里はおそらく「僕」に宿っているとおもうので、『最後のTight Hug』の主人公になりきれるんですよ。要するに、生田絵梨花の喪失という物語を描ける貴重な存在なんですね。生田絵梨花と同じ側の「君」では『最後のTight Hug』の主人公にはなれないわけです。主人公を演じるならば「僕」でなければならない。「僕」であるからこそ生田絵梨花の喪失を想えるわけです。そして実際に彼女はすでに喪失を語りはじめているでしょう。そういう思惟は踊りにしっかりと現れてくるはずです。来年、これまで以上に力強く飛翔するだろうな、このひとは。
島:齋藤飛鳥はどうですか。
楠木:齋藤飛鳥はいまいちわかりませんね(笑)。「僕」であり「君」であるんでしょう。どちらかといえば「僕」なのかな。
OLE:齋藤飛鳥ってもう2年センターに立ってないんだな。
楠木:名脇役になりつつありますね。でも存在感は頭ひとつ抜けてるでしょう。踊りの実力で言えば間違いなく一番だとおもいますよ。ただ、それを証す場面を探るとなると、なかなか思い浮かばない(笑)。MVの演技なら『君に叱られた』を挙げることができるけど。
島:乃木坂以外ではどうですか。
楠木:日向坂の丹生明里が『声の足跡』を単独センターで演じたライブがあるんだけど、そのときの表情がとにかく素晴らしかったな。僕は今年のMVPは彼女だとおもう。
OLE:アイドルのアイデンティティが壊れるかどうか、ってやつでしょ。
楠木:センターに立ってもアイドルの核が壊れなかったですよね。それだけで他を圧倒しているとおもいますよ。大器ですね。
島:それはアイドルへの評価じゃないですか?
OLE:うーん。アイドルの踊りを見ているわけだから、それはつまりアイドルへの評価になるよね。
楠木:順序への問いですよね。僕が丹生明里を素晴らしいアイドルだとおもうのは、踊りが良いから、ということになります。丹生明里を高く評価するからには彼女の踊りを特別に扱わなければならない、とは言っていないわけですね。
島:なるほど、その思考がそのまま彼女のアイドル評になっているわけですね。
楠木:そのとおりです。もちろん、すべて踊りを軸にして考えている、なんて都合の良い話ではないですけど(笑)。しかし開き直れるくらいの根拠はある、ということです。
OLE:丹生明里は別にしても、そもそもそういう順序は気にしても仕方ないと思うけどなあ。
楠木:もちろん。まずアイドルの日常がある。そしてその続きがステージの上で語られる。当然その逆もある。丹生明里の踊りには、日常と隣り合わせになったもの、があるんですね。ということで、本題に話を戻すと、もう結果は出てしまいましたね(笑)。やはり遠藤さくらですか。
OLE:そうだね。ちょっと桁違いでしょ。このアイドルは。
島:僕も一貫して彼女ですね。

結果、2021年、もっとも優れた踊りを披露したアイドルは、乃木坂46の遠藤さくら、となった。該当作品は『ごめんねFingers crossed』(FNS歌謡祭)。

 

2021/11/17 楠木

   

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